第三百二十一話【厄介】
その日は凄く蒸し暑い日だった。
朝早いってのにじっとりと汗をかく、なんともストレスの溜まる日。
原因は夜中に降った雨……らしいけど……
「アイツら……大丈夫かな……」
ちょっと早い気もするけど、もう夏が来るんだな。そう思える朝の空気を吸いながら家を出て、僕はふたりのいるマンションへとやって来た。
アーヴィンや王都には、ここまで湿度の高い日は無かった。慣れない気候にやられてないと良いけど。
筋肉痛は多少マシになってる。これならまた、ふたりを連れて散歩に出られそうだ。そんな前向きな考えで頭を満たしながら、借りてたカードキーでエントランスを抜ける。
今更思ったけど、これを僕が持ってるってことは、ふたりは家から出られないんじゃ……?
「おじゃましまーす……じゃないか。ただいま、ふたりとも。今朝は随分蒸すけど平気か?」
昨日の今日では望月さんも来れないだろう。玄関には小さい靴がふたり分だけ並べてあって、無遠慮に開けた玄関の音にも誰も反応しなかった。
どうしてこいつらは部屋の鍵を閉めないんだろうか。答えは単純、そんな文化が無いから。
いえいえ、アーヴィンにも王都にもその他の街にも、家のドアにはちゃんと鍵が付いていましたよ。
無いのは、鍵をすれば安心という通常の考え。
つまり……鍵なんてお構いなしに侵入出来ちゃうが故の……
「だったらせめて警戒はしなさい……はあ。寝てるのかー、未来、真鈴。来たよー」
DVDプレイヤーと空になった弁当の容器しか置いてないリビングにふたりの姿は無く、空き巣やら強盗やらへの警戒心の無さだけが雑に放り投げてあった。
今朝はいつもより早かったし、寝坊助未来と星見に手一杯の真鈴がまだ起きてないのは必然か。
「……しょうがない。朝ご飯だけでも買って来とくか。毎日毎日コンビニ弁当でごめんな、起きたら一緒にスーパー行こうな」
誰に約束するでもなくそう呟いて、僕は無人とすら思える部屋を後に……後に……本当に無人じゃねえだろうな? え、怖。あり得ちゃう。
おなかすいた。ごはんない。こんびにいこう。みたいな、お金持ってないのを忘れたお寝坊さんムーヴで未来が徘徊してる可能性……
「——っ⁉︎ 未来! 真鈴! いるよな⁉︎ 寝てるだけだよな⁉︎ おーい! こら! 起きて!」
あり得る。
ぞわわっと鳥肌が立って、蒸し暑さも忘れて背筋が凍る。
そんな……そんなことになったら、あいつら部屋に帰って来れないじゃないか。
部屋の鍵は開けっぱだけど、エントランスの方で締め出される。
寝ぼけてるのと不慣れなのですっかり忘れてて……なんてのは十分にあり得る!
女の子の部屋。女の子の寝室。そう思って入らないようにしてたけど、こうなったら話は別だ。
そもそも毎日毎日……毎日毎日毎日毎日ずーっと一緒に寝てたんだ、ミラとは。
それに、マーリンさんもすぐ寝てるとこにからかいに来るし、おあいこだろう。
焦りは倫理観を蹴飛ばして、僕にその部屋のドアを開けさせる。そうして入った部屋には……
「あっつい……あっついわ……。アキト……なんだってこの町はこんなにムシムシするのよ……」
「……暑いならくっ付くのやめなさい」
あっついあっついと文句を言いながら、真鈴をぎゅうと抱き締めて寝転がっている未来の姿があった。
あついあついとうなされながら、手足を投げ出してされるがままになっている真鈴の姿があった。
そう……あの……こう……おバカの姿がそこにはあったのだ。
「はあ。お前はほんっとうに甘えん坊なままだな。なんか最近は寂しくなるくらい立派な勇者になったと思ってたのに」
「あついぃ……バカアキト、なんとかしなさい……このままじゃ溶けるわ……」
なんとかもくそも、だから離れなさいってば。
いったいどれだけ真鈴が気に入ったんだ。どれだけお姉ちゃんという立場に憧れていたんだ。
ツッコミたいことはたくさんあったけど、しかしぐでぐでにノビた姿はいたたまれない。
未来ではなく、その被害者の真鈴の話です。ので……
「なんとか……あー、ちょっと待ってろ。多分あるよな、こういうとこって」
「……? なんかあるの? 冷たいお水とか」
お水は蛇口ひねったら出ます、そこは向こうも変わんないでしょうが。っとと、急がないと真鈴が溶けて無くなる。
一向に動く気配も手放すつもりも無さそうな未来を寝室に残して、僕はリビングへと戻った。
うんうん、やっぱりそうだ。この部屋には必須とも言える家電がそれなりに揃っている。
冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機。そして……
「おーい、バカ未来。ちょっとしたらこっちの部屋が涼しくなるから、真鈴持って起きて来なさい」
「ほんと? ほんとに涼しくなるの? うぅ……あっつい……」
だから、あっついなら離れなさいってば。
お気に入りのぬいぐるみを抱きかかえる要領で抱っこされている真鈴の、そのかいてる汗の量がただごとではない。
ちょっ、脱水症状になるから。熱中症にもなるし。
て言うか、そういうのでお前らが倒れたらヤバいんだぞ。
僕に保護する能力が無いとなれば、ふたりとも施設かどこかに引き取られかねないんだから。
「……? 窓開けたの? でも、外もあっついわよ。じめじめした風が入ったり入らなかったりするだけで……? あれ、この風……」
気付くの早いってば。けど、今回はいいか。本当に暑くて参ってる感じだったし、早く涼しくしてやらないと。
だらーんと脱力したままながら、目をパチクリさせて、未来は壁の高いところをじーっと見つめている。
風の出所、正体。それが道具だとすら気付いていなかった、備え付けのエアコンを。
「……僕の部屋のより冷えるの早いな、このエアコン……っ。流石にいいとこ住んでるだけはあるか……」
「えあこん? なんだか分かんないけど、冷たい風が出てきた……えへへぇ」
これなら快適ね。なんて言いながら、まださして涼しくもなってないだろうに、未来はまた真鈴をむぎゅーっと抱き締めて……見てるこっちが暑苦しい……
「もうちょい涼しくなるまで我慢しろよ……まったく。ひとまず、真鈴が起きるまではここで寝転がってなさい。僕は朝ご飯買ってくるから」
「んーっ。んふふ、つめたーい。こんなのもあるのね、この世界には。
でも……ふふん。これくらいなら魔術でも出来るわ。まだまだね、えあこんとやらも」
なんで張り合うの。そのエアコンが無かったらまだしばらくあっついあっつい言ってただろうに。
まあ、魔術禁止って言ったのは僕だからな。この部屋の中でくらいは良いよと言ってあったら、ふたりは快適空間を形成してたことだろう。
いえ、それで家電に変な影響出ると困るし、やっぱり解禁はしない方が良いと思うんですけどね。
僕はまた部屋を出て、そしてコンビニに朝ごはんを買いに行く。
不用心だと常識では分かっているのに、どうにも用心の必要性を感じさせない入居者に、施錠という行為をスキップしてしまった。
いえ、スキップせざるを得なかった、です。家主が寝てるから、鍵の在処が分かんねえんだよ……っ。
「弁当とおにぎりとお茶とジュースと……カップ麺は……やかんもポットも無い……あったっけ? まあ、無ければそれはそれで出掛ける先が出来るだけか」
じゃあ買おう。
カップ麺にインスタント味噌汁、それとレトルトカレーに麻婆豆腐の素。
うん、現代最高、コンビニ最強。おっと、豆腐買わなきゃ。
いや、食材は鍋買いに行くついでにスーパー寄れば良いか。
安いしね、そっちの方が。なんて主婦みたいな考えごとをしながら、この後について色々と思案する。いえ、お散歩コースではなく。
もっと……もっともっと大切な、重大な問題。重大な問題の前の重大な問題というのがより正確か。
「……返信は……無い、か。そりゃそうだよね、話終わったもんね。となると……このスタンプは、空気読めてない無駄なものだったのでは……?」
胃がキリキリするぅ。
僕を悩ませているのは、スマホの画面に映った謎のyeah猫と動くクラッカーのスタンプ。
つまりは昨晩の花渕さんとのやりとり——今夜の予定の話だ。
魔獣についての話を花渕さんとしたい。
あの時見えていたものは理解不能な謎生物だったのか、ちょっと大きい犬だったのか————この世界において、魔獣はどのような性質を持って現れているのか。それを確認しないことには……っ。
大きなイノシシが町中に現れた……と、母さんは言っていた。
ニュースにする都合、謎の生物が……なんて要領を得ない言葉で濁すことも出来なかったのだろう。
だから、とりあえず身近なイノシシで……違うよ、田舎じゃないよ。
実際たまにイノシシは出るけど、田舎じゃないよ。ごほん。
分かんなかったから、とりあえずイノシシという生き物としてしまった……のならば問題は無い。
「……問題があるとしたら……っ」
そうだ。
“見えない”って特性の危険性は、僕達がいちばんよく知ってるつもりだ。
不可視の魔獣——あれは本当に誰にも視認出来ない異常な魔獣だった。
けれど、それとは別の不可視——“魔獣には見えない魔獣”という可能性が、この現代ではより危険なものになってしまう。
犬や猫に見えたなら、誰も警戒心なんて抱かない。
もし……もしそれで、誰かが傷付いてしまったら……
「……っ。不安は後だ、後……いや、真鈴にも相談しよう。昨日はずっと寝てたし、望月さん来てたし、DVDで盛り上がっちゃって聞きそびれたしな。うん……」
いえ、忘れてたわけではなくて。
パンパンになったビニール袋をふたつぶら下げて……袋有料なの、こういう生活だと地味につらいな。
気にする額じゃないんだけど、なんか……毎回だと……なんか……さ。
エコバッグ持ち歩くか……と、指に食い込む細くなったビニールにそんなことを思いながら、ご飯と不安をいっぱい持って、またマンションの一室へと帰った。




