第三百十六話【日常の裏】
僕達は今日も三人で町をお散歩し続けた。
特別面白いものがあるわけでも、観光地なわけでも、ましてや変な生き物の姿を目にするわけでもない。
けれど、それには重大な意味があって、そしてふたりにとって……この世界にまだ馴染んでいない異世界からのお客さんにとっては、まだまだ新鮮なものだった。
「それじゃあ僕は帰るから、ふたりとも大人しくしててよ。
誰か来ても部屋に上げないこと、夜になったら出歩かないこと、朝ごはんの分は残しておくこと。いい?」
「はーい……って、なんだかすっかり保護者みたいだね、アキト。むむむ……それは僕のセリフだった筈なのに……」
今は真鈴がちびっ子だからね。
さて、そんな新鮮で楽しいお散歩も切り上げて……ううん、僕の為に切り上げて貰って、か。
まだフラフラする足取りで、僕はふたりの部屋を後にして自宅へと帰る。兄さんと母さんのいる原口家へ。
まあ、平日だからふたりともしばらく帰って来ないけど。
ただいま。と、玄関を開けてそう言っても、やっぱりひとりだから返事なんて無い。うん……寂しいな、これ。
「……慣れてた筈と言うか……はあ。やっぱりマーリンさんの言う通りか……」
誰かがそばにいるのが当たり前。これもまた、僕……秋人とアギトの差だろう。
かつての旅の間に何度も抱いた孤独感……そこまで仰々しいものじゃないけど、どうしようもない寂しさ。
寝て起きた時に布団の上でひとりぼっち、兄さんと母さんが先に出払ってしまえばこれまたひとりぼっち。
ふたりよりも先に帰ってもやっぱりひとりぼっちと、ずーっと誰かと一緒だったアギトの生活と比べると、どうしても……寂しい、ぐすん。
「でも……帰らないわけにもいかないからなぁ。いっそふたりに打ち明けて、しばらく向こうで寝泊まり……いやいや、ダメダメ。僕はアギトじゃない。秋人としてもしっかり生きていかないと」
玄関で靴を脱ぐと、疲労と痛みが同時に襲ってくる。
これがあるから……と、まだどうにも不安そうな顔をしがちな未来の姿が浮かぶ。
また……また、こっちでも僕が足を引っ張ってる。
むしろ先頭を歩かなくちゃならない、引っ張って行ってあげなきゃいけない僕が。
「——っ。落ち着け落ち着け……深呼吸……すーはー……」
身体はまだ弱ったまま……すぐに回復するなんてものでもないし、仕方ないかもしれないけど。
でも、だからってゆっくりしてる暇も無い。
仕事に戻らなくちゃならないって事情と、魔獣をどうにかしなきゃならないって事情。
仕事にはマジでもう一刻も早く戻んないと、迷惑掛けてるのもそうだけど……元来の怠け癖がね……っ。
何もしてない期間が続くと……戻れなくなりそうで……
そして魔獣の問題はもっと深刻。
あれ以来……家の前で花渕さんと一緒に見かけたあの魔獣以来、その姿を僕達は一度も目にしていない。
あれっきり、もう大丈夫……と、そうなってくれないのは分かってる。
けれど、散々歩き回っても、魔獣そのものどころか異変や異常……痕跡の類も見つかっていない。
「……こういう時、いつもどうしてた……? マーリンさんはいつもどうやって僕達に課題を見付けさせてた……先に問題へ辿り着いてた。ミラの感覚を最大限活かすには……」
ぐぐぐ……アギトとして常にギリギリで生きてたのが……っ。
ずっと目一杯と言うか、自分のことで手一杯で、ふたりがいつもどうやって僕を守ってくれてたのかの詳細が分からない。むぐぐ……この無能……
しかし、悶えていても話は始まらないし進まないし終わらない。
杖をさっさと片付けて、僕はひと足先に布団へと飛び込んだ。
あっ……いかん、寝る。ちょっと仮眠して……と思っての愚行だったが、これガチ寝しちゃう。やり過ぎた感のある疲労が瞼を重く……
ただいま。という声で意識は戻ってきた。あっぶね、一日潰すとこだった!
時間は……夕方の五時、声の主は母さんかな?
兄さんは……もう帰ってるのか、それともまだ……
「……? っとと、通知来てる。誰から……かは、まあ……うん、予想通りだったけど」
ふたりを出迎えに行こう。と、スマホだけポッケに突っ込もうとした時、ちらりと映った画面に一件のメッセージが届いている旨の通知が見えた。
まあ……予想もクソも無いんだけど、送り主はデンデン氏こと田原さん。
いや、田原さんことデンデン氏? どっちでも良いか、そこは。
して、その本文もやっぱり……予想通りなんだけど……
『快復おめでとうでござる記念にゲームしましょうぞ、ゲーム。もう自宅には帰られたのでしょう? 美菜ちゃんから聞きましたぞ』
「……ゲーム……ゲームっ⁉︎ はっ⁈」
そうじゃん、こっち戻ってからゲームなんて全然やってなかったわ。
うひょーっ! 久しぶりにガッツリ遊んじゃうぞーっ! と、一瞬だけ浮かれて…………ええ。
PCの電源ボタンを押して、その手応えの無さと何も映らないモニターを見て…………僕は涙を飲んでリビングへと向かう。
デンデン氏……ごめん……
「……ごめん……PC壊れた……PC……僕の心臓が……」
『おおふ……泣きっ面に祟り、弱り切った蜂ですな……』
後半ただの蜂だよ、それもまあまあ無害なやつだよ。なんて小ボケを挟んでやりとりしつつ、僕は氏に改めての快復の報告と、そして感謝の言葉を送る。お見舞い来てくれたらしいしさ。
それに……きっとお店のことも気に掛けてくれただろう。
これについては僕の願望とか氏の人柄とかじゃなくて、お店同士が協力関係にあるという事実から。
向こうからしても、小さいながら宣伝になってる筈だしさ。
「おかえり、母さん。兄さんはまだ……か。うう……もしかして僕がずっと寝てたからまた無理してる……? 前はこのくらいの時間には帰ってたのに……」
「ただいま、アキちゃん。ケンちゃんなら買い物に行ってくれてるだけよ、心配しないで。
それより、アキちゃんの方こそ大丈夫? なんだか昼間に出掛けてたみたいだけど」
げっ、バレてる。
リハビリして早く仕事に戻らないとね。なんて適当に誤魔化すけど……ぐぐぐ、いつも通りだとするなら、この雑な嘘は余裕で見破られてるんだろうな。それでも突っ込まないでくれてるけど。
「そうだ、アキちゃん。お出掛けするのは良いけど、気を付けてね。ニュースでやってたんだけどね、大きいイノシシが出たらしくてね。
動物なんて臆病なものだから、襲われたりなんてことはなかなか無いだろうけど……」
「っ。い、イノシシ……かあ。確かに、出会ったら逃げらんないしね……気を付けるよ」
大きいイノシシ……か。
拳をぎゅっと握って奥歯を噛む。きっとそれはイノシシなんかじゃない。
あの魔獣……ニュースで取り上げられたってことは、それなりに人目に付く場所にも出てるってことか……?
いや、そもそも僕が見たのだって住宅街のど真ん中だった。
僕は……魔獣ってものが何か知ってて、それなりに数も見てきたから、イノシシじゃないと断言出来た。
でも……いや、待て。もしかして……
「……みんなには違う姿に見えてる……なんてこと……?」
あり得る……のか?
だってそうだ、僕とミラ、そしてフリードさんにはそれがしっかりと知覚出来なかった。
ポストロイドの燃料、それと原料。
技術的な革新をもたらした未知の物質は、僕達の常識には一切当てはまらない————この世界での未来と真鈴のリアクションを思えば、ただ存在しないというだけじゃない。
あれには、未来永劫現れないという意味を含んでいた筈だ。
じゃあ……魔術なんてものの存在しないこの世界における魔獣ってのは……
「アキちゃん……? 大丈夫? 顔色が悪いわ、ちょっと座ってなさい。お茶淹れてあげるから」
「えっ、あっ、だ、大丈夫! お茶なら僕が淹れるよ、母さんこそ座ってて」
あの時、花渕さんにはどう見えていたんだろう。
もし……もしもあれがただのイノシシに見えていたなら。
そして……それがイノシシに限らない——もっと無害で可愛らしい子犬や子猫の姿に見えてしまう可能性があるとしたら……っ。
結局無理矢理ソファに座らされてしまった僕は、どうにもそわそわしたまま母さんの淹れてくれたお茶をすすった。
普段なら落ち着く筈の温かい苦味も、今日のこの時に限っては全然味気無い。
「……もし……もしそうだとしたら……っ」
いつかアレが実体を持った時、計り知れない規模の被害が出かねない。
危険には近付かない。それはアギトとして散々思い知った、生物の当然の反応だ。
やばいもんを見たら、本気で逃げようと身体が拒否反応を起こす。
でも……もしそれが人を惹きつけるものだったなら、みんな迂闊に近付いてしまう筈だ。
そして……結局何が危険なのかも分からない内に魔獣が蔓延って……
明日、お店に行こう。
花渕さんにちょっとだけ話を聞いて、そしてその危険性だけはしっかりと確認しておこう。
その上で真鈴と未来に相談して……
「……うん、そうだ。よし。ごちそうさま。ごめん、ちょっと早いけどもう寝るね。張り切って歩き過ぎちゃった、もう……ふわーぁ……ヘトヘトで」
「あら、そう? じゃあ、ご飯は冷蔵庫に入れておくから、温めて食べなさい。ちゃんと着替えて寝るのよ」
子供か。いや、相手が母さんなんだから僕は当然子供なんだけど、そうじゃなくて。
むぐぐ……どうにもまだ立派になったとは思われてないのだな……なんて悔しさも抱きつつ、僕は重たい足を引きずってまたベッドへ身を投げ出した。
やること……やるべきことはたくさんある。でも、一個一個丁寧に行こう。
今回、時間に制限は無いと言われた。
言われたけど、だからって何ヶ月も掛けて良いわけじゃない。
こっちで時間を使えば使うほど、向こうでの生活に支障をきたす——今の僕みたいにアギトもミラもマーリンさんもヘロヘロになってしまいかねない。
それに……エルゥさん達にめっっっちゃ迷惑掛ける……っ。
丁寧に、けれど迅速に。具体性の無いそんなイメージだけを念じながら、僕は布団を頭まで被った。
さっさと寝て、さっさと起きよう。そもそも仕事に戻るなら生活サイクルも整えなくちゃだしね。
さっきちょっと寝たってのに、瞼を閉じると僕の意識はすぐに切れた。




