第三百二話【十七歳】
身体は全然言うことを聞いてくれない。
前に進みたいと、走りたいと願っても、どちらかと言うと地面ばかり目にしていた気がする。
前は見えない、顔が上がらない。息がまともに出来ない、ちょっと歩いただけで脇腹が痛くなる。
緊張……も、きっとあった。
マーリンさんは言ってくれた。アイツはこんなことでアギトを嗤ったり嫌いになったりしない。
それは僕もそう思った、アイツはどんなことがあっても誰かを嘲笑うやつじゃない。
でも……でも、かっこいいお兄ちゃんになりたいって、そう思って……欲張って、逃げ出したくて。
でも……でも、もう変わってしまった。
頭の中にある答えと、胸の中にある感情と。その両方がロクに動かない足を前に進ませる。
——会いたい——
ミラに会いたい。会ってお礼を言いたい。
他の誰よりも僕が——秋人が、アイツに言いたいことがある。
いっぱいいっぱい言いたいことがある。
アギトじゃなくて、秋人として。アイツに感謝を伝えなくちゃならない、伝えたい。
そう思ったから——
「——いた——っ! ミラちゃん!」
へろへろの僕に案内されて、マーリンさんは僕より三歩先に公園に飛び込んだ。
何かあるわけでもないただの広場に、彼女は嬉しそうな顔を向けて声を上げる。
居た——ってのは、そう——
「————ミラ————」
——黒いTシャツにカーキ色のハーフパンツ。
それとボタンをひとつも止めてない白い長袖シャツ。
見慣れ過ぎた格好の、見慣れ過ぎたオレンジの頭。
翡翠色の目をこっちに向けて、あまりにも場違いな風体のミラがそこには立っていた。
「——ミラちゃん! 良かった、すぐに見つかって。
ほら見たことか! 僕が失敗なんてするわけないだろ!」
ミラちゃんミラちゃん! と、マーリンさんはまだ状況を飲み込めていない少女の周りを飛び跳ねて、そんな姿にミラは……
「……? ええと……? も、もしかしてマーリン様……ですか……?」
「っ! そうだとも! えへへ、流石はミラちゃんだね。どっかの誰かさんは全然気付かなかったってのに」
誰かさん……と、その人が僕に目を向けるから、ミラも釣られてこっちを向いた。
そして……じーっと見つめて、首を傾げて……
「……アギト……? アギト……なの……?」
「……っ。そう……だよ。僕が……僕がアギト……の、本当の……」
っ。
ミラはまだ状況を理解し切ってない。
マーリンさんが小さくなったことも、僕が大きいことも。多分、どっちもキチンと理解出来てない。
変化であることと、逆戻りであることの違いを。
でも……ミラは賢い子だから。
これが召喚術式によるものだとすぐに理解するし、そうなればこの状況がなんなのかも把握する。
そして……僕の言葉の意味にも辿り着く。
ミラは段々と顔を青くして、そして……あわあわとして……ん? そ、それは想定外だぞ⁈
「——あ、ああああアギト……さん……? あ、アンタ……じゃなかった。貴方……お、大人だったの……っ⁈」
「うぐっ……ま、まあ……見た目も振る舞いも子供過ぎたと思うけどさ……」
くっ……自覚あったけど言われると傷付くな……っ。
でも……うん。そっか……そりゃショックだよな。
歳が近いと思ってた、それで懐いてたわけだし。
それがこんなおっさんと知れれば、年頃の女の子としてはそりゃあ……
「あわ……あわわわ……ご、ごごめんなさいっ。て、てっきり私と同い年くらいかと思ってて……な、なんだか色々失礼なことを……」
「い、いやいや……それは別にいいよ。大人だからって偉いわけじゃ……」
そういうわけには……。と、ミラはおろおろしだして……そうか。そういえば……この子はこれで礼儀正しい子だった。
ちょっと何かあると悪態つくし、敵には躊躇無いし、マーリンさんにも遠慮が無くなったけど……敬うべき相手には相応の態度と言葉遣いで接せられる偉い子だったな。
嫌いにはなられてない……みたいだけど、ちょっとだけ距離取られちゃったかな……でも、このくらいなら……
「……いや……でも……いえ……うん。そうね……よし。
そうよ、ちょっと大人になった程度じゃ何も変わんないわよね。
アンタとは長い付き合いなんだし、情けないくらいヘボなことはよく知ってるもの。
むしろ……大人だったのにあんなんだったことに驚くべきよね……」
「やめてよ! おまっ……言って良いことと悪いことが世の中にはだな……っ」
一瞬でリスペクトが消滅した⁉︎ ちょい待って、今の数秒の間に何があったの⁈
ミラはもう怯えもせず狼狽えもせず、いつもの悪ガキの顔で僕の周りをうろちょろし始める。
な、なんだよ……撫でるぞ、良い子良い子するぞ。
いえ……こっちですると通報されかねないんだけど……
「……うん、いつも通りね。バカアギト、大人になっても全然変わんないじゃない。
安心……じゃないわね。今更アンタ相手に遠慮したのがそもそも間違ってたのよ。何も無かった……で、それで終わり」
「お前……反抗期反抗期と思ってきたけど……もしかして、なめられてる……? お兄ちゃんをなめ腐ってる……?」
誰が誰のお兄ちゃんよ。と、そう言って笑う姿は、もう向こうで見るのと何も変わらないものだった。
そんなミラにマーリンさんは抱き着いて、ほら言った通りだっただろうと言いたげな目を僕に向ける。
うぐ……うぐぐ……確かに、こうなってみると、さっきの不安全部が馬鹿らしいものに感じられるけども……
「それで……マーリン様、ここはどこでしょうか。その……全然見たことの無いものばかりで……」
「えっとね、ここはアギトの……」
——アキトさん——?
女の子の声だった。
聞き覚えのある女の子の声で名前を呼ばれた。
それにいち早く反応したのはミラで、ミラが振り返ったからくっ付いてたマーリンさんもそっちを向いて。
で……最後に振り返った僕の目の前には……
「……っ。アキトさん……待ってるからね。大丈夫、お店は私が守ってるから。
ちゃんと償って、改心して、また元通りの真面目なアキトさんになって帰って来てよ……っ」
「——ストァーップ——っ⁉︎ 待って! 待って‼︎ そのやりとりはデンデン氏とするやつ! 花渕さんが言うと本当に洒落になってないから!
そのスマホ一回しまって! 話を聞いてくださいお願いします——っっ‼︎」
……悲痛な面持ちで、けれど頑張って笑顔を見せて、そして震える手でスマホを操作する花渕さんの姿があった。
待って——っ! 本当に待って! 通報しますた。は! デンデン氏とのやりとり限定だから! 花渕さんがやると本当の本当に洒落になんないから!
「だって……っ。だって……アキトさんに知り合いなんていないじゃん……っ。
少なくとも、子供いるようなマトモな知り合いなんて……っ。
じゃあ……じゃあこの子達はもうそういう……」
「待って! 待ってください! めっちゃ遺憾なこと言われてるけどそれは横に置いておいて、そのスマホだけは本当に一回引っ込めて! ごめんなさい! 何もしてません! 許してください!」
でも……と、花渕さんは泣きそうな顔で僕を見ていた。君には僕がどんな人間に見えているんだ……っ。
僕の本気の訴えが通じたのか、花渕さんは一度スマホをポッケに突っ込んで、そしてミラとマーリンさんに目を向ける。
この子達はどこから来て、このおっさんとどういう関係なんだろう……と、探りを入れようと……
「……あれ……? こっちのちびっ子、前に店来て……アキトさん蹴っ飛ばしてった子だよね。
えっと……あれ? じゃあ……本当に知り合いの子? え? ど、どこで知り合ったの……?
アキトさん……私が知る限りじゃ、田原さん以外に友達いないと思ったけど……」
「いないけどさ……っ。確かにリアルで知り合った友達は他にいないけど……じゃなくて。そう……えっとね、この子達は……」
はて、どう説明しようか。
師匠と妹です。と、クソ真面目な顔で言ってみようか。だめだ、通報される。
通報された時何がまずいかと言うと……こいつらが身元を一切証明出来ないことだよ……っ。
当然、僕は不審者……いや、誘拐犯として扱われかねない。
それと同時に……ふたりも保護されてしまうだろうから、そうなるとあの魔獣についての調査なんてもう絶対に出来なくなってしまって……
「……? お……ど、どうしたの? ってか凄いね、頭。外国人……や、ハーフ? ね、名前は? 私は……」
「——取り消しなさい! この方を誰だと思ってるの! ちびっ子だなんて侮って良い方じゃないわ! 取り消しなさい!」
ぴぉぇえええっっ⁈
悩み悩み苦しんで吐きそうになってる僕を他所に、花渕さんの前にミラが躍り出た。
躍り出て……またなんとも空気を読んで欲しいセリフをぶちかましてしまった……っ。
いや……分かるよ……お前のその気持ちは分かる、そういう子だってのもよーく知ってる。
でも……でも……今は事実ちびっ子だろうがよ……っ。じゃなくて。
「ちょっ……み、ミラ……一回落ち着け、な? いきなり問題を起こすな。まずは馴染むところからって、ずっとそうやって……」
「それとこれとは話が別よ! 確かにここじゃ、星見の巫女なんて名前に意味は無いかもしれない。でも、侮られて良い理由にはならない。
誰にもその偉大さが知られていないなら、むしろ私達の手で知らしめる必要があるわ」
むぐぃっ⁈
くっ……この……この世界で秋人の姿じゃなくて相手が知り合いじゃなかったらちょっと同意してしまいそうなことを……っ。
そうだね……凄いかどうかは、肩書きよりも能力と精神性によって決められるべきだ。
そうなったらマーリンさんは……マーリンさんは……へなちょこのサボり魔だし、凄くないのでは……? じゃなかった。
ちょ、一回落ち着かせないと、面倒なことに……
「えっ……と……ちょいちょい、アキトさん。この子、なんなの? いやまあ……子供だしさ、そういうこともあるなとかは思わんでもないけど……」
「子——誰が子供よ! アンタだって変わんないでしょうがっ!」
ふしゃーっ! と、ミラは遂にいつもの調子で……ああもう、だめだ……っ。
どこからどう見ても同い年には見えないのだが、残念ながら花渕さんもミラも十七歳なのだ。
いや……あっちの歳の数え方がこっちと同じとは限らんけどもさ。
でも……一応同い年らしいのだ……けども……
「や、無理ある無理ある。ま、背伸びしがちなくらいが可愛いってもんだけどさ。
名前は? 私は美菜、そこのアキトさんの……なんだろね。先輩……や、後輩か、一応。
上司……いや、バイト戻ったから今は部下か、アキトさん正社員だし。えーっと……上官?」
「上官……? アギト、アンタ軍属だったの……? その割には……じゃなくて! 誰が子供よ! むきーっ!」
別に花渕さんも背は高くないんだけど……いかんせんミラが小さ過ぎる。
よしよし、どうどう。と、頭を撫でながらあやす少女と、それを振り払いながら威嚇し続ける少女とが同年齢にはどうやっても見えない。
見えないけど……ミラはそう思ってないからなぁ。
「——私はミラ、ミラ=ハークスよ! アーヴィンの市長で、マーリン様に見出していただいたもの——世界を救う勇者よ!
ミナって言ったわね。何を隠そうこのマーリン様こそ、あらゆる世界を——」
「——おー、そっかそっか。勇者……ねー。私もそうだよー、正義の味方。良い子良い子、良い子だから仲良くしようねー」
で、この子名前なんてーの? と、花渕さんは僕にそう尋ねてしまった。
違くて……そりゃ、確かにここじゃミラ=ハークスなんて言われてもピンとこないだろうけど……妄想逞しいちびっ子のコードネームとかじゃなくって……
一度落ち着かせよう。話をするにしても説明するにしても、まずはこの血気盛んなおバカを鎮静しなければ。
僕はマーリンさんにアイコンタクトを送り、そしていつものように宥めて貰うことに……ああっ、ダメだ。マーリンさんもちびっ子だから……その……おっぱいが無い!
ミラもあやせないんじゃ本当に何も出来ないじゃないか! このポンコツ!
ちょっとだけ……もうちょっとだけ待ってて、花渕さん!




