第二百九十九話【扉は開かれる】
アラームもモーニングコールも、お腹の苦しさも何も無しに目が覚める。
カーテンの隙間から溢れてる淡い光を見るに、どうやらかなり早起きしたらしい。いや、ただ曇ってるだけとかかもしれないけども。
「……心の方……か」
あまり眠れなかった。
そもそも病院の夜ってちょっと怖いし、いつもと環境違い過ぎて寝付けなかった。
でも……不思議と眠たさは無い。
ま、ずーっと寝てたわけだしね。もう足りてると身体が訴えたのだろう。
「……不安はあるかい? いいえ、無いです。マーリンさんとミラがやってくれたんですから」
脳裏に浮かんだのは、マーリンさんの顔と声だった。
いつもいつも——召喚の度にやってくれた検査。
身体の方はお医者さんに診て貰った。
でも……心はまだ……いや、あの人ほど深くまで踏み込んで触れてくれる人なんて。
だから……僕は自分でそれをやることにした。
違うやい、寂しいやつじゃないやい。他でもない、マーリンさんとミラの為に。
「まだ実感が持てない? 君は元の世界に戻って来た。アギトという肉体を置いて、元々の君として。
魔獣の脅威も無ければ、飢える可能性もより低い。どこまでも安全な世界。
終焉の目前へと駆り立てられ続けた君は……」
小さく小さく……たまたま近くを通った人に怪しまれないように、小さく。マーリンさんの口真似をして、自らを諭すような言い方で、僕はひとつひとつ心の問題を確認する。
この心は本当に秋人のものか。
本当に——アギトではない、本来の秋人のものなのか。
そして……落胆は無いだろうか。
虚しさは無かった。
物足りなさは無かった。
危険極まりない戦いの日々、適応に忙しい召喚の日々はもう遠く。
アギトにとって——街を、国を、世界を渡る旅人にとって、この世界は少し狭い。秋人の生きられる世界はそう広くない。
でも……つまらないとは感じない。
またここで……って、期待と希望が溢れてる。でも……
「——少しだけ、寂しいです——」
あの人なら笑うだろう。
笑って、それも君らしいとか言うんだろう。
きっと僕もそれに釣られて笑って、ふたりでちょっとだけ泣くんだ。
ミラの前では泣かない為にって、こっそり我慢するんだろう。
ひとつひとつ確かめる。
僕はこの世界を——この生活をやり直したかった。
ううん、違う。それすら無かった。
何も無かった、本当に何も考えられなかった。
そんな中からアイツが引っ張り上げてくれた。
だから……頑張ろうと思った、頑張った。
僕はあの世界で死を迎えた。
どうしようもないくらいの虚無感に襲われた。
何もかもが嫌になった。
でも……アイツが最後に背中を押してくれたから。止まらずに歩いているくらいは出来てたつもりだった。
僕はもう一度あの世界に生まれ落ちた。
あの人が呼び起こしてくれた、もう一度機会をくれた。
アイツの隣に立つ——。この世界の僕にとっても、大きな大きな意味を持つ言葉だった。
そして僕はそれを叶えた。
もう……目標みたいなものは全部クリアしてしまった。
だから、もう一度勇者として戦えるのか……と、そう問われたこともある。
それは……難しかったけど、なんとかなった……と思う。
全部解決……はしてないけど、なんとかして。そして今、僕はここにいる。
アギトではなく、秋人として。
この世界の、国の、街の、秋人の中にいる。
それが——この矮小な存在の中に押し込まれたのが嫌じゃないか……と、僕は僕にそう問い掛ける。
答えは……うん、矮小な僕の自己肯定感と、更に矮小な僕の欲求だからね。最初から決まってたんだろう。
「……惰眠最高、と。よし」
頭の中のマーリンさんがふわっと消えた。ああ、美人が……ロリきょぬうおねえたまが……っ。
問題は全く無し、僕は僕としてキチンとダメ人間のままだ。
ゆっくりと目を開けて、そして枕元のスマホに……スマホに……スマホが無い。
ああ……兄さんも母さんも相当パニックだったんだな。
んで……僕も僕で、持って来てと昨日言わなかった辺り、それが無い生活に馴染み過ぎてたみたいだ。
時間は……時計がどこかに……ある……あって……
日が昇って、朝ごはんが運ばれて来て、弱りに弱った胃袋にそれをねじ込み終えると、兄さんが迎えに来てくれた。
晴れて退院、おめでとう。いやー、ありがとうありがとう。僕はひとりで何を……っ。
「平日だってのに、ありがとう。いやしかし……まさかこんなに身体が動かないとはね……」
「あれだけ長いこと寝てたんだからな、そうもなるだろうさ」
ツカツカ。コツコツ。パタパタ。ずりずり。病院内は色んな足音でいっぱいだった。
こういうとこに耳を向けるのも、もしかしたら……その……マーリンさんの言う、適応の偏りなのかもしれないな。でも今はそれもよくて。
兄さんの足音は、ちょいゆっくり気味のコツコツ。革靴の硬い靴底が、滑り難い床を打つ音だ。
で……僕のは、カッ……バタバタ、だ。
「肩、貸してやろうか。車椅子なんて借りてくるほどじゃないにしても……」
「いや、大丈夫。歩かないと歩けないままだからね。あはは……いや、歩けてるのかな、これ」
足を上げて、前に踏み出して、でも先に地面に着くのは松葉杖の先端。
弱りに弱った身体は、杖無しではマトモに立って歩くことも出来ない。
なんとももどかしいけど、このゆっくりした歩調はどこか心地が良い。
多分、根っからのめんどくさがりが理由ですけども……
車取ってくるから待ってろ。玄関から出てすぐ、僕をベンチに座らせて兄さんはそう言った。
そして、それに僕が頷くのを見もせず、小走りで駐車場を走って行った。
車……か。そうだよな、車だよな。
外の空気はずっとずっと汚くて、臭くて、美味しくなくて……なんてのも無い。
所詮秋人は秋人、ミラみたいな敏感な嗅覚は持ち合わせない。
そもそもアギトだって別に……だし。
「よし、帰るぞ。立てるか?」
「うん、大丈夫。多少ゆっくりだから、そこは大目に見て欲しいけど」
すぐに兄さんは車に乗って戻って来て、そして僕を乗せて家路に就く。
い、急がなくても良いのに……なんて僕が呟くと、ゆっくり走ってるぞ? と、兄さんは首を傾げた。
これは……これは修正してかないと……だ。
速度表示は四十キロ。標識通りのスピード、広い道に比べたらむしろやや遅いくらい。
でも……こ、こんなに速く動く乗り物はミラしか知らないので……
家から……と言うか、僕の住む地域からは少し離れた病院もとっくに遠く、気付けば知ってる街並みが窓の外を流れていた。
いやはやしかし……車って凄いわ。速い、揺れない、虫が飛んで来ない。
いやもう……馬車であんなに感動してたのなんだったんだろうな。
汽車とかも、今こうして比較してみたら自動車とあんまり変わらない。
交差点とか信号とか無いから、そこの分は気持ち速いけど。
「……帰って来たな……」
「……? ああ、そうだな。まだ帰ってる途中だけどな」
おっと、痛い呟きが聞かれてしまった。でも、なんか別の意味に捉えて貰えたのでセーフ。
うん……帰って来たわ。
知ってる街並みはどんどん彩度を上げて行って、遂にはよく知ってる建物を映し出す。
でもそれは、愛しの我が家……ではなくて……
「……お店……なんで、え? 家に……」
「その前に、挨拶しとかないといけないだろ。心配して貰ったんだから、自分の口からお礼言うもんだ」
た、確かに。
車はゆっくり減速し……おお、ブレーキが静か。揺れない、うるさくない、木箱がすっ飛んでこない。それはもうよくて。
駐車場なんて相変わらず無いから、お店のそばに一時停車して、僕はそこで降ろされた。ああ、だったら……
「兄さん、先帰ってて良いよ。ここからは歩いて帰る。歩いて来なくちゃならないからね、早くリハビリ終わらせないと」
「大丈夫か……? やる気は買うけど、いきなり無茶はするもんじゃ……」
話も長くなりそうだからさ。と、僕はまだ不安げな顔の兄さんを無理に送り出して……追い返して? そしてひとり、杖を突きながらその扉を押し開く。
板山ベーカリーの、自動ドアなんて無いその扉を。
「いらっしゃいませ……っ! アキトさん!」
「おはようございます……あれ? 花渕さん……?」
え? 花渕さんなんで?
出迎えてくれたのは、店長でも西さんでもなく、既にバイトを辞めた筈の……でも、制服に袖を通した花渕さんだった。
おや……これはもしかしてアレですか? フラグですか?
お見舞いにも来てくれて、そんで退院後にも最初に顔合わせて。
うふふ……違うんです誤解です通報は許してくださいお願いします。
憧れだったんですぅ……事案じゃ……決して事案じゃないんですよぅ……
「——原口くん! ああ良かった、もう退院出来たんだね。昨日花渕さんからも連絡貰ってたから、起きたのだけは知ってたけど……」
「あ、はい。ご迷惑お掛けしました」
いいよいいよ。と、店長は笑って……ちょっとだけ涙を浮かべて笑ってくれてる。
嬉しい、ありがたい。でも……ごめんなさい、店長。ちょっと気になることがあって、感謝の気持ちが二割くらいそっち向いてる。
「あの……なんで花渕さんが……?」
「原口くんが倒れたって聞いて、代わりに働くって言ってくれてね。その……学業を優先して欲しかったけど、人手不足はやっぱり深刻で……」
僕の所為やないかーい! いや本当に気付けなくて申し訳ない。
そりゃそうだわ、社員ひとり減ってんだわ。そこへ救世主花渕さんと来たら当然頼るわ、店長が正しいわ。
ぐすん……め、迷惑しか掛けてない……っ。
「積もる話もあるけど……原口くん、今日はもう早く帰ってゆっくりしてなさい。見たところ、まだ身体は本調子じゃないんだよね? あんまり無茶しても良くないよ」
「うっ……お、お言葉に甘えさせて頂きます。また動けなくなるわけにはいきませんからね……」
うんうん頷く店長と、まだどこかハラハラしてる花渕さん。
くそう……なんで……なんで僕は十七歳の女の子にここまで心配されてるんだ……っ。
嬉しいけど……嬉しいけど不恰好だよ……っ。
すぐに復帰します。と、それだけ残して、僕はまた店のドアを開ける。
魔女の田んぼ……は、流石に遠いか。今日のところはメッセージで伝えるだけに留めよう。
そもそも閉店間際じゃないとね、あの男が客前でボロを出しかねな——
「——アキトさん——っ⁉︎ な——何してんの⁉︎ 歩いて帰んの⁈ バカ——バカじゃないの⁉︎」
「えっ、ひどい!」
ひどくない! と、店から出た直後の僕に、花渕さんは真っ青な顔で駆け寄って来た。
ちょちょちょ、何よ。なんなのよ。やめてよ。そんな……そんな甲斐甲斐しいことされたら好きになっちゃうから!
待って! 本当に今は待って! まだ心がアギト寄りなの! 思春期なの! キュンキュンしちゃうの! あのポンコツの所為で惚れっぽくなってるの!
「ば——このバカ! 店長、ちょっと店空けるから! このバカ送ってく! そんな杖突いてフラフラしてるくせに、ひとりで歩いて帰るとかアホなこと言ってんじゃないし!」
「うぐっ……し、心配には及ば——」
ぺちん! と、松葉杖を持ってる方とは逆の腕を平手打ちされた。心配に及びまくってる……ですか。
なんと言うか……花渕さん、ミラっぽくなってない? え? 中身入れ替わってる? アイツの反抗期、もしかしてそういうこと?
なんて……ボケる暇も与えてはくれず、花渕さんは僕の背中を支えて歩き始めた。
「あ、あの……本当に大丈夫で……」
「大丈夫なら大丈夫だって任せられる格好しなよ。へろへろで言ってどうすんの。ほら、さっさと肩貸して」
きゅんっ。ダメです、ときめいちゃダメです。
この子は違法この子は違法この子は違法この子は……っ。児ポぞ……? 児ポ案件ぞ、これは……っ。
でも……うう、こうも優しくされては無碍になんて……
「家、こっちだっけ。ほら、ちゃんと歩いて。速い? ペース落とす? もうちょいこっちに身体預けても良いかんね」
「ひぐぅっ。い、良い子過ぎる……眩し過ぎるよぅ……」
別に……と、花渕女子は目を伏せるが……良い子だよぅ……ミラなんて最近じゃ蹴飛ばすばかりで……っ。
そんな優しくて可愛くて柔らかくて良い匂いがして……ちがっ、違うんだ! いかがわしいことはしてない!
そういうつもりも……つもりも……無いと言い切りたい、気高い精神を持ち合わせたい……っ。
優しい花渕さんに連れられて、僕はあっさりと自宅前まで帰って来られた。
うん……その……まじで通報されたらどうしようって恐怖がまだある……っ。
「あ、ありがとう。その……送ってくれたこともだけど、お店のことも。心配してくれたことも。いっぱいありがとう」
「何それ、また恥ずかしいこと言うね。でも……うん。感謝してんなら早く治すし。元気になって、早く私に勉強の時間返してよ」
ふぐぅっ⁈ そ、それは本当にごめん……
冗談と言われても本気で捉えなくちゃならないこと言われてはね、僕ももう彼女には逆らえない。元から逆らえないけども。
次は元気な姿でね。と、そう約束して、僕達はそこで分かれる————筈だった。
「————花渕さん待って————っ!」
「——え? アキトさん……?」
ビリビリと背中が痺れた。
杖も投げ捨てて、マトモに歩けなかった筈の脚で彼女の前に急ぐ。
彼女の前に——“ソレ”の前に——
その予感を——悪寒を、恐怖を、危険性を知っている。
その最後を知っている。
それがなんなのかを知らない、でもよく知っている。
それは——ここにあって良いものじゃない——
「————魔獣————」
犬みたいなシルエットの、けれど愛玩動物のソレとは違う獰猛な顔。
太く鋭い爪、発達した前肢。
ディティールを切り取れば猿のようにも見えるソレは、この世界に相応しくないもので——
「——花渕さん!」
「何コイツ——きゃぁあっ!」
ソレは大口を開けて彼女へと迫った。
頭蓋が割れて、牙が並ぶ。
ソフトボールくらいの頭がまるまる口になって、彼女を害さんと迫るのだ。
だから……だから僕は、そいつの前に飛び出していた。
それが当たり前だったから。だから——
————痛みは無かった。
何かが触れた感触も無かった。
魔獣は僕のお尻をすり抜け、花渕さんの脚をすり抜け…………えっ……?
僕……足短くない……? 花渕さん、腰の位置高くない……? えっ?
「——何——今の——」
多少の慣れがあってボケが頭に浮かんでた僕とは対照的に、花渕さんは放心してその場に立ち尽くしていた。
魔獣の姿はもう何処にも無かった。
何処にも——コンクリートの壁を擦り抜けて消えてしまったかのように、この世界からいなくなってしまっていた。
「……今の……な、なんだったんだろう……? はっ⁈ 花渕さん大丈夫⁉︎ なんか……なんかこう、すり抜けた気がしたけど……噛まれてない⁈」
「えっ? あ、う、うん……噛まれてはないけど……」
となると……やっぱり見間違いでも勘違いでもなく、本当に僕達の身体をすり抜けて……?
でも……そんな魔獣、今まで居たか……?
まさか……ゴートマンの見えない魔獣みたいな、意図的に歪められた新しい魔獣なんじゃ————
「……ってか、アキトさん歩けるじゃん。何、構って欲しくて杖突いてたの?」
「へ? あっ、ちがっ、あれ⁈ 歩けてるぅ⁉︎ やった! もう回復し——倒れるぅ⁈」
何してんの! と、尻餅をつきかけた僕を、花渕さんは叱りながら抱き止めて……止めきれず、ふたりしてアスファルトにお尻を打ち付けた。
いたぁい! 痛いけど……ご、ごめん……僕より痛そうな子がいたわ……
「いったぁ……もう! はしゃぐな中年! いきなり歩けるようになるわけないじゃん! ばか! この大ばか!」
「ひぅん……ごめんなさい……」
あれ……? どうしてだろう。バカって言われると胸がキュンとする。
これは……ストレス性の心臓病……っ⁈ いえ、パブロフの犬ですね。
マーリンさんが……マーリンさんがすぐバカアギトとか言うから……バカアギトって言いながら好きになっちゃうようなことばっかりするから……っ。
「……でも、ふーん。アキトさん、意外とやるね。まさか……まさかまさかだったし。まさかこんなだらしないおっさんに庇われるとはね。かっこいいじゃん、多少は」
「……へ? か、庇った……いや、庇おうとはしたな。でへ、でへへ。かっこ良かった? でゅへへ……」
うーわ、台無し。と、花渕さんは本気で呆れ顔をして肩を落としてしまった。なんでよ!
うう……珍しく……珍しく誰かを守れたのが嬉し過ぎて、気持ち悪い喜び方が出てしまった……っ。でもそうか……でへ。
「……頑張ってた甲斐はあったのかな」
「……? よく分かんないけど……とりあえず、さっさと家入れ。
さっきの、まあ……その、なんだろうね。
マジモンおばけだったにせよ、集団幻覚だったにせよ。なんかヤバいモンとか漂ってそうだから、病人は早く帰って養生してな」
私は店戻るから。と、現代っ子花渕さんは、たった今起こった理解不能な現象を軽く流して……いや、違うっぽい。
いわゆる心霊スポット的な恐怖は感じつつも、つまり現実味の無い危険として忘れようとしてるみたいだ。
なんか僕……人の感情を読み取れるようになってる……?
「……あっ。き、気を付けて帰ってよ⁈ 店長にもよろしく!」
僕の言葉に花渕さんは無言で手を振って……そ、それちょっとかっこいいな。
曲がり角ひとつ越える頃にはもう背筋をピンと張って、かっこいい後ろ姿でお店への道を走って行った。
「……今の……」
僕の反応がおかしいのか……?
これが重大な——重篤な問題だと感じるのは、秋人の中のアギトがそういう経験を積み過ぎてるからなのか?
でも……実際に目に見える危険は、もう何処にも無い。悩む余地さえ……
「……明日……だったよな」
切り替わればマーリンさんがいる。今度こそ相談しよう。
前はそれを怠ってみんなに迷惑を掛けたんだから。
久々も久々——二十三日と、そして数え切れない日数ぶりに開けた我が家の玄関は、こう……物理的に重かった。ドア分厚っ、凄っ。
————いっけぇえ————っ! ミラぁああ——————っ!
夢——だ。
これは夢——あの日の悪夢。
何度も何度も繰り返した悪夢の序章。
けれど——ああ、もう。バカにすんな——こちとら——
「——世界何個救って来たと思ってんだ————このバカ魔王————っっ!」
ミラの背中はグングン小さくなって行く。
代わりに背後の威圧感は大きく——絶望的になって行く。
ああ——殺せるモンなら殺してみろよ——っ。
「この背中に——どんだけのモン背負ってると思ってんだ————っ!」
マーリンさんの想い。
ミラの想い。
フリードさんの、オックスの、ゲンさんの、王様の——記憶を取り戻せなかった大勢の————秋人の想い。
「——エヴァンスさん——っ!」
振り返り、腕を突き出す。
肌色でつるっとした腕はすぐに毛に覆われ、太く逞しい獣人の腕になって龍の首を弾き返した。
——護れなかった人がいる——
「キルケーさん! ヘカーテさん!」
空を飛び、僕の身体はそのまま龍へと接近する。
銀色の翼は気付いたら生えてた。
使えない筈の魔術だって、この瞬間に限れば思い通りだ。
——救いたかった絆がある——
「————今度こそ——アイリーン————っ!」
獣の拳、人の拳。左右で違う僕の腕は、まるで自分のものじゃないみたいに苛烈に龍を殴り付ける。
一打一打が致命的、そういう憧れた姿がここでは叶う。
——手を貸して貰った恩がある——
「————勝つぞ——ミラ————」
負けない——負けない負けない負けない——俺達は絶対に負けない————っ!
振り返ればそこには小さな背中があって、世界を救う勇者がいて————
アラームは鳴らなかった。
けれど、誰の声も——喧騒も、鳥の声も、何も。聞こえる筈だったものが聞こえなかった。
ミラの声も、マーリンさんの声も、エルゥさん達の声も——
「————っ」
三日目————っ。
脳裏に浮かんだのは、かつての忌まわしい記憶。
まさか——まさか、僕達は失敗したのか——っ。
マーリンさんの術式に綻びがある筈が無い。
ミラが危険を見落とすわけが無い。
そんな無責任な信頼を押し付けて、僕はまた失敗してしまったのか……?
恐怖に身が震える。
吐き気がする。
頭が痺れる。
でも——っ。
身体は……昨日よりはマシ、動く。
動け。
動け。
動け動け——止まんな——っ!
這ってでも動け、目を開け、頭を使え、耳を澄ませろ。
なんでも良い、情報を拾え、考えろ。
何も無いなんてあり得ない。
こうなった原因——理由、何かが絶対にある。
レアさんの話を聞かなかったから、それを放置し過ぎたから。
死んでしまったから、それを是としてしまったから。
じゃあ——今度は——
————バンバンバンバン————と、扉を叩く音がした。
玄関の分厚いドアを誰かが叩いている。
インターフォンを鳴らすんではなく、ドアを。
破滅の音なのか、それとも希望の使者なのか。
そんなの考える間も無く、僕の脚は玄関へと向いていた。
「————迎えに来たよ——アギト————っ!」
————最終章【在りし日の】————




