第二百九十五話【全部台無しにする奇跡】
絶望しか無いと思った。
現れたのは最悪の敵——いいや、敵なんてものですらない。
向こうはこちらを害するつもりがある、こちらはそれから逃げるしかない。そういう関係、そういう脅威が現れた、と。
けれど——そんな規格外の危険を前に、小さな勇者はもうひとりの協力を得て立ち上がる。
ミラとレヴ——今の主人格と昔の主人格。
同一人物でありながら世界の表側と裏側に別れた、ひとりの少女がそこにいた。
「——代わってください——」
魔女に睨まれると、ミラもレヴも変わらず動きを制限されてしまう。
けれど、それは同時には起こり得ない。
世界の裏側——意識の裏側から言霊は唱えられ、ミラの精神はレヴによって裏へと引きずり込まれる。
代わりに飛び出したレヴの精神が、魔女への攻撃を続行する。
その一撃は、確実にその翼を捉えつつあった。
圧倒的に不利だ——と、そう思った。
思ってしまった。
ミラとレヴは、ふたり掛かりで対抗する手段を編み出した。
でも、それはやっと動けるようにになっただけ。
魔女には魔法がある、致命的な切り札が幾つもある。
でも……っ。状況だけは、少しだけこっちに有利だとも思った。
「——篠突く雷霆——」
レヴの放った雷魔術は、僕とマーリンさんだけを綺麗に避けて部屋中を焼き尽くす。
ちょっ……他人の家……なんてのは、この際気にしてられない。
魔女はミラみたいに素早くは動けない、この攻撃を躱せない。
躱せない——が、しかし……
「——もう、面白くないな。動けるのは驚いた——でも、何も変わらない。もう、これは面白くない——」
「九頭の——っ。ぁ——っ——退いてなさい——っ! 連なる菫——ッ!」
弾けた雷も、飛び回る火球も、等しく魔女は飲み込んでしまった。
大口を開けて……という意味じゃない。
魔術——自然現象の再現、その途上。
つまるところ、人為的に歪められた魔力。
魔女はマナを——空気中の魔力を自在に操る。
だから、魔術による飛び道具は触れた時点で全て取り込まれてしまうらしい。
散々教えて貰った知識が、目の前で実践される理不尽を理解出来るものへと噛み砕いてくれていた。
攻撃は全て無効化されている。それは分かった。
でも——でも、魔女はミラの攻撃を目で追って回避してるわけじゃない。
効かないから有効打になってない、そういう根本的な問題があるだけ。
魔女は今、ミラの攻撃のほとんどに対応出来ていない。
部屋の中という狭い空間内でアイツの動きに付いて行けないことは、つまり物理的な攻撃を防ぐ手段が無いということ。
だったら——っ!
「——っしゃぁあ!」
飛び掛かり、封じられ、立ち上がり、封じられ、そして駆け出したその直後。魔女はふたりを完全に見失った。
今どっちに主導権があるのかは僕にも分からない、そのくらい目まぐるしく事態は展開していた。
でも、目の前に確かなことがひとつ——っ。
「——い——けぇ——っ!」
振り絞ったら声が出た。それは、僕達に魅了を向け続けている余裕が無くなったってこと。魔女にも危機感が出て来たってことの筈だ。
まだ余裕の笑顔のままだけど、魔女の正面にその姿は無い。
僕の視界に帰って来た時、ふたりは魔女の死角——その大きな翼の影、背後で拳を振り上げていた。
「————獲った————っ⁉︎」
声はミラのものだった。
突き出された拳が魔女の背中——硬い背骨の上から心臓を叩く————筈だった。
けれど……僕の前に広がった光景は、何も無い空間をミラが殴り飛ばした瞬間だけだった。
「——面白くない。これ——面白くなくなった、もう。灰色——お前、これを壊したらもっと面白いものを造るのか——?」
「——っ! この——誰が壊され————っぅ⁈」
バキャ——ッ! と、乾いた音が響いて、そしてミラの両脚が変な方向に捻じ曲がった。
立っていられなくなったミラが床に倒れて、自己治癒が発揮され始めて——僕はそこでこの作戦に致命的な穴があることを思い出した。
「————もう、動かない。壊すと動かなくなるんだ、これも。他のと同じ、人間はどれもこれも弱過ぎる」
「——っ——ミ——ぁ————」
治らない——っ。
レヴに主導権がある間、自己治癒の能力は発揮されない。
つまり、治癒の間はミラでいなくちゃならない。
向こうは何もしなくてもフリードさんの四肢をへし折るような奴なんだ、そんな相手にずっと無傷でなんて都合良く行くわけない。そして……っ。
結果として、魔女はミラの攻撃を避けてみせた。
見えてなかった筈、気付いてなかった筈。なのに……っ。
銀の翼は、気付けばまた僕達の目の前に立っていた。
いつ消えていつ現れたかも分からない。
致命的な切り札のひとつ——転移、転送。
魔女は、自らの肉体すらもその魔法でマナへと変換してしまえるらしい。
「——楽しかったぞ。灰色、やっぱりお前は楽しい。でも……これは飽きたから、次のを出せ。もっと面白い——もっと楽しいのを——」
代わってください——。響いた言霊によって、ミラの完治を理解する。けれど……っ。
もう、魔女はレヴを見てもいない。
飛び掛かろうとした時点で、レヴの脚は地面に縫い付けられてしまった。
そして——また、雪の積もった枝が折れるみたいに、その腕は折れてだらりとぶら下がった。
「——壊れないな。でも……治らなくなった。だったらもっと面白くない。もう——これは要らないな」
「————まさか——やめろ——っ! やめ————」
古い電灯みたいなノイズが一瞬だけ聞こえて、そしてガゴン——と、重くて硬い金属音が響いた。
僕達の目の前に“落ちた”のは、何度も目にした金属製の馬車だった。
ただその質量だけを求められて転送されたそれは、さっきまでレヴがいた場所に転がっていて————
「——ミラちゃん——っ! う——っ——ぐ——ぁあ——っ!」
また——また、結局——っ。
ミラが全ての力を取り戻した。レヴもそれに協力した。なのに——っ。
また……僕達はこの魔女に歯が立たなかった。
もう、ベルベット君はいない。
もう——この状況を誰も——
マーリンさんが必死に手を突き出して——でも、その手のひらからは炎も雷も放たれなくて——っ。
唯一の希望も——もう、この鉄くずの下敷きに——
「————面白いな——灰色。やっぱりお前は面白い。ああ——これは凄く面白い————っ!」
「————身に余る光栄だ、魔女よ——。己はどうやら、その眼鏡に適ったらしい————」
ドアが開いた音は無かった。
窓も同じく。
どこかから誰かが入って来た気配も、形跡も、可能性も何も無かった。
なのに——
「————己は君の奇跡だ——親友よ——。ならば——君の窮地に側にいない理由はあるまい————」
「————フリード————っ!」
馬車よりも、魔女よりも向こう。
部屋の隅、窓際に、金色に光る何かを見つけた。
輝かしい髪、瞳。
大きな手、太い腕、逞しい体躯。
神々しさすら纏った黄金騎士が、勇者を抱えてそこに立っていた。
「——この場は任せろ、ミラ=ハークス。君は傷を癒やし、そしてアギトを守ってくれ。この女は己が相手する」
「——っ。フリード様——でも——っ」
大丈夫だ——。フリードさんはそう言って……悠々と歩いて魔女へと接近しようとした。
ちょっ——っ⁈ じ、自分で言ったじゃないですか! 魅了の力がある、精神に干渉されたらフリードさんでも太刀打ち出来ないって!
なのにそんな、真正面から——
「————っ! これ——動けるのか——っ! さっきのとは違う、止まらない——っ。灰色——っ! お前——いったい何を造————」
「——無駄だ——。己に魅了は効かぬ。それは精神への干渉——不必要な感情、情報を強制的に植え付ける呪いだろう。だが————っ」
だが——⁈ ま、まさか——フリードさんはそれを克服したってのか⁉︎
ミラの無理矢理な方法じゃない、もっと合理的なやり方で魅了の呪いを突破して————
「————己は既にお前に惚れている————ッッッ‼︎ 今更何をどう魅了されようものか————ッッ! ああ——美しい女よ。己の思考と心は既に、お前を手中に収めることだけでいっぱいなのだ——————ッッッッ‼︎」
「——? フリー……ド……? フリード?」
あっ、えっ、あれっ⁈ 今、めっちゃシリアスなシーンじゃ……えっ⁈
ともすれば魔王と戦ってる最中よりも緊張感のある、めちゃめちゃ危険なシーンだった筈じゃ……あれっ⁉︎
どこで⁉︎ どこでギャグパートに切り替わりました⁈
「——ああ——ああ! なんと美しい姿だ!
まるで曙光を浴びた海のように白金に煌めくその髪、翼!
極上の葡萄酒よりも己を酔わせるその瞳!
小ぶりで華奢ながら子を成すに足る柔らかな肢体——っ!
己のものとなれ——魔女よ——っ! お前は美しい——己の子を成し添い遂げるのだ——ッ‼︎」
「——っ! これ——っ⁉︎」
な——なんでまたこんな時に————っ⁉︎ なんて驚いてる場合じゃない!
フリードさんはあまりにも場違いで空気の読めない求婚をしながら、あろうことか魔女を背後から思い切り抱き締めた。
ミラですら羽根の一枚に掠るのがやっとだったあの魔女を、しっかりと両腕で——けれど、壊さないように優しく。
愛おしい者を手放さぬようにとしっかり抱き締めて…………そして……あの……っ。む……胸を……っ。
手のひらサイズの柔らかそうな膨らみを、両手で堪能するようにゆっくりと揉みしだいていた…………
「——フリード——っ! おま——お前! 何やってんだ! 倒せ! そのまま絞め殺せ! なんでこんな時にまで————」
「——押し倒せだと——っ! 愚か——愚かが過ぎるぞ、マーリン——っ! 言われずとも己は最初からそのつもり————」
突然始まってしまった抜けた空気のポンコツ漫才は、ぱんっという軽くて小さな破裂音と共に静寂に帰った。魔女の姿が消えたのだ。
転移——っ。フリードさんの拘束からでも逃げられるのかよ……っ。
いや……あれって拘束って呼んで良いのかな……?
「——面白い。面白いな、これは。灰色——お前はやっぱり楽しいな」
「——っ。フリード!」
魔女はまたすぐに現れた。
フリードさんのすぐ後ろ、にこにこ笑って悪意を向けていた。
でも……何もしなかった。
出来なかった……? いいや、そうじゃない。何か事情が変わって何もしなかったんだ。
そして魔女は真っ直ぐにマーリンさんを見つめたまま、ゆっくりと歩いて……
「また来るよ、灰色。もっと——次はもっと面白いのを造っておくんだ。じゃあね、灰色。みんながお前を愛さないけれど、それでもみんなお前が大好きだよ」
それと——。と、魔女は初めて笑顔以外の顔を見せる。
どこか苛立っているような、拗ねた子供のような表情。
ただ遊んでいただけのさっきまでとは違う——っ。と、身構えたのは一瞬だけの出来事。魔女は——
「——魔女は不必要に成長しない。灰色——お前の身体が大きいのは、それだけ出来損ないの玩具だったってこと。それだけだから——」
——両手でわしっと……その……マーリンさんの胸を揉んで、どこか恨めしそうな顔をしてまた僕達の目の前から消えてしまった。
あ、あれ……? 緊張感……シリアスムード……? と言うか……
「…………気にしてたんだ、身体が幼いままなの。君達は僕が思ってた以上に……」
ぽかんと口を開けて、マーリンさんは自分の胸を触ってあの魔女の手の温度を確かめているみたいだった。な、なんか……えっちだな……っ。
って……あれ? え? まじでこれで解決です⁈ こ、こんな間抜けな終わり方————
「————マーリン————っ!」
「フリード——ぅわっ⁈ フリードっ⁉︎」
弛み切った緊張の中、フリードさんは凄く凄く真面目な顔で、声で、マーリンさんへと駆け寄って抱き締めた。
そっか……そうだよな、心配だったよな。
もうマーリンさんには戦う力なんて無い。それがあんな脅威に狙われてたんだ。
他の何よりも大切な仲間なんだから、フリードさんが心配しないわけが————
「——ええい! ふざけるな、マーリン! この性悪女め!
どうしてお前はそうも扇情的な身体つきをしている!
最上の女を取り逃がした直後の雄には目の毒過ぎる! 己の昂りを受け止めろ! ぐっ……しかし……っ!
何か袋を被れ! 顔を隠し、身体だけを己に貸せ!
この情欲に、同じ魔女としてお前が責任を取れ——っ!」
「——ゎぁああ——っっ⁉︎ 抱き着くな! ってか! 最低過ぎること言ってんな! この大馬鹿——ひゃぁああっ⁈」
————あったわ。
フリードさんはこれまで史上最高に……最低に? それはそれはひどい、およそ女性に向けて良い言葉じゃない、最低過ぎる発言と共に……マーリンさんのお尻を揉み始めた。
弛み過ぎだ! あの魔女はもっとしなやかで引き締まった肉をしていたぞ! お前はどうしてこうもだらしないのだ! と、何故だか文句を言い続けながら、フリードさんは抵抗も出来ないマーリンさんのお尻を…………
「——お前はいつもそうだ! かねてより男を惑わす色香を放ちながら、しかし生娘のような振る舞いばかりを繰り返す!
いい加減にしろ! お前はもう若くないのだ!
自覚を持ち、そして己の情欲を満たす為にこの一瞬だけ——————ッッッッ⁉︎」
「——ば——かなことばっかり言ってんじゃない! この色ボケ英雄——いや! 性異常者! 痴漢! 強姦魔! けだもの!」
ひぉぅ————
その光景は、僕の下腹部にも甚大なダメージを与えた。
こう……殴ったり蹴ったりは無理だった。密着してたし、振りかぶる余地も無かったから。でも……っ。
ぎゅう——っと。
うん……もう……もう、ダメかもしれない。
フリードさんのフリードさんは……もうダメかもしれない……っ。
泡を吹いてその場に倒れたフリードさん。真っ赤な顔でそれを踏み付けるマーリンさん。そんなマーリンさんを必死に宥めるミラ。
そして……うぷっ。み、見てただけなのに吐き気と頭痛が凄くてしゃがみ込んでしまった僕。
大慌てで部屋へと飛び込んで来たエルゥさんが見たものは、そういう地獄みたいな光景だったんだろう。
ぎゅうって……ぎゅうって……っ。し、死んじゃうってば……それは……っ。




