第二百八十八話【ふたつにひとつ】
オックスは何も言わずに帰ってしまった。
挨拶する時間さえ惜しいほど、やらなくちゃならないことがあったんだ。
ハーグさんもレイさんも、少ししたらまた仕事に出てしまうと言った。
そして……じゃあ、今みんなの前で堂々としている少年は、いったい何を胸に抱えてその決断を口にしたのだろうか。
「もう爺さんのこと連れてっても問題無いんだろ? だったらさっさと連れて出て行く。
ここは嫌いじゃないし、王都にいてもやれることは沢山ある。
でも、ここじゃ設備が足りなさ過ぎる。だから、俺は爺さんと一緒に行く」
「ベルベット……そうか、お前がそう決めたなら僕は止めないよ。
でも、それは本当にしっかり考えてのことなんだろうね?
何かやましいことがあって、それから逃げようとしてるとか。
それとも、今の兄弟の話に触発されただけとか。
そういうのじゃない、自分の内側でしっかり考えた末での答えなんだろうね?」
マーリンさんの問いに、ベルベット君は即答しなかった。
それは……うん、それは予想外だった。
マーリンさんの言い方は、やはりと言うか、子供に諭すような口調だった。
本当にそれで良いのか、後悔しないか。周りに流されず、キチンと自分で決めたのか。
きっと相手が大人だろうと同じことを聞いただろうが、しかしこんな言い方はしなかった筈だ。
だから……それに反抗する態度を少年が見せなかったのは、失礼ながら意外だと思った。
「……ああ、そうだ。俺はベルベット=ジューリクトン。金鋼稜の末子だ。
俺は術の最奥を目指さなくちゃならない、自然の再現を他の誰よりも先に成さなくちゃならない。
こんなとこでダラダラしてる暇なんて、本当は無かったんだ」
ダラダラ……どうしてだろう、マーリンさんがちょっとだけ複雑そうな顔をしている。自覚、あったんだな。
しかし、ベルベット君の発言ももっともだ。
そもそもとして、ここへ来たのもマーリンさんに振り回されてのことだし、本来なら今も研究に明け暮れていた筈だろう。
そう思うと……人のこと好き勝手使っておいて自分はダラダラしてるマーリンさん、まあまあ最低な上司では……?
「だから、俺は爺さんに色々教わるんだ。そこのチビより、あの小さい魔女より、それにレア=ハークスよりも、ずっとずっと凄い錬金術師になる。俺は爺さんが暇になるのをずっと待ってたんだよ」
「むむ……なるほどなるほど、筋の通った言い分だね。
ミラちゃんやアギト、それにフリードとの交流も良い刺激になったとみえる。
何より、初めてお前が自ら教えを請いたいと口にした。
うん、分かったよ。行っておいで、魔術の里に。
現魔術翁もいるし、そうでなくても腕利き揃いだ。競う相手には困らないだろう」
それに、僕達もいつかはアーヴィンへ帰る。そしたら目と鼻の先、いつでも会えるしね。と、マーリンさんがそう言うと、ベルベット君は少し俯いて小さく首を振った。
会わない……僕達とは会いたくない……ってこと? そ、そんな寂しいこと……
「……クリフィアじゃない。俺は爺さん連れて研究所に戻る。副所長だからな、全然仕事しない所長の代わりに取り纏めてやらないと」
「おや、珍しいことがあったもんだ。そりゃあ嬉しいけど、どういった風の吹き回しだい?
呼んでも帰って来ない、帰っても居着かない。あの研究所は嫌いなのかと思ってたけど……」
嫌いだよ。と、少年はむすっとそっぽを向いて吐き捨てた。
研究所とは、かつて旅をした時にも立ち寄った、マーリンさんの私設研究所のこと。
主に魔獣について調べている、色んな意味で特殊過ぎる施設だった。
ベルベット君はそもそもそこの副所長だ……って、紹介されてたんだけど……
「大っ嫌いだ! あんなとこ! 面白くもない、くだらない解剖ばかり。
術の奥義よりも実用性ばかりを追い求める陳腐さ、軽薄さ。二流の寄せ集めみたいな所員。
全部大っ嫌いだ! だけど……」
だけど……? 少年の言葉はそこで途切れて、凄く凄く寂しそうな顔で黙り込んでしまった。
マーリンさんはそんな彼に声を掛けず、じっと見つめて黙って待っていた。
「……っ。だけど……あそこは……お前は、俺を必要だって言ってくれた……っ。
家の力を継承させて貰えない末子の俺を、自分をも超える逸材だって言って迎え入れてくれた。だから……なのに……っ」
お前は俺に何も任せてくれなかった——っ! その叫びは少しだけ彼らしくないものだった。
ううん、違う。彼が今まで見せなかっただけだろう。
僕達が知らない、一番彼らしい姿なのかもしれない。
凄く凄く熱を帯びた言葉には、悔しさとか怒りとかばかりで、そういう普段の取り繕われた冷静さは微塵も感じなかった。
「——結局、お前は俺に何も任せてくれなかった、お前まで俺を子供扱いした——っ。でも……分かってるんだ。
認められるわけがない。だって、俺はまだお前に何も見せてない。
俺がどれだけ凄いのかって、言葉で、知識で、術でどれだけ示しても意味なんて無かった。
だって俺は、お前に任された仕事を何もやってなかったから」
ベルベット君はひと言ひと言を噛み締めるように口にして、そしてその悔しさを力一杯握り込んだ拳に逃していた。
どれだけ嫌な感情に飲まれても、思考だけは冷静に。
時折りゆっくりと深呼吸する姿からも、そんな心掛けが伝わってくる。
そして……彼はそうやって、最後まで真っ直ぐマーリンさんを見つめ続けていた。
「……だから、今度こそ……次なんてあるのか知らない、分かんないけど。
でも、もしまたお前が誰かに助けを求めた時、真っ先に俺の名前が挙がるくらいには頑張るって決めたんだ。
もう二度と、あんなもどかしい思いはしたくない」
「……ベルベット……。ふふ、そっか。まさか僕の為だなんてね。ありがとう……うん、本当にありがとう」
別にお前の為じゃない! と、ここでいつものベルベット君に戻ると、ふんふんと鼻を鳴らして笑顔のマーリンさんにぽかぽかと殴り掛かった。
相変わらず、こう……ツンデレである。うふふ……おねショタ……
「……ふふ……えへへ、なんだよもう! かわいいとこあるじゃないか! んへへ……よーしよしよし。ふふふ……期待してるぞ、副所長」
「————っ! は——離れろ! 離せ! 抱き着くな! 鬱陶しい! 暑苦しい! デブ! デブっ!」
太ってないよ! と、マーリンさんは憤慨するが……違うのだ、そうじゃないのだ。
嬉しそうに、それはそれは愛らしいものを……身近な例えでいくと、ミラを可愛がるように。マーリンさんはベルベット君を思い切り抱き締めて頬擦りをし始めた。
た……が……っ。それはね……ダメだよ……っ。だ、ダメなやつだよ……っ!
「ま、マーリンさん……そのくらいにしてあげないと……」
「……? おや、それはどういう…………ふ、太ってないよ! 太ってないよね⁉︎ 君までそんなこと言うのか! 女の子に向かってなんてこと言うんだ君達は!」
違うよ‼︎ 太ってはない……太ってはないけど…………部分的には脂肪すっげえ多いだろうがよぉう!
それが……それが……ああ……っ。いたいけなベルベット少年の性癖がゴリゴリ歪められて行く……っ。
優しくて美人で距離感バグってる銀髪ロリ巨乳僕っ子亜人なんて、業の深過ぎる性癖をこの歳で刻み付けられようとしている……っ。
「——離れろ——っ‼︎ ぜえ……はあ……っ。とにかく! 俺は爺さん連れて先帰るから! お前もちゃんとたまには顔出せよ! アイツらいつもお前の愚痴しか言ってないんだからな!
仕事ばっかり持ってくるくせに、手伝いもしなければ労いもしない。ロクでもない上司だって!」
「うっっ……ぐ……べ、別にアイツらお前の悪口だって言ってるし……気付くといないからアテにならないって……」
対抗すんな! そんなとこ! なんで子供の癇癪と張り合ってんだこのポンコツは。
必死の抵抗でマーリンさんから脱出したベルベット君は、ぎゃーぎゃー文句を言いながら部屋の端まで逃げてドアの影に隠れてしまった。
ベルベット君……強く生きろ、ベルベット少年……っ。
居ないぞ……現実的に、君が将来大人になった時……そこにはこんな幻想の世界から出て来たようなエロいお姉さんは、よっぽどのことが無い限り存在しないぞ……っ。
歪められた性癖を背負って強く生きるんだ……
「……はあ。それじゃあ、こっちで馬車を手配しておくよ。
王宮で借りられれば明日にでも、それが無理でも五日くらいで準備出来る。
その間にあの偏屈ジジイを説得すること。それが出来たら、一歩だけ大人に近付いたって認めてあげよう」
「むっ……そんなの余裕だ! 爺さん、俺の術に興味津々だったからな!
あんなつまんないとこでも、俺と一緒だったら絶対退屈なんてさせない!
爺さんの機嫌の取り方は、お前が遊んでる間に掴んだからな!」
なんかラブコメっぽいセリフもちょこちょこ混じってるのに、その実マッドサイエンティスト同士の意気投合でしかないの地獄みたいだな。
しかし……どうやら話は丸く収まった……収まったか、これ?
でも……わだかまりとか寂しさは残らなさそうだ。
「……ぶわっ! 健気! 健気だわ、ベルベットちゃん!
巫女ちゃんのことこんなに想ってただなんて、普段の素っ気ない態度は照れ隠しだったのね! 知ってたけど。
んまっ! かわいい! 今夜巫女ちゃんもまとめて相手したげるわ!」
「うるさい! お前は普通に嫌いだ! いっつもいっつも見透かしたような言い方しやがって!」
収まった……と思ってた場の空気を、どうしてかハーグさんが思いっきり引っ掻き回して、結局外が真っ暗になるまで宴会は続いた。
料理もお酒も無くなったってのに、みんないつまでも楽しそうに笑っていたんだ。
それで……酔いが深かったハーグさんとレイさんが最初に寝落ちして、子供だからやっぱり眠たいミラとベルベット君が気絶するみたいに寝ちゃって。
エルゥさんもそんな四人に毛布を掛けたら、明日も仕事があるからって部屋に戻っちゃって。
「……もしかしたら、こうなるのが分かってたのかもしれないね。だから、胸の奥がずっと寂しかったんだ。
もう二度と、この団欒と全く同じものは味わえない、って」
「……言わないでくださいよ……別に、今更何も変わんないですけど……」
僕とマーリンさんは……宴の終わりに眠りそびれて、その静けさにまた“寂しい”って呟いた。
大切なものを取り戻す為に必死だった、その日々を支えてくれた大切なもの。
どちらかしか持っていられないんだって、なんだか凄く残酷なことを言われた気さえした。




