第九十一話
早速だが胃がねじ切れて死んでしまいそうだ。午前十時、僕は愛想の悪い少女と二人、客の来ないパン屋で大変気まずい空気の中棒立ちして居た。
「……お、お客さん来ないねー……」
返事は無かった。ダメだ、会話が続かないなんて言うんじゃない。会話を完全に拒絶されている。どうした事だこれは。僕だって何か言われたら、ヘラヘラ笑ってそっすね〜くらいは言うぞ。いえ、それが良いことかと言われると……うーん……どうなんでしょう。
「…………髪染めてるの? おしゃれだね〜……」
返事は無かった。分かってた。ポジティブに捉えよう。セクハラだと訴えられなかっただけマシ、と。随分明るい髪色だが、頭頂部だけ黒くなっている。髪染めるのにもお金いるもんね、それでアルバイトを? なんて感じで話を続けようかと思っていたのだが、返事が無いのではどうしようも無かった。
「………………学校やめちゃったんだって? 大変だね……あっ……」
初めてリアクションがあった。と言っても、それはとても喜べるものでは無い。完全に失言だった。彼女は僕をひと睨みして、すぐに視線をスマホに戻す。本人に聞いた話でも無いし、こうなると店長の好感度も下げてしまったかもしれない。だが……うん、気まずい。
お客さんが来ない事を、これ程までに辛いと思ったのは初めてだった。時間が過ぎない、終わらない、どうもしようもない。この沈黙とパンしかない空間に、誰でもいいから切り込んでくださいと天に祈るばかりだった。だが、得てして神とは無情なものだ。
昼休憩になっても沈黙が破られる事は無かった。お客さん来なさ過ぎて僕らは同時に休憩に入る事となったのだが、ううむ。一人では無い食卓は良いものだとここ最近ずっと思っていたのだが……一人の方がまだマシな食卓があるとは。ご飯中にもスマホをいじり続ける花渕さんと、何か会話のきっかけを探そうと気を窺い続ける僕。地獄のような時間。拷問かこれは。
「…………ここ、ご飯美味しいよね。見ての通り食べるの好きだからさあ、僕」
さあこい、どんとこい、一発乗ってこい。特大の釣り針を準備したんだ、さあこい! ここで言わなきゃいつ言うの⁉︎ 言うんだ! でもパンは美味しくないよねー、って‼︎
「…………はは……」
ガーーーーッデム! ホワイっ⁉︎ なぜ言わない⁉︎ もしかして食べた事無い⁉︎ 食べた事無かったらごめんなさい! そう言えばこの間面接来てた時、パン貰って無かったのかな? 貰って無かったかもね⁉︎ ごめんね? 全然乗って来れる話題じゃ無かったね⁉︎ 何か言っておくれよ‼︎
「……おっさんさ。別に無理して話しかけなくてもいいよ。キモい」
「……………ははは…………」
彼女がそう言ったのは、控え室を出る直前のことだった。そうか……おじさんキモいか……はは……ハハハ……
それからの記憶は無い。気付けば予定よりも早くに上がって自分の部屋の中。どうした事だこれは。こんなの初めてだ。勇気を出して話しかけたら会話が出来るって言うのは僕の勘違いか、思い上がりか。キモいはひどいじゃ無いかキモいは……うう……っ。心の傷をなんとか癒そうと、僕はPCの電源を入れる。今日くらい……こんな日くらいゲームに逃げてもいいよね? デンデン氏、遊ぼうぜ。いるよね? 寝てないよね? 送ったメッセージに返事が来たのは、ほんの僅か後のこと。
『すまぬアギト氏。拙者今出先なのでござるよ』
「こっちこそごめん。また誘う」
気分は完全にRPGモードだったのだが……仕方ない。いついかなる時も人を集められるFPSと洒落込みましょうか。まずはSNSで募集をかけて……
「アキ。今ちょっといいか?」
急募、遊び相手。と、発言する直前、兄さんの声がした。なんだろう。僕は二つ返事で部屋から顔を覗かせる。
「……その、なんだ。前に言ってたろ。手助けしたい相手がいるって」
「え……ああ、うん。どうかしたの?」
確かに言った。それは兄さんからしてみたら知らない場所の知らない人間で、僕がネット上で知り合った人程度に認識していると思ったが……
「どうだ? 何か助けになってやれそうなのか?」
「どうだろう…………むしろまだ助けられてる気もするぐらいで……」
兄さんの意図は分からないが、嘘は吐けない。彼女には頼りにしてると言って貰ったが、頼られているという実感は無い。頼りっきりの現状にヤキモキしているのは変わりない。歯切れの悪い返事しか出来ない僕に、そうか。と言って、兄さんも黙り込んでしまった。
「……大切にしろよ、そう言う友達は中々出来ないもんだ。頼れる時は頼って、頼られてる時は目一杯支えてやるんだ」
「うん、分かった。それはいいけど……突然どうしたのさ?」
兄さんは難しい顔をして頭を掻いていた。視線を上に逸らして、喉に手をやって剃り残しを気にするようにさすって、ウンウン唸りながら言葉を探している様にも見える。
「なんだろうな……うん。お前の顔つきが随分変わったもんだから。それも日に日に、目に見えるくらい変わってるんだ。気付いてないかもしれないが」
「僕の顔付き……?」
ふと自分の顔を触る。酷くたるんだままのだらしない顔だが……? ヒゲだって剃る必要が無いくらい薄いの童顔で。その童顔のまま老けた様な、みすぼらしい、女子高生にキモいって言われるおっさん顔ですが?
「その人にお礼が言いたくてな。まあ、俺が直接会ってなにか言うわけにもいかないんだろうから、せめてお前に言っておこうと思って。自覚しろよ? お前はその人に随分救われたんだって」
そんな事分かっているさ。だが……うん。そう言えば感謝の言葉を口にしたことは無かったかもしれない。無かったよ。無かったさ。寝てると思って色々恥ずかしい事言ったりとか、無かったんだよ、無かったんだ。しかし兄さんは一つ忘れている。気恥ずかしいが、まあ兄弟だし。今更気にすることでもあるまい。と言うか、最早僕が兄さんの恥みたいなとこもあるし、僕がそんな事を気にするのは烏滸がましいだろう。
「分かった。でも兄さん。僕は兄さんと母さんと、勿論父さんにだって救われてる。こんな僕を見捨てないで居てくれてありがとう」
「……ああ。俺達にも早く頼らせてくれよ?」
そう言って兄さんはそそくさと退散した。もうすぐご飯だぞ、とは部屋のドアを閉める直前に聞く。ガチャリとドアが閉まると僕の頰は自然と緩んでいた。
「……変わった、か」
僕が散々願っていた事。それが周りから、一番身近で贔屓目もあって、甘々な判定を下す兄さんとは言え、周りから見て変わったと言って貰える様になったんだ。まだまだ……まだまだ他人と比べて、スタートラインに立つ準備が出来たくらいだとは思うけど……うん。こんなに嬉しいことは無い。一つの目標を達成した気分だ。
ぴろん。と、一件のメッセージが届く。『夜にはやれますぞー。おやすみ前にいかがですかな?』と、差出人はデンデンさんだった。僕はすぐに返事をしてリビングに向かう。さあ晩御飯はなんだ。今の僕は機嫌が良いからお代わりだってしちゃうぞう。
昨日は散々遊び倒したな。だがもう失敗はしない。僕は『おや、アギト氏最近早寝早起きですな。健康第一ですかな?』と氏に言われてしまうくらい健康的で健全な時間にはゲームを切り上げた。だからこうして……
「……すぅ……すぴぃ……」
「おはよう……って、まだ起きないよな」
背中に感じる高い体温に安心すら覚える。今度こそ。今度こそコイツが起きてからちゃんと言おう。いつもありがとう、頼りにしてる。そのうち俺の事も頼ってくれよ、って。うん…………やっぱりやめようかな……? 小っ恥ずかしいっていうか……昨日あんな事言われ…………言わ…………れて……
「〜〜〜っ! ぬゎあああああああぃ⁉︎」
いかんっ! 余計なことは思い出さなくて良い‼︎ 目を覚ませ秋人、いやアギト‼︎ コイツはあくまで妹キャラだ! 決してそんな……絶対に無い! 絶対そんな感情コイツが持ってるわけない! だから目を覚ませ僕、いや俺! コイツは決して暴力系ツンデレヒロインなどでは無い! コイツは……コイツは人懐っこい犬とか! 猫とか! ペット的な……マスコットみたいな立ち位置だ!
「…………すぴー……」
「……人の気も知らんでコイツは……」
なんだコレは。まるで…………まるで気まぐれ系王子様に振り回される純情ヒロインみたいじゃないかっ‼︎