第二百八十一話【普通ってなんだっけ】
あんまりな仕打ちだと、残酷な話だと。そう言われた気がした。
この世界の家族と一緒にいる為に頑張った結果、もうひとつの世界の家族と離れ離れになる羽目になってしまった、と。
そういう悲劇を前にしている……って、そんな顔をしているように見えた。
それはきっと事実で——帰れないという悲劇があって、マーリンさんは本気でそれを悲しんでいて——けれど……
「……何も無ければ帰って良いんですよね……? その……やっぱり俺は大した人間じゃなかった、となれば」
「え……? いや、うん……それはそうだけど……」
この期に及んでそんなわけないのは分かるだろう?
君は特別で、格別で、凄い子なんだよ。と、マーリンさんは悲しそうな顔でベタ褒めしてくれた。
でへ……でへへ、好きになっちゃう……ではなくてね?
「いやその……ほら、前にも似たことはあったじゃないですか。二回目の召喚の後、俺が獣人の肉体に適応し過ぎてた時。
だらーっと過ごして情けないアギトに戻ったら、それなら影響力なんてのも減ったりしないかなー……なんて」
「そりゃあ……考えられなくもないけど、難しい話だよ。
堕落するのは簡単だ……とは言うけど、ものごとはそこまで単純に出来てない。
一度特別にまで登り詰めたなら——その資質があるのなら、自身の怠惰を人は咎めずにはいられない」
マーリンさんはその後、君は勇者であること——勇者になることを本気で志した。そんな気高い精神が、浮浪者の真似事を本当に許容出来るのか。と、そう続ける。
でへへ……こう、なんだか……わ、悪くない気分だ……
「君の過去は知らない。でも、共に歩んだ時間を僕達は知っている。
君は弱い子だって言い続けたよね。それは、自身の堕落を許せない——自己を許容出来る範囲が狭いという意味でもあるんだ。
ミラちゃんの家族として、勇者の半身として。規範足り得る振る舞いを……って、ずっと考えてたのは僕にも分かるよ」
「うっ……ど、どうしてこうも心の内を読み切られているんだ……っ。で、でもですね……ごほん」
さて、どうしたものか。
堕落——という言葉、どうしようもなく馴染みの深いものなのだ。
マーリンさんは、僕が本当に素晴らしい人物だと思ってくれている……んだよね? でへ、でへへぇ。
フリードさんも、僕が奇跡を起こしたと言ってくれた。
オックスも、隣でなんとなく納得した顔してくれてる。
へへ……僕、知らない間に人望すげえことになってるなぁ……っ! そんな僕を……
「……マーリンさん。そこにいるうちの妹がですね、そんなわけないって顔で見てくるんです。ええ、それはもう冷たい目で。
ちょっとお説教してあげてくれませんか? 君のお兄ちゃんは凄い人なんだ、尊敬しないとダメだよ……って」
「誰が誰のお兄ちゃんよ、このバカアギト。おだてられて調子に乗ってんじゃないわよ」
そんな僕を、ミラだけが褒めてくれそうにない。
おかしい。お前、もっと僕に対して肯定的な感じだったじゃないか。
何をやっても全肯定してくれる、甘えん坊で寂しがりなお兄ちゃんっ子。それが愛しのマイプリティシスターじゃなかったのか。
「どうしてお前はそういうこと言うんだ! お兄ちゃんがピンチなんだぞ! もっと心配してくれても良いでしょうが! 反抗期か⁉︎ 反抗期がまだ終わらないのか⁉︎」
「誰が反抗期よ! このバカアギト!」
ふしゃーっ! と、けたたましく威嚇するものの、しかしマーリンさんのそばから離れようとしない。
おっぱいの魅力に抗えない。反抗期どころか乳離れがまだじゃないか、どういうことだそれは。
けれど、ミラは本気で僕に……敵意ではないけど、心配だとか不安だとかの感情じゃないものを向けているのが分かった。
「私はアンタの昔を——アーヴィンへ来たばかりの頃を知ってるもの。そりゃあ、真面目で素直なやつだとは思うわ。
でもね、根本的なところでヌルいのよ、アンタは」
「ヌルい……? えっと……それはその、非情になれない……みたいな……」
そういうとこよ。と、ミラはものすっごく冷淡な声色で吐き捨てた。
え……な、なんかみんなとの温度差凄過ぎて体調崩しそう。
なんで僕は、世界一可愛い妹に軽蔑の眼差しを向けられているの……?
「成功体験が無い。努力の上限が低い。不真面目を許容出来なくても、不達成を咎めるだけの経験が無い。
早い話が、何もして来なかった人間だって言ってんのよ」
「うぐーっ⁉︎ お、おま……おまま……おおおま……っ」
想像以上に斬れ味の良い一撃で首を撥ね飛ばされた。
死——。お兄ちゃんの心と精神とメンタルとハートブレイクが死です。ついでに社会的な信頼も死んでそう。
ぐすん……な、なんでそんなひどいこと……
「努力も能力も無かった、腕力も無ければ知力も無かった。魔獣を退けるどころか、脅威があるとすら思ってなかった。
オックス、よく見なさい。ガラガダでアンタと出会った頃のアギトは、赤ん坊と同じくらい何も出来ない呑気な男だった筈よ」
「み、ミラさん……そこまで言わなくても……。そりゃ、オレも思いましたよ。この人はどうしてこんなに弱い、魔獣に対して危機感が無いんだろう……って。でもそれは……」
ひぎぃぅーーーっ⁉︎ お、おっくす……? おっくすくん……? ど、どうして斬り落とされた首に塩を塗りたくるの……?
四人の内三人が仲間だと思っていたら、裏切り者が出てしまった。
ふたり……っ。大人組ふたりだけが僕の味方……
「マーリン様も、分かっておられる筈です。アギトが特別だとすれば、それは全て貴女が仕組んだ——そうなるように画策した結果だと。
勇者様の力を持つ私を本物の勇者に仕立て上げる為に、たまたま隣にいたアギトを支えとして作り上げた。そうですよね」
「うっ……まあ、そうだね。それについては否定しない、かつて謝罪もしてるしね。
確かに、どうしてこんな子供が……と、僕もアギトの在り方には疑問を抱いたことがある。
勇者の力を引き継いだミラちゃんに強く影響する男が、どうしてこうも……と。でもそれはだね……」
ほげぇえーーーっ⁉︎ う、裏切り者! さっきあんなにべた褒めしてくれたのに‼︎ 舌の根も乾かぬ内に裏切ったな⁉︎
うわぁん! そうかよ! やっぱり僕よりちっちゃくて可愛いミラの味方かよ!
最近全然ぎゅってしてくれないもんね! 飽きたんか! もう童貞のキョドったリアクションには飽きたんか! うわぁん!
「フリード様も、冷静に思い返してください。初めて出会って、私達を見定めてくださった時。アギトは最初から素晴らしい精神性を貴方に見せたでしょうか。
いえ、違った筈です。私とマーリン様の後押しがあったからこそ。
貴方は一度切り捨てた筈です。自覚も自信も足りない幼い存在だ、と」
「…………すまない。否定……出来ないな、記憶を取り戻してしまった以上。だがそれも……」
ぷぎゅぇーーーぃっ‼︎ 死ーーーっ! 死んだよ! 僕もう何回も死んだよ! 殺されたよ!
なんだよなんだよ! みんなして! ボロクソ言うじゃないか!
そんなにか! そんなに僕が立派だと困るんか! おぉん⁉︎
良いじゃないか! 僕が立派でも! 良いじゃないか!
「……そう、アンタには何も無かったのよ。でも、そこから這って進んで、最後には世界を救った。
それで全部終わり、誰にも祝福されないまま消えて——でも、またこうして私の前にいる。
あろうことか、他の世界をいくつも救ってね」
「……? ミラ……? い、今更おだててもダメだぞ! もうお前とは絶交だ!
お兄ちゃんと妹の縁もこれまで……これ……ま……ぐすん。そんなにお兄ちゃんが嫌かよぅ……」
誰がいつ妹になったってのよ。と、ミラは大きなため息と共にそう切り捨てた。
一番キツい。やめて、せめてもっと感情的に否定して、死ぬ。呆れる系は本気で……心臓止まるぅ……
「……それだけやって、今のアンタには何が残ってる?
勇者としての名声? そんなものあるわけない。だって、誰もアンタを覚えてないんだもの。
積み上げた経験と力? なんの役に立つのよ、異世界での生活なんて。
なら、もっと俗物的な報酬——少しでも財布が豊かになった? 無いわよね、今だってただの居候だもの。
じゃあ、アンタって何が凄いのよ」
「み、ミラちゃん……? もうそこら辺にしてあげて……? あ、アギトが……アギトが腐った瓜みたいな萎れ方してるよ……っ⁈」
ぐすん……ぐす……ひっぐ……っ。
なんで……なんで僕は、世界一愛してる妹にこんなにこき下ろされてるんだ……っ。
なんだってコイツは僕を親の仇のように罵倒するんだ。
いや……まあ、お姉さんの仇ではある……って、思ってたけどさ。
でもそれはお前が否定して……本当に心から違うって言ってくれたじゃんか……っ。なのになんで……
「——そうよ、アンタにはなんの報酬も無かった。
この世界を救った結果、与えられたのは死という結果だった。
生を望んだ結果孤独を与えられた。
ふざけんじゃないわ——っ。そんなアンタが、どうしてこれ以上何か奪われなくちゃなんないの……っ!」
「……ミラ……? ミラ、お前……」
——アンタにこれ以上の不幸があってたまるもんですか——ッ! ミラはやっと感情的になってそう言った。
マーリンさんに抱き着いたまま——離れ難いほど寂しそうに、つらそうに、悲しそうにそう言った。
「アンタは確かに特別になったかもしれない。でも、それには相応以上の対価を支払って来た。
ロクな報いも無いままに走って、それでやっと凄い人に手が届きそうになってる。
そんなアンタが、もうこれ以上はいらないって言ってんのに、対価だけを奪われるなんてあってたまるもんですか!
アンタは元の世界に帰る、また昔みたいな生活を送る! 特別なんて捨てて、普通に戻るのよ!」
「……ミラ。なんだよ……へへ、なんなんだよお前は。結局お兄ちゃんっ子じゃないか、もう。可愛いなぁ本当に、でへへへ……」
気持ち悪い、寄んじゃないわよ。と、頭を撫で撫でしようと近付いた僕を、ミラはさっきの力説からは考えられないくらい冷めた態度で突き放した。
死——っ⁉︎ 死ん臓が——心臓が止まるぅ⁉︎
「……そうだね。ごめん、僕が間違ってた。アギトにはそんな不幸はもう訪れない。もし来そうな雰囲気あったら、僕達で蹴っ飛ばしてやろう」
「そうだな。親友の道行きに陰りがあれば、その奇跡の代行たる己が雲を打ち払おう。もう二度と、君には悲劇など味合わせない」
マーリンさん……フリードさん……っ。
ミラに冷たくされたからなのか、それともふたりの言葉に感極まったのか。ちょっとどっちか分かんない涙を堪えていると、背後からオックスに両肩を掴まれた。
オレもいるっスよ、ってか。う……うう……みんな……っ。
「よし、じゃあ……明日の検査はちゃんとするとして、だ。またしばらくのクールタイムの後、最後の召喚術式を起動しよう。
目的は、勇者アギトのかつての生活を取り戻すこと。
ミラちゃん。ハークスの術式を正確に識るものは君しかいない。頼めるかな」
「任せてください、マーリン様! きっとご期待に応えてみせます!」
いや、そこは僕の為に頑張ってくれん?
なんでだかやけに冷たいミラの温度差にはビビりながらも、部屋の中は暖かい空気に包まれた。
不安は……言われちゃったからには、無いとは言えない。
兄さん、母さん。秋人にとって一番大切な人。ふたりに何かあったら……と、それが怖くないなんてあり得ない。けど……
アギトにとって大切な人は、誰も彼もが頼もし過ぎるから。きっと大丈夫だって信じられる。




