第二百七十八話【そして帰って来た】
声が聞こえる。
なんだか騒がしい、慌ただしい声だ。
でも、優しくて暖かい声だ。
声の主は……
「本当に大丈夫なの⁈ いったい何があったのさ、こんなこと今まで一度も無かったじゃないか!」
「あ、あはは……大丈夫です、マーリン様。今までに無かったくらいのことが起きただけですから」
大問題だよ! と、騒いでいるのは、マーリンさんだった。
それを宥めるミラの声も聞こえる。
どうやら、無事帰って来られたらしい。
いや、無事か? なんか、無事じゃないっぽい話してる気がするんだけど。
「あっ! アギト! 君まで! おはよう、気分はどうだい? それで! いったい何があったんだよぉ! まだ術式の途中なのに、ふたりとも起きて来るなんて!」
どこも痛くない? 気分は悪くない? 意識はハッキリしてる? うわぁん! と、マーリンさんはコロコロ表情を変えながら僕の心配をしてくれた。
あかん、好きになってまう。そんなに近付かれて甲斐甲斐しく心配されたら本気で好きになってしまう。
あ、いや。そもそも大好きだった。
「平気……です……? はい、平気な筈です。えっと……? 術式の途中……に、帰って来ちゃったんですか?」
「そうだよぅ……君よりひと足先にミラちゃんが起きて来て、それだけでも一大事なのに、君まで起きて来て。
まさか魔力の供給が停止してしまったんじゃないか、強制終了させられたんじゃないかって……」
マーリンさんはそう言いながら僕とミラを交互に診察して、身体のどこにも異常が無いか確認し始めた。
強制終了……か。言われてみると……
「……十日目……だったな。神様に送り返された前回を除けば、今までで一番短かった。三人になったから、どうしても短くせざるを得なかった……みたいな話じゃないんですね」
「少なくとも、僕はそんなつもりさらさら無かったよ。マグルだって、出来上がってるものをグレードダウンさせるような妥協を許すやつじゃない。だから、これは僕達の意図してないことが起きてるんだ……って……」
ぐすぐすと遂に泣き始めてしまったマーリンさんに、今度はミラがオロオロし出した。
大丈夫ですから、ちゃんと無事ですから、と。
「……そうだ。ミラ、結局最後はどうなったんだ? その……俺にはいまいち分かんなくて……」
「アンタが分かんないなら、私はもっと分かんないわよ。私はアンタより先に帰って来てるんだから」
そ、それはそうだけど……そういう話じゃなくて。
僕が聞きたいのは、フリードさんの身に何が起きたか、だよ。
そんなことは言われなくても分かってるみたいで、ミラは小さくため息をついて説明を……分かってるなら最初からちゃんと答えてよ、もう。
「あの世界に訪れる終焉は、管理による限界の形成だった……と思われるわ。
モノドロイドが優秀過ぎるが故に、人間が持つ限界を突破する力が失われる。
向こうでもちょっと話をしたわよね、神様の村と似た街だって。
アレがそのまま、その時の推論がそのまま答えだった……ってことだと思うわ」
「なんかフワッとしてんな、珍しく。いつもなら根拠無しにも断言しがちなのに」
革命の消失だね。と、僕達の会話に割って入ったのは、まだぐずぐずと鼻を鳴らしているマーリンさんだった。
ああもう、情けない顔して……ぐ……うぐぐ……しょんぼりマーリンさんかわいい……っ。
「ぐす……人は需要の元に進化を……って、もう何度も話をしたよね。
前回がそうだったように、その機会……或いはモチベーションを喪失することは、人間の進化の余地を喰い取ることに等しい。
フリードのバカが起きたら詳しく聞かせておくれ。
神様の管理とは別のものかもしれないけど、連続で見てしまうとなんだか身近に起きそうな気がしてくる。
この世界でも起きかねない事象だ、対策が打てるなら考えておかなくちゃ」
半泣きのクセになんだか立派なことを言って、マーリンさんは不安げな顔をフリードさんに向ける。
僕達が起きたってことは、そろそろこの人も起きる頃合い……なのかな。
もしも起きないなんてことがあったら……っ。
「平気よ、バカアギト。今回はきっと、私達側が主導で帰還を始めたのよ。これまた前と似てるわね。あれは神様による退去みたいなものだったけど、まあ同じようなものよ」
「……? お前はなんで早起きしたのか分かってるのか……? そ、それ分かってるならマーリンさんに教えてあげろよ!」
全然話を聞いてくださらないのよ。と、その目は訴えていた。
マーリンさん、どうやらパニックになり過ぎて余裕が無いらしい。
なんてポンコツ……でも、らしいと言えばらしいのかな。
さっき真面目な考察をしてた筈の小さな銀色頭が、うろうろと不安そうな顔で僕達の周りを歩き回っている。
大丈夫かなぁ、本当に大丈夫かなぁ。と、心の声をダダ漏れにしながら。
「……そうだ。マグルさん……が、いない、あれ? オックスは……あれ、いない。え? あれ? ふたりはどこへ……」
「え? あ、ああ。マグルもオックスも寝てるよ、ちゃんと寝室で。
魔力源は結局僕だし、こっちからの干渉も意味を成さないって、今までの召喚で分かってたからね。
特にマグルにはかなり負担を強いた、半日は起きて来ないと思うよ」
時間が経てば自動で術式を解除、みんなを回収する手筈だった……なのに……っ。と、マーリンさんはまたボロボロ泣き始めて、僕のお腹をペタペタ触ったと思ったら、すぐにミラのことを抱き締めた。情緒不安定。
「——ん——む……」
「——っ! フリード! 気が付いたか、フリード! ああもう! お前まで時間前に起きやがって! うわぁん!」
っと、そうこう言ってる内にフリードさんが起きたみたいだ。
ごろんと大きな身体が横向きになったり仰向けに戻ったり……フリードさんでも寝起きはもたつくんだな……と、なんだかよく分からない感慨に耽る。
マーリンさんは文句を言いたいのか喜びたいのか、困り笑顔でフリードさんのお腹をシーツの上から叩いていた。
「起きたなら早く起きろよ! 色々説明して貰わないといけないんだ! どこか痛むとかある? 気分は? 身体はちゃんと動————ふゎっ⁈」
——もにゅん——。と、言い表すならそんな……っ。
そんな……こう……柔らかそうな擬音が似合うと言うか……柔らかそうと言うか……実際柔らかいと言うか……っ。
まだ寝ぼけた顔のフリードさんの大きな手のひらが、その……あの……マーリンさんの……っ。
マーリンさんの胸を……たわわに実った……お……おっぱいを鷲掴みにした。
鷲掴みにされて……マーリンさんは怒るでも逃げるでもなく、混乱してそこで完全にフリーズしてしまった。
「————ああ、最悪の目覚めだ。ふざけるな。
豊満な女体があると思って手を伸ばしてみれば……っ。己をコケにするのも大概にしろ。
よもやこんなものに劣情を抱かされるとは————」
——ズムン——ッッ‼︎ と、鈍い音が鳴って、シーツ越しに……その……うっ……うう……ふ、フリードさんの……フリードさんが……っ。
なんだかとんでもなく失礼極まりないことを口走りながらもモニモニと胸を揉み続けたフリードさんのフリードさんを、マーリンさんは手近にあった金属製のスタンドの……よりにもよって出っ張った部分で容赦無く殴り付けた。
その姿は羅刹のようで、打ちのめされた英雄はまるで芋虫のごとく丸く縮こまってしまった。死——
「————死ね————っ! 今ここで生物のオスとしての死を迎えろ! このクソ色ボケ筋肉バカ‼︎」
いや……ま、マジで死んじゃう……っ。
潰れる……本当に潰れちゃうから……っ。う……うぷっ……見てただけなのにこっちが死にそう……
「ミラちゃん。あのバカは放っておいて、君から精密な検査を始めるよ。さ、別の部屋へ行こう。あのクズがいない部屋へ」
「ま、マーリン様……あの……は、はい……」
君も後で来るんだよ。と、そんなことを言われたが、僕はもうそれどころじゃなかった。
だ、大丈夫……だよな……? 黄金騎士だ、最強の英雄だ。
この国で一番強い男が……一番強い男の男が……男の子が……っ。
やや内股前傾姿勢でゆっくりと……自分は殴られていないのに、揺らさないようにゆっくりと、うずくまったひとりの男に歩み寄る。
こうなってしまえば、フリードさんといえどただの人。致命的な弱点は変わりっこない。
「だ、大丈夫ですか……? うっ……ふぐっ……み、見てただけの俺でもこの苦しみ……っ。ど、どうして……あんなこと言えばこうなるのは分かってたのに……」
お願いだから他の手段を取って欲しい。
ちらっとマーリンさんの方を見れば、なんだ文句があるのか。と、そう言いたげな顔でたたずむ鬼の姿が……ひっ、ぼ、僕は殴らないで!
死んじゃう! フリードさんですらコレなんだから、僕はもう一瞬で——
「——案ずるな、親友よ。己は君が起こした奇跡だ。力を失った“マーリン”程度には殺されぬし、未来も断たれぬ」
「……フリード……? フリード——お前——っ!」
——手間を掛けさせたな、マーリン。
ゆっくり——刺激しないよう、痛めないよう、あの苦しみを味合わないようにゆっくりと起き上がったフリードさんは、優しくその名前を口にした。
マーリン——と。
それは——それが意味するものは、かの黄金騎士の帰還に他ならなかった。
マーリンさんはまた涙を流して、そして大急ぎでフリードさんのそばに駆け寄った。
ボロボロ泣きながら、僕とフリードさんとを何度も見比べて笑顔を見せた。
当事者の筈の僕とフリードさんよりもずっと——ずっとずっと嬉しそうに。




