第九十話
これは一体何度目のアラームだろう。飛び起きて初めにしたことは、時間の確認だった。午前九時、この短期間で二度目はうっかりじゃ済まされない。急いで着替えて、僕は誰もいないリビングで準備された朝食を流し込んだ。
「……まったく…………あのバカ娘……」
不意に昨晩の事が浮かんで一人身悶える。顔が熱い。一体どういうつもりであんなことを言ったんだ。いえ、多分文面以上の意味など。深い意味だとか他意だとか、そういう感情だとかは一切無いものだとは思うんだけど。必要以上に考えるな……考えるんじゃない秋人。アレはそういうのとは無縁の生き物なんだ。
ふうと一服食後のコーヒーなど嗜む時間も無く、僕は家を飛び出した。時間的にはまだ余裕もあったが、ぼーっとしているとつい考えがそっちに行ってしまう。いかんいかん。と、その度に頭を振ったり顔を叩いたりしているとムチウチにでもなってしまいそうだから、頭を空にしたくて忙しいふりをしているのだ。
「いらっしゃいませ……あ、原口くんおはよう。今日は早いね」
「おはようございます。ちょっと寝坊して慌ててたもんで」
嘘にならない程度の嘘で誤魔化して、僕は控え室に飛び込んだ。まだまだ慣れるわけもない制服に袖を通せば、きっと切り替えられる。そう信じて、僕は少し愛着の湧き出した綺麗な店内に戻ってきた。今朝はお客さんもいる。
この店、板山ベーカリーにおいて一番……いや、最早唯一と言っても過言では無い、お客さんが多く来る時間が朝だ。僕はそれを今日初めて体感した。一通り教えたから、次は実践してみよう。と、店長が今日から僕の出勤を早めたのだ。こうして働いている感を感じられる忙しさを体験すると、少しだけ不安も和らいでいく。そう……いつ閉店してしまうんだろう。という不安も……
「ありがとうございましたー」
十一時手前で店からはお客さんの姿が消えた。来てから知る事となるのだが、今日は日曜日。大丈夫だろうか、この店……というのが半分。母さんと兄さんは今朝からどこに行っているのだろう? というのが半分。曜日感覚など元より無かったが、この生活になってからはそれがより顕著だ。なにせ一週間が十四日に増えてしまっているのだから、“昨日の事”で手一杯で“昨日の事”が思い出せないなんて茶飯事だ。
「お疲れ原口くん、助かるよ。これから忙しくなっても大丈夫そうだね」
「ええ、まだまだ大丈夫です」
これから、と言うのはお昼時の事だろうか。それともお店が繁盛した時だろうか。どちらでも僕はどんと来いだが、後者の場合超えなければならないハードルがいくつもありそうで少しゲンナリする。
それからお昼にもう一度ピークがやって来て、遅めの昼食を食べてから三時過ぎに最後のピークを迎えた。なんだ、お客さん来るじゃないか。と、安心したのも束の間、客足が途絶える頃見覚えのある顔が来店した。
「いらっしゃいませ。あれ……えっと……花渕さん……? 今日はシフト入ってなかったよね。どうかした?」
見れば見る程取っ付きにくい現代っ子の少女が、色違いのパーカーで今日も顔を見せる。僕らはこれから同じ店で働くことになるのだから、少しでも距離を縮めよう。あのバカみたいにはいかないだろうけど、それでも信頼関係は大切……あああああっ⁉︎ 余計な事は思い出さなくていいんだっ‼︎
「……おっさんに一々言わなきゃダメ?」
「おふっ……」
冷た過ぎるくらいにあしらわれて、僕は彼女が店長の元へ行くのを見送るしか出来なかった。おっさん……おっさんか……ふふ。自覚はしていたけど、他人に言われるのは堪えるなあ……
しばらくして、花渕さんはそそくさと帰ってしまった。勿論挨拶はしたのだが、返事は無し。世知辛い。花渕さんを、僕は彼女より大人びていると第一印象では思ったが、そういう所がしっかりしているという意味では彼女は僕より大人だったと思い出す。最近随分情けないと言うか、威厳の無い姿ばかり見ているもんだから……
「あっ、店長。花渕さん、なんだったんですか?」
「ああ、うん。シフト早められないかって。僕としては有難いから明日からにして貰ったけど、なんだか嫌な感じだったなあ。家に居場所が無い……なんて事無いといいけど」
家に……? 彼女は一体どういう……? 無粋だとは思ったが、知らずには仲良くなるきっかけも無い。店長の口から説明出来る範囲でいいからと僕は問い詰め……る程では無いが、少し聞いてみた。
「そうだねぇ……うん。彼女、高校辞めちゃったみたいでさ。一年生だったんだけど、なんだか合わなかったみたいで。彼女の母親が僕の後輩でね。せめて働かせないと、って。僕に彼女を雇ってくれないかと言ってきたんだ」
なんだろう、既視感が。そんなやつもう一人知っているぞ? 誰とは言わんがすごく身近、それはそれは身近過ぎて自分では見えないくらい近くにいる。アギ……なんだったっけ? うん、とても親近感が湧いてきた。彼女も僕と同じく、世間が言うレールから外れてしまったんだな。いえ、方や脱線して横転して、朽ちてボロボロになっているトロッコと、片輪外れて緊急停止してるだけの電車くらいの差はあるんですけどさ。
「あの子の母親、昔からヒステリーなとこあるからなあ。自分が良い学校出てない分、子供には良い学校出て、良い職場に就て……なんて考えを押し付けて無いと良いけど。他所の家に口出しする気は無いけど、寂しいものねぇ、家族がいがみ合うなんて」
「そう……ですよね。そうですよ」
家族がいがみ合うというのはうちでは無かった。いや、僕の見えないところではあったのかも知れない。僕を巡って、父さんも含めた三人が揉めるなんて容易に想像できる事じゃないか。それでもあの人達なら……と、無責任で押し付けがましい期待を持ってしまう当事者の自分が少し気に食わない。
「何はともあれ、明日から花渕さんも混ざって三人だ。暇だろうから早くに上がって貰う事もあるだろうけど、ごめん。お店も売り上げ無いと人件費確保出来ないからね、勘弁しておくれ」
「いえ、ははは……」
世知辛い。ああ世知辛い。世知辛い。そうか、明日から……明日から二人かあ……っ。店長は三人だって言ったけど、基本的に表に出ているのは僕らバイトだけで、店長は仕込みだとか事務処理だとか。レジには出てくるけど、基本的に裏にいるから…………あの子と二人かあ……今から胃がキリキリしてきた……
それから十数分で僕は帰途に着く。日曜日はそこそこお客さんも入るのだなぁ。という僕の感想とは裏腹に、店長は日曜日なのに売り上げが伸びないと嘆いていた。そうか……足らないのか、アレでは。僕は、少し寂しい顔の店長に見送られて店を後にした。さて、帰ったら晩御飯かな? そう言えば、この晴れの日曜日に二人はどこへ行っていたのかも聞かなくては。僕を除け者にして、良いもの食べに行っていたりなんかしたら許さないぞう。いえ、うなぎとか全然食べてきてください。僕はほんと、ご迷惑かけてますんで。端でレトルトカレー食べてますんで。
「ただいまー」
少しだけ考え事をしていると、あっという間に家に辿り着いた。話し相手がいたり考える事があると時間は一瞬だ。さて、二人にはどこ行ってたか聞きたいし、早くご飯は食べたいし、明日は不安だし、不安だからデンデンさんと早くゲームしたいし……ええい! 考えていた割に何も纏まってない!
「おう、お帰りアキ」
「ただいま兄さん。今朝から二人して、どこ行ってたのさ」
リビングにはゆったりした部屋着に着替えた兄さんが待っていた。もしかして、バタついていて気付かなかっただけで、実は部屋に居ましたみたいなオチ?
「ああ、墓参りにな。お前が一人で行ったって聞いてな。じゃあ親父に、秋人はどうだった? って聞きに行こうって」
「……なんだ。で、何か言ってた?」
花くらい置いてけって怒ってた。と、兄さんは笑って言った。本当にその節は。僕は家族に恵まれた。恵まれ過ぎたから、こんなに罪悪感も生まれるのだろう。今日聞いた花渕という少女の事を思い出す。彼女と僕の立場が逆だったら、一体どうだっただろう。と、意味の無い可能性に少し不安になって、振り払おうと僕は母さんに晩御飯を急かす。今日やることはあとご飯と風呂とゲームと……
その晩、不意に思い出すのはあの少女の事だった。家庭環境……そう、ハークスの家系について僕は何も知らない。いつか話してくれるのだろうか。それとも、知らないままの方が良いのだろうか。いけないいけない、今はアギトとしての考え事はしない、って。あっちの事はあっちで考えよう。僕は答えの出ないモヤモヤから逃げる様に、布団に潜り込んで朝を待った。