第八十九話
旅館の一階、久しぶりに入った熱い湯船にも僕の気分は晴れなかった。ミラにとって僕は結局保護対象で、頼りになどしてはくれないのだろうか。文句があるわけじゃ無い。頼って貰っても、多分僕はそれに応えらない。応えられるだけの能力が無い。だから……いっそ気楽に、守って貰うだけの依存にも似た一方的な関係でも良いんじゃないかとさえ思ってしまう。
「…………情けない、ほんと……」
バシャバシャと顔を洗って、僕はもう一度笑顔を作り出す。短髪のクセにシャンプーが長いオックスが隣に座る頃には、昼間と同じ様にやれたはずだ。依存でも構わない、今は。この気楽な少年を見ていると、少しだけ胸が楽になった。
流石に湯船で考え事をし過ぎたか、着替えた後も少しフラフラする。風呂上がりに一杯コーヒー牛乳! と行きたい所なのだが、残念ながらこの街には牛乳があまり無い。牛を育てる牧草が少なく、輸入しようにも遠過ぎて生乳は保たないそうな。昔は南に農村があって、そこから牛乳だけでなく作物も買い付けていたそうだが、今はその村も潰れてしまったらしい。嫌な記憶に胸が痛くなった。
「おまたせっ……って、どうかした? 随分暗い顔して……」
「いや……うん。ちょっとな」
彼女にはそのことは黙っていよう。彼女にとってそれは、間に合わなかったという失敗の記憶。例えそれが彼女の生まれるはるか前の話だったとしても、“彼女ら”はそれを悔やむと僕は一度だけ見せつけられていたから。
「……まあ良いわ。不安は吐き出しなさい。悩みは相談しなさい。でも嫌な思い出は頑張って、忘れろとは言わないから上手く付き合いなさい」
「先生みたいなことを言うなぁ、お前は。努力するよ」
難しそうな顔から一変、僕がそう答えるとミラは笑って戻りましょうと言って僕の手を引いた。オックスはなにやら少し距離を開けて付いてくるのだが、一体なんだ、どうしたんだお前は。今更親しくない人とは上手く話せないとか無いだろ、お前らは。
階段を上がって、僕らは各々の部屋に戻った。火照った体を少し冷たいシーツに投げ出すと、それだけで眠ってしまえそうな程気持ちが良い。窓を開けて夜風でも浴びればもっと……とも思ったのだが、もう立ち上がるのも億劫だ。最近歩き詰めだったからなあ、もう足が棒の様で……瞼も…………重く……
消えかけた僕の意識は不意に叩き起こされた。ガチャガチャとノブを捻ろうとする音が聞こえる。施錠した僕の部屋のノブだろうか、それとも見かけ以上に壁が薄くて隣の音が聞こえているのだろうか。考えるまでもない。僕は咄嗟に、手近にあったナイフに手を伸ばす。そしてゆっくりとドアの方へと近付いて……
「——トぉ————アギトぉ……起きてるぅ……?」
「…………っ! お前かよ!」
ドアをカリカリ引っ掻く音と共に聞こえてきた少女の声に、僕は小さな声で叫んで(?)ドアの鍵を開けた。猫かお前は!
「…………アギトぉ……枕が…………枕が合わないのよぉ……」
「そこは嘘でも一人で寝るのは心細いとか言って欲しかったなぁ」
言葉の割にはうつらうつらしている少女を、僕は渋々招き入れる。そんな気はしていた。ええ、そんな気はしていましたとも。一人でゆっくり眠りたいなんて、抱き枕一号にそんな望みは大き過ぎるって分かってましたよ。
「……アギ…………枕……」
「よくもまあそんな状態で男の部屋に来たもんだ。間違えてオックスのトコとか行くなよ……?」
僕は自分で言った自分の言葉にふと疑問を抱く。それはどこから来ている? 独占欲? 他の男にはこんな姿を見せるなって、俺の前以外でそんな顔するなよってやつ? 答えは……分かってる。
「…………アギト……?」
「はいはい、分かったからヨダレくらい拭きなさい。だらしないなあもう」
妹超えて娘みたいになってきた。ついつい甘やかしてしまう様になったらもう孫だ。アラサーだけに、そろそろ子供が欲しいみたいな願望が本能的に出てくるのだろうか。フラフラと危なっかしいミラを抱えて、鍵をかけ直して僕はまた布団に戻る。これに守られてばかりいると思うとなんだか…………イライラしてきたぞ。
「こいつめ。チビのくせに、チビ助のくせにカッコつけて。こいつめ」
無抵抗なミラの頰をぶにぶに突っつき続ける。犬の肉球を触ると気持ちが良いみたいな、そんな癒しグッズの様な楽しさがある。いつもなら鬱陶しがるくらい突いても、もう眠たくて仕方が無いのだろう、彼女は無抵抗で僕が枕体勢に入るのを待っていた。
「……んぅ……アギト…………まだ……?」
まあまあそう言わず。日頃の感謝をこれでもかと彼女の頰にお返しする。まだまだ……まだまだ、こんなもんじゃ足りない。足りないんだ。
「…………そりゃあ頼りないかも知んないけどさ……」
「……アギ……ト……?」
僕はつい口を滑らせた。はじめはそう、うっかりだった。だが、一度溢れ出した感情は抑えられなかった。次から次へと弱音が込み上げてきて、それを飲み込むだけの強さが僕には無い。
「もっと……もっと頼ってくれよ。俺だってミラを守りたい。守られてばかりは嫌なんだ。俺を守ってくれる……お前を守りたいんだよ…………」
僕の手は頰ではなく肩を掴んで、許しを請う様に項垂れて。滲んできた涙を悟られ無い為には顔を伏せて、僕は情けなくそう言った。
「…………馬鹿ね。頼りにしてるわよ」
ポンと頭を撫でられた。顔を上げると、やはり眠たいものは眠たいのか、目を赤くしたミラが優しく笑っていた。
「そういう約束だったじゃない。アンタは待っててくれるって、言ったじゃない」
「約束って……」
忘れたの? と、少し不機嫌そうに言われてしまった。はて……約束……? いや、いっぱいしてるからなあ……突然にはちょっと思い出せ……わ、忘れたわけじゃないぞ⁉︎ ちょっと思い出せないだけで……ってなんだこれ⁉︎ 浮気男か僕は‼︎
「…………二人でガラガダに行くってなった時、アンタが言ったのよ? 付いて行くって、だから守ってくれって。その代わりに、帰ったら絶対待っててくれるって」
「……言いましたけど……」
ああー……それかー。とはならなかった。うん、あれは……なんだ。自分で言うことじゃないが、言ってることがめちゃくちゃすぎるって言うか……恥ずかしいんで掘り返さないでいただけると…………
「だから私はアンタを守る。アンタが嫌だって言っても連れて行く。そして守る。だから……待ってて」
「待ってて……ってあれは…………あの場所で……」
いつかもやられた様に僕は横倒しに押し倒された。そして定位置に転がり込んで、ミラはいつも通り首元に抱きついて来る。そして嬉しそうに囁いた。
「ここっ! ここが……アンタが私の帰る場所。帰りたい場所。唯一の居場所なの。私が守りたい……私を守ってくれる場所。私の…………」
ふわふわと長い髪が揺れた。影を見て僕はミラが首を横に振ったのが分かった。そして彼女は一層強く抱きついて……きっと、笑った。
「……ただいま」
胸が跳ねる。押し黙ってしまったミラの代わりに、自分の心臓の音だけが鼓膜を震わせて、まるでこの世界に二人しかいないかの様な錯覚を覚えた。
「そ——っ⁉︎ そ、そそそそれは——っ⁉︎ どどどどどどういう——っ⁉︎」
ちょっとシャレにならないくらい心拍が上がる。それじゃあまるで……いやいや⁉︎ て言うかお前も黙っちゃうんじゃないよ! いや、これは僕がちゃんと返事しないといけないやつか‼︎ っていうかやっぱりお前も恥ずかしいんじゃないか! こんなに手も熱くなって……体温が…………上がって………………上がって?
「……ぐぅ…………」
ね——っ⁉︎ ね、ねねねねねーーーっ⁉︎ 寝ぇーーーーーッ⁉︎
「……寝るか普通——ッ‼︎」
僕は過去最高に小さな声で叫んだ。悪女! 小悪魔! 泥棒猫(?)! 人の心を散々弄んでおいて自分はさっさと寝…………寝ぇーっ⁉︎
「…………過去イチ疲れた……俺も寝よう……」
僕は涙を飲んでシーツを頭から被った。不貞寝だ不貞寝、いや普通に寝る時間なんだけども。まったく僕をなんだと思っているんだ。三十路だけど思春期のチェリーボーイだぞ……まったく……ぶつぶつ……
「…………って——」
——寝られるかぁーーーーーーッ‼︎
「…………むにゃむにゃ……」