第二百五十八話【不届、而不屈】
「アギト——っ!」
ミラの叫び声が聞こえた。
そしてそれは、最悪の状況をよりはっきりと認識させてくれる。
もう魔術に対する憂いの無い万全に近い状態のミラでさえ遅れを取り、そして僕はそんな奴の拳のすぐ下にいる。
踏み付けられているのか、馬乗りになられてるのかは分からない。
振り返ることも出来ない、抵抗という言葉を口にすることすら不可能だった。
「——っ——」
息は出来る。
恐怖と緊張から身体は強張るが、それでも生きていることは出来る。
背中をゴツゴツしたものに圧迫されて苦しいものの、それでも死なない程度の生命活動は行えている。
ならまだ……と、そんな淡い希望や期待を無理矢理にでも捻り出さないと気が狂ってしまいそうだった。
「——揺蕩う雷霆——改——ッ‼︎」
「————っ——待て——ミラ——っ!」
ビシ——ィッ! と、空気を引き裂いて、ミラはさっきよりも更に出力を上げた強化魔術を身に纏った。
僕を巻き込まない為にはそれしかない、放出するタイプの魔術は封印せざるを得ない。
さっき通じなかったものよりも更に強く、速く——
けれど、それが悪手だということだけは僕にも分かった。
「——っ——ミラ!」
ミラの姿はすぐに視界から消えて無くなった。
代わりに青白い閃光だけがゆらゆらと尾を引いて、甲高い風切り音と雷鳴を轟かせながら僕の周りを飛び回る。
でも、拘束が緩む気配は無い。コイツはミラに意識すら向けていないんだ。
わざわざ潰せそうな相手から目を離す程の脅威を感じていないのか。
「————っしゃああ!」
——バグッ——と、壁が蹴り砕かれて、そして稲妻は一直線にこちらへ飛び掛かってくる。
そうだ、どれだけ撹乱しようとこれしかない。
他の攻撃手段を選べない以上、どれだけ裏を掻いても最後には僕のところへ突っ込んでくるしかないのだ。
ミラの接近に僕が気付いたのは、そのスピードを目で追ったからじゃない。
背中の上の何かが、拘束をより乱暴なものに変えたから——迎撃の体勢を整えたからだった。
「——コイツ——っ⁈ う——ぐぅ——っ⁉︎」
「ミラ——っ! この——離せ! 退け——っ!」
バヂィィッ——ッ‼︎ と、大きな大きな雷が炸裂して、そしてミラが僕の目の前に転がった。
叩き伏せられた。この背後の化け物は、ミラのスピードにもキチンと対応して叩き伏せて見せた。
そして何より、さっき僕が気付いた欠点もしっかり理解出来ていた。
ポストロイドじゃない、コイツは。
コイツは間違いなくポストロイドじゃない——人間だ——っ。
「————ぅ——うぅぁああ——っ! 離れろ! 離れろこのバケモノ! ミラ! 俺に強化を——っ! 一瞬だけでいい、コイツの手から逃れられるだけの力を——っ!」
手を地面について、肘を地面について。膝を折り畳んで足先で地面を捉えて。必死に必死に立ち上がる為の体勢を整えても、僕の上体はぺったりと地面に貼り付けられたままだった。
出力が違い過ぎる。重さをそれ程感じない——立ち上がれない程の重量を背中には感じない、なのに——っ。
「——っ。揺蕩う雷霆——っ!」
「——うぉおお——っ! 退けぇえ——っ‼︎」
椅子や机を背負っているんじゃない、まるでコンクリートの天井がそこに打ち付けられてしまったみたいだ。
どれだけ力を入れても動かない、向こうからこちらを押し返そうとする力を感じない。
ただそこにあるだけで、僕の腕力なんて封殺出来てしまう——質量や筋力の問題じゃない、何か次元の違うものを感じてしまう。
それは、ミラの強化を貰っても何も変わらなかった。
「————異界の勇者よ——君達の役割は既に終わった————」
「——っ⁉︎ な————お前何言って————」
ズン——と、初めて意図的に体重を掛けられ、僕は突っ張っていた手も足も甲斐なくぺたんこに踏み潰されてしまった。
でも……生きていた。
すぐにミラが駆け寄って来て、そしてほとんど同時に背中の上の重さも消えた。
ミラが退かしてくれた……いや、勝手に退いてどこかへ……
「——待て! 何者だお前——俺達をどうして知ってる——っ!」
慌てて身体を起こせば、悠々と路地を進む犯人の姿があった。
成る程、匂いも痕跡もロクに残ってなかったわけだ。
そいつの背中は、ゴワゴワしたゴム質の、宇宙服みたいな鎧に包まれていた。
「待て——待てって——っ! ミラ! お前なら——お前なら追えるよな! 頼む、俺はいいからアイツを————」
不届き——。耳に届いたのは嫌な言葉だった。
嫌な——苦い苦い思い出の中の一節、災厄が狂ったように零し続けた言葉。
不届——と、ソイツはそう言った。
「……退くわよ、アギト。なんのつもりか知らないけど、見過ごそうってんなら見過ごされてやりましょう。次……っ。必ず、最後には……っ」
「ミラ……お前……っ。くそ……くそ……っ——」
ミラは僕の身体を担ぎ上げるようにして立ち上がり、そしてまだ見えているその背中から逃げるように来た道を戻り始めた。
負けた……んだ……っ。やっと見つけた犯人を前に、ただ逃げ出すしかないくらい力の差を見せ付けられて……僕達は————
「————ぅぁあ——っ……うぅ……ぐぅう……っ」
「……帰るわよ、アギト。帰って作戦をしっかり立てて、明日フリード様と相談する。そして……次こそは……っ」
次——と、そう言ったミラの口の端には赤い筋が伝っていた。
悔しい——。辿り着けなかった、時間が足りなかった、手の届かないところだった。
今まで経験したそのどれとも違う、あまりにも分かりやす過ぎる敗北。
理解したんだ、ミラも。僕達は世界を救う為の一手を打ち損なった。
アレは——アイツは、間違いなくこの世界に訪れる終焉と関係している。
その手掛かりを前に逃げるしか出来ない事実を、僕もミラも泣けないくらい悔しがった。
巡回中のポストロイドはあの男にあらかた壊されてしまったのか、帰り道は随分静かなものだった。
見逃された……壊す価値が無いと断ぜられた、か。
少なくとも、この先にもアイツの邪魔は出来ないだろうと見なされたんだろう。
そんなことに気付いたのは、管理棟へと降る階段に足を掛けた時のことだった。
「おかえり、ふたりとも……って、怪我してるじゃないか! どうしたんだい! まさか……遂にポストロイドに……っ」
「ただいま、アルコさん。いや……ポストロイドには見つかってないんだけど……」
出迎えてくれたアルコさんは、ミラに肩を借りてる僕の姿を見て慌てふためいた。
今まで一度もポストロイドに見つからずにやってこれたが、遂に見つかって攻撃を受けてしまった、か。彼にはやはりそう見えるだろう。と言うか、実際似たようなものだしね。
でも……これを打ち明けるべきか否か……
「……すみません、手当ては私がやっておきます。少しだけふたりで話をさせて下さい」
「ミラちゃん……そう言うならこれ以上聞かないけど、危ないことはダメだよ。無責任に焚き付けて、本当に申し訳無かった」
いえ、その件とは本当に無関係で……と、ミラは笑ってアルコさんに別れを告げ、そして僕の部屋へと真っ直ぐ向かった。
おいおい、手当ては……と、突っ込んでる余裕も気力も無い。
ベッドに寝かされるとすぐに起き上がり、そしてあの犯人について——この世界の終焉、その対策について話し合いを始めた。
「アイツ……強かったわ。とんでもなく、これまでに戦った何よりも。ゴートマン、魔王、それに紅蓮の魔女と呼ばれたマーリン様。どれともタイプは違ったけど、間違いなく一番厄介な相手だわ」
「魔王より、マーリンさんより……か。そりゃまた……っ」
俺達だけで本当に倒せるのか……? 湧いて来たのは当然の疑問だった。
魔王を倒したのは——トドメを刺したのはミラで、そのアシストをしたのも僕だ。
だけど……魔王を倒せるまでに押し留め、消耗させたのは、ほとんどフリードさんとマーリンさんだった。あのふたりがいなかったら成り立っていない奇跡だ。
その奇跡よりももっと……そんな相手に、僕達だけでなんて……
「……策を練りましょう。魔王の時と違うのは、相手の手の内をある程度見てるってこと。もちろん、向こうにも同じことが言えるけどね。それでも、何も分かってない相手よりは準備しやすいわ」
「……準備……策……か。それで……そんなんで本当になんとかなるのかよ……っ」
返事は無かった。少し間が空いて、代わりに返って来たのはひとつ目の作戦だった。
スピードによる撹乱は通用しない、アイツは確実に目で私を捉えていた。なら、強化を攻撃には使用せず、まず防御を固めてじっくりと立ち合ってみる。
そんなミラの発言には、今までずっと見せていた強気がまだ含まれていた。
「じっくりじっくり……長期戦ね。無駄遣いしなければ、魔力切れなんてまず起こらない。体力にはそもそも自信があるし、それに自己治癒もある。
いつかマーリン様は、私には短期決戦しかないと仰ったけど、今の私ならゆっくり戦っても問題は無いわ」
「……それで、アイツのスタミナ切れを待つ……のか? でも……アイツ、俺を押さえ付けるのに全然力を入れてなかった。これっぽっちも疲れることしてなかった。そんなやつに……」
なら、疲れなきゃいけない程度には追い込めば良いのよ。と、ミラは簡単に言ってみせる。
自信家だとは思ってたけど、それにしたって…………?
あれ……ミラってそんな大きなこと言って人を鼓舞するタイプだっけ。負けん気で張り合うことはあったけど……
「……ミラ……? お前……まさか……」
「まさかとは何よ、まさかとは。当たり前でしょ、私は勝つわよ。
なんのアテも無く言ってるわけじゃない。無力なまま頭捻って世界を救おうとして来た甲斐があったわ。引き出しの数なら、魔王との戦いの頃よりずっと多い」
絶対なんとかしてやるわ。と、ミラは拳を叩いてそう言い切った。
世界を救う為、目的を達成する為に、ポストロイドが壊されるのを見過ごす。そう言ったのを、ミラらしくないと僕は思った。僕の所為でらしくないことをさせた、と。でも……
そこには知ってる顔のミラがいた。逆境にもめげない、不敵に笑う悪ガキのミラが。
頼もしさ……ではない、多分。でも……少しだけ安心したのが自分でも分かった。
ミラはただ我慢強くなっただけ。太刀打ち出来ないってケースを沢山味わったから、怒りを押し留めて必要な時まで保存する方法を覚えただけらしい。
なんともハラハラさせるやり方だが、らしさはまだ残ったままだったんだ。




