第二百二十八話【煙】
僕達の身体に異変は無かった。
それは、この世界の人間には特別な能力、性質が無いことを示している……筈だ。
考えごとの最中に至ったひとつの不安。それは、改造によって式がどの程度変わってしまったのかが分からないというもの。
「……あの適応も、そもそもはマーリンさんがやってくれてたもの……なんだよな。召喚術式に勝手に付いてくるものじゃなくて……」
「そうね。もうそんな余裕は無い……と、そうなれば剥がされていてもおかしくないわ」
もしそうだとしたら……
脳裏を過ぎるのはかつて共に旅をした友人、エヴァンスさんの姿。
もしもあの時、僕達が獣人ではなく、ただの人間の姿であの街に降り立ったなら。その時は果たしてどうなっていただろうか。
「人間としての姿すら変わり得る……話は聞いていたが、変わらないことで問題が起こるというのは少し想定していなかった。己もどうやら歳を取り過ぎたらしい。魔女の言う通りだ」
考え方が一方的で、凝り固まってしまっている。と、ため息をついたのはフリードさんだった。
いやいや、普通は想定しなくて良い話ですからね?
でも、この旅については別。良かった、街に着く前に気付けて。
ミラに言われなかったらきっと気付かなかった、気付けなかった。
違和感を意識的に探さなければ、違和感が無いことになんて気付きようもない。
「だとすると……人間の姿が確認出来るまで近付くべきか。ミラ=ハークス、君の目は——感覚は、どの程度離れた場所から人の顔を識別出来る」
「向こうに気付かれない距離からでも大丈夫です。任せてください」
相変わらずどうなってんだ、お前の目は。
もしかしたら、こいつはそもそも人間じゃないのでは……? と、そんな疑問を抱くと同時に、人造神性なんて単語を思い出す。
いつか言ってたっけ、生まれから手を加えられて特別な能力を付与されている……って。
その所為でチビなんだって。
いや、でも……あれって魔術特性をどうこう……って話だったよな……?
身体能力や機能は飛び抜けて向上したりしない……って、確か王都でエルゥさんと再会する前くらいに言ってた気がするし。
「……ただ、鼻は信頼ならないかもしれません」
「鼻……臭い、か」
ミラはきゅーっと眉間に皺を寄せて頷いた。
そう、臭い。この世界にやって来た時から付き纏っている、油っこい臭いがミラの重要な感覚のひとつを潰してしまっているかもしれないらしい。
しかし、この……なんだろうか。絶対に覚えがあるんだ、この臭いには。
でも……やっぱり昔の話なのか、全然思い出せなくて……
「アギト。君にはこの臭いに覚えがあるのか? 異臭に悩んでいる表情ではない、何かを思い出そうとしている顔をしているが……」
「うぇっ……そ、そういうの、なんでみんな分かるんですか……? えっと……そう、です。なんか……嗅いだことがあるような……」
無いような……? いや、嗅いだことは絶対にある……筈。覚えがある以上はある筈だ。
でも……それでひとつ問題なのは、どこの経験を、記憶を掘り返せば出てくるのか……だ。
アギトとしての冒険の記憶を探せば良いのか、それともこれまで渡った五つの異世界を思い出せば良いのか。
それとも、直感的に子供の頃だと思った通り、秋人の記憶を辿れば良いのか。
もし秋人の世界にしかない臭いだったなら、僕が思い出さないとふたりは絶対に答えに辿りつかないんだ。せ、責任重大じゃないか……
「臭いの元に向かって進んでるわけですから、もっともっと強く感じれば思い出すかも。すみません、役に立たなくて。でも、絶対覚えがあるんです。必ず思い出しますから」
「ああ、頼りにしているとも。だが、あまりそのことばかりに気を取られぬように。この世界に魔獣のような危険な存在が無いとも限らないのだろう」
ひぃん……なんでそういう怖い話するのぉ。
でも、そこについては正直心配してない。なんたってフリードさんがいるんだ。
ミラがフルパワーを取り戻したのも頼もしいけど、やっぱり戦闘においてはこの人以上に頼りになるものはいない。
調子が悪いとかなんとか言っても、あのゴートマンを圧倒するくらい強いんだから。
本当の本当に特別な敵でも出て来ない限りは大丈夫だろう。
「……っ! フリード様、少しペースを上げます。アギト、アンタも逸れないように付いて来なさい」
「何か見つけたか、ミラ=ハークス」
まだ遠方ですが、煙が上がっています。と、ミラはそう言って少しだけ歩くスピードを上げた。
煙……は、僕には見えない。目の前には枯れ木と曇り空ばかりで、あとは小さいオレンジ頭と大きな黄金の背中だけだ。
こう見るとやっぱりフリードさんでっかいなぁ。そして……ミラ……ちっちゃいなぁ。
「バカアギト! ボサッとしてんじゃないわよ! 逸れて迷子になっても探さないわよ!」
「っ⁉︎ 探して! それは探して! お兄ちゃんにそんな冷たいこと言わないで!」
誰がお兄ちゃんよ! と、ミラは必死に追い付いた僕の肩を結構強めのグーで殴った。お、おま……容赦……容赦してくれ……っ。
しかし……煙、とな。その煙は、もしかしてこの臭いと関係してるんだろうか。
だとすると……温泉? いや、硫黄臭いのとは別だ。じゃあ……
「——あれか。確かに、煙……だが……っ」
「煙……? フリードさんにももう見えてるんですか? 俺にはまだ…………っ!」
気付いたか。と、フリードさんも苦々しく顔を歪めていた。
ミラはずっとずっと遠くの時点でこれに気付いてたのか……と、もう呆れてしまいそうな光景が眼前に広がる。
枯林を抜け、視界を遮るものが無くなった頃。僕達はその曇り空の意味を知った。
背後を振り返った時と前を向いた時では雲の色が違う。
雨雲、雷雲なんて話じゃない。それは——それこそ——
「あの黒いの……全部煙かよ……っ。もしかして山火事……?」
「ううん、違う。それなら焦げる臭いとか炎のちらつきとか、もっと別の情報も得られるでしょう。あの先——もう一回林を抜けた先から、あの煙は上がってるわ」
先……と、ミラが指差したのは、さっき抜けてきた枯林とそっくりな、けれど少しだけ緑の見える林だった。
これを超えた先に煙の正体が……? しかし、こんなにも暗い色の煙……火事じゃなかったらいったい……
「もう少し急ぎましょう。もし、これが終焉の形だったなら……っ」
「——っ! もう始まってる可能性がある……ってことか」
ふたつ目の世界ではそうだったでしょ。と、ミラはそう言って小走りで林に向かい始めた。
フリードさんもそれに続いて、僕も大慌てで足を進める。
ちょっ……ふたりとも速い! ふたりの小走りが、僕のかなり頑張ってる長距離走くらいの速度なんだけど!
林に飛び込めば、流石に足下が悪いのかペースを落としてくれた。
ふたりは平気だけど、僕が付いて来られなさそうだから……だよな、これ。うう、面目無い。
でも、こんなことでへこたれてる場合じゃない。
転ばないように、怪我しないように。慎重に、でも出来るだけ急いで、僕もふたりと一緒に林の中を駆け巡る。そして……
「——っ。止まって。街……です。ですが……」
「見えたか。出来るだけ詳細を教えて欲しい。己にも。何より、アギトにも」
ピタリと足を止めたミラの隣で、僕もフリードさんも必死に目を凝らして彼女の視線の先を追う。
だが、当然見えるのは木と曇り空だけ。
ただ……心なしか……いや、間違いなく。空はもっと暗くなっている。じゃあ、この煙はこの先の街から……
「…………? この……臭い……」
ぼわんと頭の中に煙が出てきて、そして……ゆっくりとそれが晴れて行く。
頭上を覆ってる煙と同じだ、真っ黒ではないけど、かなり暗い灰色の煙。
お線香の煙じゃない。湯気でもない。これは……
「……煙突……でしょうか。煙はどうやら意図的に吐き出されているもののようです。それに……また、別の臭いも。街の様子は……」
煙突……? これは——この煙は、煙突から出てるのか……
ぼわんと頭の中の煙がもう一度幕を張って、そしてゆっくりと左右に捌けて……
「——工場——そうだ! 工場見学!」
工場……? と、ミラは訝しげな顔をした。
あ、いや。そこは多分ミラも分かってるんだ。
煙突があって、そこから煙が上がってて。湯気じゃなさそうだってことは、何か変なものを燃やしてるんだってことだろうか。
少なくとも、お風呂屋さんの煙突ではなさそうだ……と。
「……ちょ……っと、ごめん。整理する、それから説明するから。ミラ、街の様子を説明してくれ」
「……分かったわ。街の様子は……外を歩いてる人影は、今のところは無しね。みんな建物の中で——工場で働いてる時間……ってことかしら。でも、そんなの……」
あり得るのかな……? と、ミラは首を傾げる。
みんながみんな——ひとりの例外無く、同じ時間に同じような仕事をしている……と。
確かにそれは変だ。お昼ご飯の買い出しに出かける人も、他の工場や会社に仕事の依頼をしに行く人もいる筈だろう。
たまたま……なんだろうけど、誰も外に出ていないというのは……
「ミラ=ハークスよ。この煙が有害なもので、事情を知っているこの世界の人間は外を出歩かない……と。そう考えることは出来るだろうか」
「っ! そうですね、フリード様の言う通りです。この異臭……ここへ来てもうひとつ何か別の臭いも混じり始めました。正直、身体に良いものとは思えません」
もしこれが毒ガスなのだとしたら、私達も早くどこかに避難しないと危険かもしれません。と、ミラもフリードさんも空を睨み付ける。
僕は……僕の方も、ちょうど話が纏まったとこだ。
「ミラ、フリードさん。この臭い……と言うか、この先にあるもの。詳細は分からないんですけど、何を使ってるのかは分かりました」
「本当か、アギト。それで、この街では何を」
頭の中の煙が晴れて、そうして現れたのはやはり秋人としての記憶。思い出と言うべきなのかもしれない。
僕の頭に最初から浮かんでいた、でも気付けなかった答え。それは……
「——ゴムです、多分。最初に感じたあの重い臭いは、ゴム製品の臭いだと思います」
小学校の頃、工場見学の思い出だった。
アーヴィンや王都でもそれなりには使われている……と、思う。でも、日常的にはあまり見掛けない。
水道管のゴムパッキンや、輪ゴムや、ゴム手袋。僕には馴染みの深いアイテムも、ふたりには覚えの無いものだろう。覚えの……無い……?
「——? え……なんで……それじゃあ……」
「……アギト? どうした、アギト」
ちょっと待て、前提が崩れる。
召喚術式で訪れる世界は、あの世界よりも遅れているか、或いは同じ程度の文明の世界だった筈だ。
だとしたら……王都ですらメジャーじゃない工業が栄えてるこの世界は……




