第二百十九話【英雄】
——美しきものと靭きもの。然して全ては輝きを増す。
輝かしさ故に剛く、逞しさ故に眩く————
力を貸せ——
それは、無敵の英雄から力を失った巫女への助力の要請だった。
その場にいた誰もが——いいや、この国の誰もが信じられないことが起きているのかもしれない。
そのくらい異様な空気が流れていた。
「——ちょっと場所を変えようか。王宮へ……僕の仕事部屋へ——」
「——いいや、此処で良い。此処が良い。その為に己が出向いたのだ」
ここが……? と、マーリンさんは首を傾げる。
確かに、その意図は読めない。
フリードさん程の人物が助けを求める案件となれば、とても公に出来る話ではない筈だ。
それをこんな街中の、それも一般人の多くいる家屋でなんて……
「だったらせめて部屋へ行こう。お前がどんな話を持って来たか知らないが、英雄には英雄の義務がある。お前は強くなくちゃならない。弱みを衆人に晒してはならない」
話は聞く。けれど、それは僕とふたりきりの場所ですべきだ。と、マーリンさんはふらふらと立ち上がった。
まだ痛むんですか……腰……。だらけきった生活の報いですよ、それは。っとと、それはよくて。
「じゃあ、マーリンさんの分はご飯残しておきますから。一番奥の部屋で……」
「——いいや。魔女、お前だけに聞かせて解決する話ではない」
そう言ってフリードさんは、顔をゆっくりとミラの方へと向けた。
マーリンさんだけじゃダメ……ミラの力も必要だ……と?
確かに、今のマーリンさんは戦う力なんて残ってない。
となれば、やっぱり勇者にも手を貸して欲しいと思うのは道理だけど……
「……エルゥ。私達が出ましょう。アギトちゃん。ご飯、三人分残しておいて頂戴。
それから……お客さんが来ると困るわよね。玄関に私が残るから、それなりの場所で話をするように。それで良いかしら、黄金騎士さん」
「……感謝する」
行きましょう。と、ハーグさんはまだ混乱しているエルゥさんの手を引いて、レイさんと共に出て行ってしまった。
三人分……? 出て行く必要があるのはエルゥさんと兄弟だけ……ってこと?
ミラと、オックスと……僕も残って良いの? 僕は出た方が良いんじゃないの?
そんな疑問に答える必要無しと言わんばかりに、フリードさんは重苦しく口を開き始めた。
「——魔女——お前は知っているのか——っ。己から欠けたものを——己が奪われたものを——」
「——っ。フリード……お前……」
ギリ——と、奥歯を噛み締め、フリードさんは睨み付けるように——けれど、どこか懇願するようにマーリンさんを見つめる。
欠けた——奪われたもの……? マーリンさんとミラはどこか心当たりがあるみたいで、置いてけぼりな僕とオックスを他所に、三人は重々しい空気の中で話を続けた。
「……確かに、お前の言う通りだった。己の中には空白がある。己には思い出せぬ何かがある。そして……それこそが、己を腑抜けにした原因だった。答えろ、魔女。お前は何を知っている。お前は——」
「——ちょっと待った。フリード、先に確認したいことがある」
焦った様子のフリードさんの言葉を遮り、マーリンさんは真っ直ぐにその姿を睨み付けた。
怒ってる……わけじゃないけど、どこか冷たい表情だ。
巫女として騎士の指揮を取っていた時の顔とも違う。
なんだか……ちょっとだけ寂しくなる表情だった。
「その違和感に気付いたのはいつだ。いいや……その違和感を気にしなくちゃならなくなったのはいつからだ。
ずっと分かってた筈だ、その穴の存在には。けれど、お前はそれを無視して突き進むことを選んだ。
それがどうして、何があってそんな弱気を見せるようになったんだ」
マーリンさんの言葉は、少しだけ棘があるように感じた。けれど、どこか懐かしいものにも感じた。
きっとこれは、対等な——マーリンさんとフリードさんの間だから、こういう言葉が選ばれているんだろうというだけ。
きっとこの問答は、かつての旅の間に繰り返されたものと同じ。
導く相手としてあった僕とミラに何度も繰り返した、指導としての言葉と同じものだった。
「……そうだ、最初から気付いていた。そして、それが何を意味するのかも——己にとって毒であることも気付いていた。だが、それに足を取られたのは……」
「…………? っ⁈ わ——私ですか——っ⁉︎」
苦々しく眉をひそめたフリードさんが目を向けた先には、心配そうに彼を見つめていたミラの姿があった。
ミラを見て、何かに気付いた……ってことか。それは……ええと……
「ミラ=ハークスの在り方にはずっと疑問を抱いていた。彼女はもっと強かった筈だ……と。共に魔王を討ちし勇者が、こんなにも弱々しい筈が無いという願望もあったのかもしれない。だが、やはり違和感はあった」
勇者の姿はもっと気高く、そして逞しいものだった。
その背中には自信が溢れ、その瞳には明日が映っていた……筈だった。
フリードさんはそう続けて、そして堪えきれなくなったように目を伏せる。
魔王を前にも一度として挫けなかった、顔を下げなかったフリードさんが、何かから逃げるみたいに目を背けてしまった。
「——だが、そんなものは全て消し飛んだ。先日の一件……いいや、その前日から。
己の目には、全く知らぬ少女の姿が映っていた。
ミラ=ハークスの持っていた冷静さも、謙虚さも、思慮深さも。何もかもを違えた、まるで別人である少女を、あろうことかお前が——魔女、お前がその名で呼んだのだ。そして……っ」
己も、それを当たり前だと受け入れたのだ。フリードさんはそれっきり黙ってしまって、重たい沈黙が部屋を押し潰してしまいそうだった。
先日の一件……ミラの記憶が戻って、そしてゴートマンを捕まえた日。フリードさんは、その日に何かを感じたんだ。
記憶の中のミラと、目の前のミラの違いに。
そして、違う筈のミラに違和感が無いことに、彼は強く疑念を抱いたらしい。
「……それで。答えは出たのかい」
そんな彼に向けて発せられたマーリンさんの言葉は、まるで意味が無いもののように感じられた。
答えが出ないからここに来たんじゃないの……? と。
でも、そんな間抜けは残念ながら僕だけだったらしい。
フリードさんがもう一度顔を上げると、その場にいた全員が——僕以外の全員が、納得した表情を浮かべる。
「——お——俺……ですか……?」
僕に向けられていたのは、黄金騎士の悲痛な面持ちだった。
何かを思い出せない。けれど、それが大切なものだったのは分かっている。
事情を知る僕からはそういう風に見えてしまうけど、本当のところはどうなんだろう。
もしかして僕は、この人を深く傷付けてしまっているんじゃないのか。そんな罪悪感が湧いてしまうくらい、切なげな表情だった。
「……はぁ。流石だね。鈍感も鈍感、人の気持ちなんてまるで理解出来ない木偶の坊。それでも、無意識に真理へと手を伸ばす嗅覚は本当に流石だ。呆れたよ、この大馬鹿が」
マーリンさんはすっごく辛辣な言葉を投げ掛けて、けれど優しく笑って椅子に腰掛けた。
がたっと椅子が少しズレてしまうくらい勢いよく、倒れそうになった身体を預けるように。そして、もう一度大きなため息をついた。
「……それで、お前はどうしたい。その様子じゃとっくに気付いてるんだろう? お前は此処に——いいや。僕に、いったい何を求めてやってきた」
「——力を——その目を貸せ、魔女——っ。此処、王都でお前がよからぬことを企てていたのは知っている。それに己を——その儀式に己を加え入れろ——魔女——っ!』
ぶわっ——と、腕に鳥肌が立って、背中の毛穴から冷たい汗が湧き出たのが分かった。
フリードさんはどこまで知ってる、どこまで気付いてる。
この人が王都に来たのは、最初の遠征の直前——三度目の召喚の後だ。
それから彼がこの街にいる間、僕達はアーヴィンに戻っていた。
術式も当然ここでは行われていない。なのに……
「……それじゃあまだ半分だ。力を貸す理由——何かを埋めたいという願望、そのもう半分。その答えが出ていないなら、僕はお前に力を貸すわけにはいかない。
答えろ、フリード。護国の英雄でも、黄金騎士でも、ましてや敗戦の兵でもないお前自信が、いったい何を求めたのかを」
「——己は——っ。己はかつて、彼を親友と呼んだ。唯一無二であった、そうでなくてはならなかった。
だが、違った。己の中には何かがあった、もうひとりの親友が在った。
そしてそれが——この少年の見せる輝きと似ていたのだ——」
初めて出会った時、その弱さに呆れ果ててしまった。
何をも害することなど出来ぬ、あまりに無防備で無力な存在に思えた。
そして、それは事実だった。
フリードさんは僕をしっかりと見つめたまま、拳を震わせて声を荒げる。
怒ってる……らしい。
それは……僕に? いいや、違うみたいだ。
だって、みんなも同じ顔で僕を……
「——だというのに——っ! もう一度見えれば、まるで彼のような匂いを発したではないか!
他の誰よりも気高くあった彼と同じ空気を、あろうことか何者でもない少年が発した——いいや、己がこの少年から感じ取ったのだ!
そして——そんな彼に背を押され、ミラ=ハークスは強い輝きを放って見せた。
故に、己は確信した。魔女、お前が見せたかったものは——あの日、あの場所で。ベルベット=ジューリクトンに連れられた無力な少年は、己の欠落を埋め得る一片だったのではないか……と」
あの日……再召喚されてから初めてフリードさんとオックスに出会った日。王都へと向かう道中に突然現れた分岐ルート。
あのイベントこそ、マーリンさんの企みだった……と?
僕が目をマーリンさんに向けたからだろうか、ミラもオックスも釣られて彼女へ目を向けた。
「……はあぁ……。アギトくらい鈍いのも考えものだけど、お前の鋭さもそれはそれで面白みに欠けるね。
分かった、手を貸そう。幸い……と、言うべきだろうね。手札はまだ揃ったままだ」
「——っ! 魔女——では——」
ただし、条件がある。と、マーリンさんはまた冷たい目をフリードさんに向けた。凄く凄く冷たい……かなり無理をしてる表情を。
「——機会は一度きり。それ以上は不可能だと思え。折れて錆びて、今にも朽ちそうなその黄金の剣で、お前はもう一度世界を救う自信はあるか——」
マーリンさんの問いに、フリードさんは即答した。
何を迷うことも無く、憂うことも無く。力強く頷いて、そしてもう一度胸を張る。
僕から見えるその背中には、まだかつての強さは映されていなかった。




