第八十三話
僕らは名も知らぬ村に別れを告げ、小石も取り除かれていない荒れた道を進む。本当なら昨日通り過ぎていた筈の道も、彼女は文句ひとつ言わず黙々と……いや、随分賑やかに歩いていた。
「それよりほら、お弁当にって貰ったチーズとベーコンのサンドウィッチ。悩むなぁ〜……帰ったら何食べようかな。アギトは知らないでしょうけど、ロイドさんって軽食も出してた時期があるのよ。その時はまだ蓄えもあったから、食べておけばよかったなあ……昔っから凄い人気で、ずっと気になっててね」
「おうおう、食い意地の張った子だねアナタも。俺はそうだな……」
別にホームシックというわけでも無いのだが、懐具合が暖まった事で多少の贅沢が許される現状に、考えられる数少ない選択肢としてロイドさんの所でご飯を食べるといういつ叶うかも分からない妄想に耽っていたのだ。
「王都に着けばきっと美味しいものもいっぱいあるだろうし。図書館にも行ってみたいし、服だって色々見てみたいし……あぁ、お金があるって幸せ」
「……この世の真理に到達してしまったか…………」
ゴツゴツと大きく膨れ上がった巾着を後生大事に胸に抱えるその姿は、出来れば見たくなかったものの一つであろう。無垢な少女がカネと言う力に溺れる瞬間を見た気分だった。
「…………あれ。と言うか、お金があるなら今度こそ馬車なりなんなりに乗れば良かったんじゃ……? とりあえず野宿は避けられるんだし……」
「………………そ、それはほら。出発前にも言ったじゃない。これは見識を広げつつ、苦難を乗り越えると言う試練も兼ねた旅なんだから。馬車なんて…………うん……」
さては忘れてたな? と言うか金欠過ぎて馬車という選択肢がハナから浮かば無かったと見た。まったく……また魔獣に囲まれたらどうするつもりだ。
「まあ、いいじゃない。アンタとこうして馬鹿みたいな話しながら歩いてるの、楽しいもの。それに、馬車に篭ってちゃ見えない物もいっぱいあるでしょう?」
時々飛んでくる不意打ちのトキメキ攻撃に、いちいち僕の心臓はドクンと跳ねる。落ち着け、深い意味は無い……他意は無いんだコイツに。ぱたぱたと道端に咲く小さな花に駆け寄った、文字通り花を愛でる少女の綺麗な横顔に、僕は彼女にバレない所で太腿を強く抓る。落ち着くんだ……
「…………まあ、馬車に篭ってたら避けられた厄介ごとも多いんでしょうけど。今回のは……」
「……厄介ごと? どうかしたかミ——」
すくっと立ち上がった少女の元へ歩み寄ると、突然乱暴に胸ぐらを掴まれて花のすぐ横に突き飛ばされた。目の前で抜かれたナイフと、見上げる位置にある小さな背中に僕はすぐに辺りを警戒した。おそらく魔獣の気配を察知したのだろう。
「アギト。そこ動くんじゃないわよ……」
そう……これにも別に他意はないのだろう。僕が頼りにならないから、邪魔にならないようにそこでジッとしていろ。というのではなく、戦うのは自分の役目だ、と。そう認識して行動しているだけなんだ。だから……だからこそ、余計に無力を痛感してしまう。
「……はっ!」
ミラの手を離れ、風を切ってナイフは小さな蜘蛛に突き立った。ただの蜘蛛からさえ守って貰わなくてはならないのか……と、少しショックを受けたのも束の間。それは姿を顕にした。きっとそれはナイフの突き刺さる音に反応して食いかかったのだろう。砂の中から飛び出したのは細長いミミズの様な、だが確かに太い牙を持つ、RPGに出てくるワームモンスターの様な魔獣だった。見た目がだいぶ精神衛生上よろしくないのだが、彼女はこういうの平気なんだろうか。
「ビンゴ! さ、ちゃっちゃと仕留めるわ!」
魔術を使うそぶりも見せずに猛突進していって、ソレが顔を出した時の衝撃で蜘蛛ごと吹き飛ばされていたナイフを拾い上げる。そして……………………その後にあったことは僕の口からはとても……うぷ……
「……うえぇ…………ソレ、よく平気で触るよな……うぷっ……」
「何言ってんのよ。貴重な素材なんだから……ほら、アンタのポーチにも空の瓶入ってたでしょ? あるだけ寄越しなさい」
空の瓶? はて、出発した時にはそんなものは……と覗いてみると、確かに新品の薬瓶が無理やりねじ込まれていた。さては先の村で買い込んだのだろうが、果たして何の為に……?
「これの血はポーションの材料になるのよ。皮を鞣して靴にしたりもするわね。もともと沼地に多くいるんだけど、乾燥にも強いから干上がったオアシス跡地なんかには大軍が住んでたりするわ」
「たいぐ…………ごめん、気分悪い……」
情けないとか言わないでくれ。一メートル近い、太さも直径三十センチは超えているモンスターワームの大群なんて想像しただけで鳥肌が…………ん? ちょっと待って? その前なんて言った? ねえなんて言った⁈
「み……みらさん? もしかしてなんだけど……ごめんね? 俺の勘違いだよね? ソレの血をどうのこうのって……そういうのもあるよって……話だよ……ね?」
「するわよ、ポーションに。皮も持って行きたいけど、まあこればかりは道具も無いし買値も高くないし。後は青ガマの油と……」
嬉々として聞きたくも無い単語を並べ出す。やめてくれ……いつも僕が寝てる横の部屋で、そんなものいじくりまわしてたのか君は。これからどんな顔で手を繋げばいいんだ僕は。
「…………ほら、私のドジで色々迷惑かけたじゃない? だから……そう、使えるものは使おうって。錬金術を使えたらいくらか旅の助けにもなるかなって」
「だからって……生きたままソレを解体することないだろ…………」
まだピチピチと跳ねる肉片を前にしては、どんな事を言われても狂気的にしか聞こえない。僕はまた一つ賢くなった。とても健気で殊勝な事を言っているのは分かるのだが、ごめん。ソレがチラついていては話が入ってこない。
「しょうがないじゃない! 死んでからだと心臓抜きにくいのよ! いいから瓶寄越しなさい!」
「しんっ⁉︎ ねえ大丈夫⁉︎ 本当に大丈夫そのポーション⁉︎ 飲んでも毒状態とかにならない⁉︎」
彼女は結局、両手を真っ赤に染めながらワームの心臓を生搾りに、それはそれは枯れ果てるまで搾り尽くした。昨日はあんなに献身的で可愛らしかったのに……
「…………ところでさっきのワームって、近付かなかったら攻撃されなかったよね? あれをわざわざ攻撃したのって……」
「…………さ、行くわよ」
僕らはすぐ側の川で手を洗いまた歩き出した。目指す場所は王都ユーゼシティア。果たして後どれだけ進めば着くのかも分からない、そして幾つの街や村を経由するのかも分からない旅は続く。
おーい。と、呼ぶ声がする。ああ……幻聴だ。彼はもういない。もう一度……もう一度だけ目を瞑って意識を深く深くに沈める。さっき見た悪い予兆をちゃんと確かめる為に。
「…………ノイズが多過ぎる。まだ……まだ先なのか……」
うまく映像を拾えない。まだ遠い、遠い先の話なのか。それとも“彼”が関係しているのか。分からないが……確かめられるまで試すしかない。
「ユーリ! ユーリはいるか!」
「はっ! 近衛騎士団団長、イルモッド卿は未だ帰還なさっていません」
そうか、そういえば僕が使いに出していたのだ。そろそろ帰ってくる頃と思ったが……ええい、どこで油を売っているんだ泣き虫め。今アイツの星見に回すだけの余力も時間も無い。早く……早くしなければ……
「落ち着け……必ず無事会える筈なんだ……」
もう何度目かも分からない瞑想をそれからも繰り返す。彼女についてはあまりにもノイズが多過ぎる。これはあの少女の特異性によるものか、彼女を取り巻く環境の特異性によるものか。或いは……
「…………アギト……か」
彼女の側に常に在るもう一つの星。なんの変哲も無い、ノイズの一つも入らない取るに足らないただの少年と思っていたのだが……
「………………過去の無い男、か。まさかね……」
彼の顔が脳裏を過る。彼の声が聞こえる。ああ——僕はこの幻想から、どれだけの時を費やせば逃れられる。勇者殺しの汚名を、僕はいつになったら雪ぐ事が出来る。
「……早く…………早く…………っ」
「マーリン様。お食事の準備、整いましてございます」
小間使いの声など無視して、僕はまた目を瞑る。もう一回、もう何回だって構わない。視えるまで、何度だって——