第百九十三話【アギトとミラちゃん】
ミラちゃんの記憶が戻ってきた。
それはつまり、この六十六日に及ぶ戦いにも幕が降りることを意味していた。
アギトにとってはそこに異世界での旅も加わるのだから、かつて共に過ごした日々よりも長い時間を費やしたのだろう。
「ふー。さてと、どうしたものかな」
僕の仕事は——魔術師としての役割はこれで終わった。
召喚術式と簡易的な強化——ボロボロになった身体能力の補助くらいしか出来ないとは言え、これでもう二度と魔術を使う日が来ないと思えば……うん。
僕みたいな半端な術師でも、少しばかり惜しいと思ってしまう。
だが、今僕が頭を抱えている問題はそこじゃなくて……
どたどた。ばたばた。と、一階で物音がする。
ミラちゃんの記憶が戻ったのを——完全に思い出しているのを確認する為、もう少しだけ様子を見ることにした。
もっとも、アギトについての記憶さえ戻っていればあとはなんだって良い。
けど、大人として、ね。
僕が蒔いた種で、そして僕が巻き込んだ問題だ。最後まで責任は取らなくちゃ。
で……ちょっと様子を——体調を見ようと、これまでの健康診断のカルテを整理する為、ふたりにご飯を作って僕ひとりだけ部屋に篭っているわけなんだが……
「——失礼します——っ!』
ばたん! と、大きな音を立て、そして血相を変えて部屋に飛び込んできたのはミラちゃんだった。
それはそれは大急ぎでドアを閉め、そしてきょろきょろと部屋の中を見回して……ベッドの下に潜り込んで行った。
うん、すっかり元通り……か?
まあ、記憶を失ってからのミラちゃんは、どちらかと言うと大人しい子になっていたから。
活発でやんちゃなんだけど、元々を思えば……という話。でも……
「失礼しまーす。おーい、ミラってばー」
少しだけ間を開けて、今度はアギトが乗り込んできた。
まあ……良いけど。君ね、仮にも僕の部屋だぞ? もうちょっと躊躇したまえ。
ノックもせずにずかずかと上り込んできて……なんて。それは僕がいつも怒られてたやつか。
「おーい、ミラー。出て来いってば、ほら」
部屋に入るなり、アギトは他のものになど目もくれずにベッドの下に頭から潜り込んだ。
そこにいるって最初から分かってたみたいに、それはもう一目散だった。
出ておいでとか、こっちおいでとか。なんだか犬か猫をあやすような口ぶりで……
「いででで……でへ、うふふ。ミラ、お兄ちゃんだぞー」
少しするとアギトがベッドの下から出てきて、そして嬉しそうにミラちゃんを抱っこして笑い始めた。
嬉しそうに……うん、それはそれは幸せそうな顔だ。
無理も無い、ずっとずっとこの日を待ち望んでいたんだ。
もう一度、ミラちゃんの隣に。
家族として、勇者の片割れとして。またそこに戻ってこられたのだから、その幸せは計り知れないものだろう。
それは良いんだけど……
「——ふしゃーっ! ふーっ!」
その抱き締められてるミラちゃんが、鬼の形相で首に噛み付いているから話がおかしくなってしまう。
ちょっと待った、色々とツッコミきれない。
まず……アギト。分かるとは言ったけど、その扱いはちょっと分からない。
お兄ちゃんだぞと口にしながら、やはりその扱い方は犬か猫のそれに見える。
そして……ミラちゃんのそれはもっともっと分からない。
「……少なくとも、それは兄妹ですら無いね。はあ」
ふしゃーっ! と、何度も何度もけたたましく威嚇しながら噛み付くミラちゃんと、それさえ嬉しいと言わんばかりにデレデレしたアギト。
うん、ごめん。それは兄妹だとしてもおかしい。
懐いてないのにめちゃめちゃ愛情を注いでる飼い主と、本気の本気で心を開く気が無い獰猛な野生動物だ。
おかしい……何かがおかしい……
「はあ。もう、ふたりとも。僕の部屋で暴れないでおくれよ。まったくもう……あっ、こら! ミラちゃん! 布団に爪立てちゃダメだよ!」
いや、なんの注意だ?
アギトから逃れる為に、ミラちゃんは必死に暴れ回っている。
それでも全くと言って良い程緩まない拘束に、アギトへの直接攻撃では意味が無いと悟ったのだろう。
なんとか逃げ出そうともがくうちに、一番近くにあった僕のベッドにしがみつこうとしたのかな。
じゃない、なんで冷静に分析しなくちゃならないんだ。
「ほら、ミラってば。暴れるんじゃない。マーリンさんに怒られちゃうぞ。でへ……でへへ」
「ふしゃーっ! くっ付くな! 離しなさいこのバカアギト——っ!』
さて。
ここでひとつおさらい……? 思い出しておかなくてはならないことがある。
と言うのも、この現象、光景。僕としたら、正直馴染みの無いものなんだ。
ふたりの関係性といえば、ミラちゃんがアギトに甘えて、抱き着いて、噛み付いて。
そしてアギトはそれを全部受け入れて。そういうやりとりを旅の間にずーっと見てきた。
うん、ずーっと。それはそれはもう、飽きる程に。でも……
一番最後の時、それは少し変わってしまったんだ。いえ……その……原因は半分僕にあるんだけどさ。
「もう……はあ。折角部屋に来たなら丁度良い、また健康診断の時間だよ。ちょっと大人しく……静かに……は、無理か」
僕の言葉にアギトが隙を見せて、そしてミラちゃんは大暴れして遂に自由を手に入れた。
手に入れて……ザック達の為に準備した止まり木のてっぺんに逃げ込んでしまった。ごめん、それもやっぱり分かんない。
ふたりが暴れ狂ってたもんだから、ザックもフィーネも部屋の隅で固まっちゃってるし。
キルケーとヘカーテに至っては、カゴの中で怯えている始末。
お願いだから人の部屋で暴れないで……
「……はあ。じゃあアギトから。問診が終わったらちょっとだけ外で待っててね。君がいると全然進まなさそうだから」
「なんてこと言うんですか! 俺はただ、久々に再会した妹とのスキンシップを楽しみたいだけなのに……」
だから! それは兄妹のスキンシップとはまた別のものだよ! と、怒鳴り付けてやりたい。だけど……はあ。
そう、原因は僕にある。
僕が唆したんだ、ミラちゃんを。
本当にそうだと思ったのが半分。そして、アギトへの依存を強めて精神の安定を図ろうとしたのが半分。
打算込みの悪巧みで、僕はミラちゃんにその感情が恋心であると嘯いた。
もっとも、それは全く的外れなものでもない筈だったんだけど……
「はい、じゃあまた質問していくから。ちゃんと素直に答えるんだよ」
はーい。と、にこにこ笑って返事をするアギトだが、残念ながら心ここに在らずだ。
意識はすっかり木の上で威嚇行動を取っているミラちゃんに向けられている。
このバカアギト……と、お腹を殴っても良かったけど、ミラちゃんを唆した手前、もう過剰なスキンシップは取れない。
間抜け顔でフラフラしてるバカアギトを前に、僕はいつも通り問診を始める。
身体に痺れや虚脱感、痛みは無いか。
目を瞑って真っ直ぐ立ち上がれるか。
そのままぐるっと回れるか。
腕を上げて、下ろして。膝を曲げて、伸ばして。
身体を捻ったまま維持して、そのまま腰から前に倒れられるか。
うん、問題無し。身体については異常も無さそうだ。
「となると、次は心の方だ……と、言いたいけど。こればかりは人前で聞くものでもないしね。ちょっと後回しにしよう」
「別にミラに聞かれるくらい平気ですけどね。まあ……マーリンさんが言うなら……」
普通は兄妹でも心の内を聞かれるのには抵抗があるってもんだよ……?
ただ、そこは素直で子供なバカアギトだからね。
迷惑掛けるんじゃないぞ。と、それだけミラちゃんに言い残して部屋から出て行った。
階段を降りてく音がしたから、きっと下でミラちゃんを待ってるんだろう。
自分は聞かれても良いけど、ミラちゃんのを聞くのは良くないと慮れる。
うん……気が利くのか利かないのか。
「……大変なことになってしまったね。さて、じゃあやろうか。君も身体の診断からね」
アギトがいなくなると、ミラちゃんはするすると木から降りて僕の側に寄って来た。
くりくりした目を僕に向けて、そして何かを待っているように……?
「……? ミラちゃん、どうかしたの?」
「……えへへ」
えへへ。と、にこにこ笑って、そしてミラちゃんは僕に抱き着いてきた。
ああ……そっか。それも久し振りだったね。
記憶を失って、ミラちゃんは人に甘えることをやめてしまった。
だから、僕だってミラちゃんとこうしてくっ付くのは久し振りだ。久し振——
「————ぶはぁ——っ」
「——っ⁈ ま、マーリン様——っ⁈」
久し振り過ぎて刺激が——っ!
思いっ切りぎゅーって抱き着いて、そして嬉しそうに頬擦りをするミラちゃんに、僕の鼻の粘膜は限界を突破した。
そして、鼻血を出して倒れた僕に、ミラちゃんは心配そうな顔をしながらも全く離れる素振りを見せない。と言うか……
「マーリン様、大丈夫ですか……えへへ。ふふ……やわこい……ぐぅ」
「ちょっ……ね、寝ないで——ぶほっ——」
アギトぉーっ! ヘルプ! 助けてくれアギト!
やわこいだのなんだの言いながら、ミラちゃんは僕の胸に潜り込んで、そしてすうすうと寝息を立て始めた。
寝ないで! お願いだからせめて介抱はして! って言うか健康診断をさせておくれよ!
寝付きが異常に良い。一度寝たら中々起きない。下手に起こすと機嫌を損ねる。ああ……それも久し振りだね。
「……不眠症、治って何よりだよ。健康診断なんて必要無かったね」
きっと食欲も戻っていることだろう。
いったい何があったのか、旅の思い出話はもうちょっと後で。ふたりが揃ってちゃんと話せる状況の時に聞こう。
今は……ぶほっ——。は、鼻血が……鼻血が止まらない……っ。ぼ、僕の健康が損なわれる……っ!




