第八十二話
熱を出して看病されるなんて何年ぶりだろう。足止めしてしまったという負い目もあるが、むしろ気恥ずかしさからミラの顔もまともに見れなかった一日だった。こうして彼女が買ってきてくれたサンドウィッチと果物を夕飯にしている今だって、黙って俯いたままでいる自分が情けない。彼女が僕を元気付けようとしてくれているのが分かるから、尚更そう感じた。
「…………ごちそうさまでした」
「……ご馳走様。ほら、病人はさっさと寝る。もう一方の布団敷き直すから、今日はそっちで寝なさい」
そう言って彼女はテキパキと片付けと準備を進める。こうしていると本当に頼りになるというか、この少女に助けられてばかりだと溜息すら出てしまう。今更何を。足手纏いの邪魔者はもう慣れっこだろう。そう思いもするが、やはり胸は痛むのだ。そうこうしている内に彼女は新しいシーツを広げ、僕がさっきまで寝ていた布団も片付け終えてしまった。もう一方の布団でと言うから、今日は一人で眠るのかと少し期待したが……うん。いっそこんな需要でも、あった方が心置き無く甘えられるか。いや、それとこれとは別問題で。葛藤する夜は続きそうだ。
「そうだ、何か欲しいものとかある? 頭が痛いとかお腹が痛いとか、鎮痛薬くらいは買えたけど。お水はあるし……あ、寒気とかは大丈夫? こんな時期でも毛布くらいは言えば貸してもらえるでしょう」
「い、いや大丈夫。ありがとう」
言えない……とても、恥ずかしいからいい加減一人で寝てくれとは言えない……いや待て? 彼女がこれを恥ずかしい事として認識すればもしかしたら…………うん。これは抱き枕一号としての最初の反逆だ。意地を見せろ一号! じゃなかった、アギト!
「……そうだ。俺も抱き枕が欲しいなー。お前も最近、随分寝付きが良いみたいだし。どれ程の効果があるものかと気になっててさ」
…………無理があっただろうか。無理があっただろう。流石に言い訳も出来ない。彼女が持ち前の鈍感主人公属性を発揮してくれれば、そこらのシーツに枕だとか上着を詰め込んで作ってくれるのだろうが……いや、そうしてくれ。そう言う意図なのだと解釈してくれください。
「抱き枕……って。べ、別にそんな風には思ってないわよ⁉︎ ほっ……本当よ⁉︎ 丁度いい固さで丁度いい温度だからとか……そんな……べっ、べべべ別にアンタを物扱いしてるつもりとか意図は無くて……」
「………………いいよ、よく分かったから……」
全然違う地雷を踏み抜いた。そうか……枕はちょっと固めがお好みですか……ええ、煎餅布団に慣れた貴女は、いつぞや布団が柔らか過ぎて落ち着かないと言っていましたものね。分かっていましたとも。
「……しょうがないわね。今日だけよ?」
「………………はい?」
はい? 今日だけって……何がで……ちょっと? ナゼ正面からお布団に侵入してくるのです?
「ちょっ……ちょっと? ジョークですよジョーク。と言うか本気にしたとしてもせめてあっち向きで……」
「それだと私に枕が無いじゃな……ち、違うのよ? 今のは言葉の綾というか……」
ダメだ、この娘は僕らと根本的なところで違う。人を枕扱いする事の失礼さは弁えていても、年頃の女の子が野郎に抱きついて眠るというハーレム漫画もののイベントをなんとも思っていない。そうですか、ドキドキイベントはお好みでないですか。良いさ……そっちがその気ならこっちも……
「……分かった、なら今晩は抱き合って眠るとしよう。いやー、これならいつもより暖かくして眠れるし丁度良いやー」
「やっぱり寒気あるんじゃない。毛布借りてくる? 大丈夫?」
ちょっとは…………ちょっとは動じろやぁあああ‼︎ なんだそれは⁉︎ 本当に鈍感難聴系のハーレム主人公じゃないか! その属性を僕に寄越せ! 可愛いヒロインたちを振り回すハーレムの王は俺のもんじゃい‼︎
「…………じゃ、おやすみ。辛かったら言うのよ」
「えっ……ちょっと?」
ミラは在ろう事か僕の首に腕を回して喉元に擦り着くようにして眠りについた。待った、それは本当に想定してなかった。お兄さ…………おじさんが悪かった。からかったりしないから背中に……抱き枕で良いから背中に抱きついておくれ⁉︎
「……ちょっ…………ミラってば……ミラ? ミラってば? もしもし?」
返事は無かった。寝付きがいいにも程がある。都合よく眠ってしまえてヒロインをやきもきさせるその姿は、まさしく鈍感主人公。やめろ……三十路のおっさんがヒロインのラブコメなんて僕は見たくないぞ……
「…………どうしようか……」
なんとかして引き剥がそうか。いや無理だ、あまりにもホールドが固すぎる。まるでレスラーの如きホールディング。うーん、寝技でも世界を狙える逸材だ。ではなくて。どうする……? いっそ本当に抱きしめて……いやいや。だが…………うん、こんな美味しい思いが出来るのもこれっきりかもしれないし………………いやいや。いやいやいやいや……いや……
僕は欲望に忠実にはなりきれない。なるべく体を反らして苦しい体勢で眠ることにした。
目は驚くほどあっさり覚めた。まだ日も登っていない内から……というのは、まあ早寝だったから。しかしこれはマズイ……マズイことになった。眠っているうちに僕の身体が悲鳴を上げたのだろう。決して本能が欲望のままに体を動かしたのでは無い……と信じたい。頰を撫でる少女の髪。を撫でる僕の左手。右腕をしっかりちゃっかり彼女の背中に回したりしちゃって、まるで愛し合う二人の気持ちのいい朝だ。そしてなにより……
「…………う……ぐう……」
その事がただそれだけで心地好い。ダイレクトに感じる彼女の匂いも体温も……違うんです。変態じゃないんです。そう……なんというか………………極上のシルク製抱き枕を抱いている様な。優しい柔軟剤の香りと、お日様の匂いが混じった様な……干したての布団の様な、眠気を誘う匂いを発する極上の抱き枕。それがちょっと犯罪感を醸し出す姿形をしているだけで……いえ、犯罪感を醸し出す姿形の少女を抱き枕にしているだけなんで当然なんですけど。
「……う、動けん…………なんと離れがたい……」
離れねば。せめて顔だけでも上げねば。体は頭と反した行動ばかりを取る。これはアレだ。この間不安で眠れなかったなんて子供みたいな事があった時、彼女の匂いと体温に安心を覚えてしまったから。刷り込みでこの匂いに安心を覚えてしまうんだ。だがそんな事はどうでも良い。早く離れねばマズイ。とてもマズイ。具体的には男の子の朝は下半身が……マズイ‼︎
「…………ん……んんー……んむ。おはよ……」
「お——っ⁉︎ おっ⁉︎ おおおおおはようございます⁉︎」
いつも起こしたって起きないくせに、今日に限って……っ! マズイ…………マズイか? いっそここで一発ぶちのめされても、彼女がこれに懲りてもう抱き枕にはしないとなれば……これだ!
「……おーっ! おはようミラ! いやあ良い朝だなあ! あっはっは!」
僕は力一杯ミラを抱きしめて頭を撫で回した。だがこれでは足りぬ。もっと……もっと変態的な行動を……っ‼︎
「いやあ! やっぱりミラの匂いは落ち着くなあ! こうして顔を埋めていると今にも二度寝してしまいそうだよ! なっはっは!」
どうだっ⁉︎ 以前、匂いのことで随分恥ずかしがっていた事もある。これなら流石に離れるだろう! ほら、右の頬は準備万端だ! 左も、なんならボディだって……
「…………すぅ……」
「……寝っっ⁉︎ 寝るなああっ‼︎ 色々言いたいけど、普通にもう起きる時間だから寝るなあああっ‼︎」
流石に怒鳴れば起きるみたいだ。随分機嫌悪そうに彼女は顔を上げて僕を睨みつける。迫力の無い寝ぼけた顔に、僕は畳み掛けるようにお説教をすることにした。
「もう少し! 警戒心を! 持ちなさい! 女の子が野郎に気軽に抱きついたりしちゃいけません‼︎」
「なによ……うるさいわね……今更じゃない…………半ば家族みたいなもんでしょ、もう……」
「そう言う問題じゃありません! あっ⁉︎ こら寝るな‼︎」
また顔を伏せて眠りに就こうとするミラを叱りつける。なんだ……なんだお前は! お兄ちゃんっ子か! さては昔はお姉ちゃんっ子だったな⁈ 起きなさいと何度も揺さぶる僕の顔を、ミラが嬉しそうな顔で見上げたのは暫く格闘してからの事だった。
「…………元気になったみたいね」
「おっ……おまっ…………おう、おかげさまで……」
何にそんなに元気になったのか知らないが、随分上機嫌で彼女はまた強く抱きついて二度寝の体勢に入った。だから起きなさいって…………起きなさいって言ってるでしょっ‼︎




