第百九十一話【最後の問答】
もう、無理かもしれない——
神様は言った。これは剪定だと。
この世界の終焉は、神様自身の手によるものだと。
そして——それが現実に起こるのをただ見守るしか出来ないのだと、そう思ってしまった。
もっと早くに気付けただろうか。
いいや、無理だっただろう。
神様は本気でこの村を愛していた。
愛していたが故に、最後の最後までそれを認めたくなかったんだ。
神様としての最後の仕事が、人々の未来を終わらせてしまうものになってしまうかもしれないだなんて。
だから……神様は……
もう……ミラは戦えない……っ。
どんな強敵を前にしても、絶望的な状況にあっても、アイツは必ず胸を張っていた。
縮こまったりせず、小さな背中を目一杯伸ばして立ち向かっていた。でも……っ。
その背中はどこにも無かった。
勇者の姿はどこにも見当たらず、そこには怯え切った少女の姿だけがあった。
いつか僕に怒られた時のように、小さく丸く萎縮してしまった背中が見えた。
それでも——それでも、諦めちゃダメだから——っ。
頑張れ——と、そんな無責任な言葉を投げ掛けた。
絶対に諦めるわけにはいかなかった、ここで投げ出すわけにはいかなかった。
ミラの記憶を取り戻す為にも、また失敗しただなんて言えるわけがない。
勇者として歩き続ける為にも、見たくない筈の終焉を引き起こす装置に成り下がる暴挙を、黙って見過ごすわけにはいかない。
だから——僕は必死で立つし、歩くし、みんなを避難させた。
そして——もう一回——もう何回だってお前と一緒に————っ!
「——そんなの——認められない——」
負けんな——っ!
負けんな——負けんな——っ!
ミラが挫けたならお前が立て!
ミラが諦めるならお前が踏ん張れ!
お前は勇者だ!
お前も勇者だ!
このバカアギト——っ! 心なんていくら折れても良いから——半身だけは何が何でも守り抜け——っっ‼︎
————起きろ——人造神性————
その言霊を耳にするのは、いったいいつ以来なのだろう————
「————ミラ————ちゃん————?」
ゆっくり……ゆっくりと、ミラは僕の腕から離れていった。
その言霊の意味を忘れた日は無い。
その術式がもたらす結果を忘れられる筈が無い。
神様の発する重圧なんて無かったかのように、彼女はゆらりと立ち上がって顔を上げた。
「————承認————。ミラ=ハークス=レヴ、起動しました」
「——レヴ——っ!」
人造神性。ハークスの秘術、平たく言ったら改造人間。
元々あったミラの人格、ミラを作ったもうひとりのミラ。そんな紹介なんて今更なんだっていい。
ただ——その名前を口にしたってことは、ミラは————
「——お久しぶりです、主人」
「主人……って——っ⁉︎ レヴ、お前——」
挨拶をしている場合ではないようですね。と、レヴはすぐに顔を僕の方から神様へと向けて、そしてぎゅっと拳を握って深呼吸をした。
おっ……おお……っ! あのシリアスブレイカーレヴちゃんが空気を読んだ……いや。レヴの力を以ってしても、やはり神様は格別な相手なのだ。
今までだってふざけてたわけじゃない。その圧倒的な力の所為で、緊張する理由がどこにも無かったんだ。でも、じゃあ……
「——変質した——か——。——では——もう一度——」
————剪定を————
神様がそう言うと、レヴはガクッと膝から崩れ落ちた。レヴでもこのプレッシャーは感じるのか……っ。
でも、そんな僕の不安なんて知らん顔で、レヴは感情の読めない無表情のままあっさりと立ち上がった。
「————揺蕩う雷霆————」
ぴり——と、静まり返った空気が揺れて、そしてすぐに大音量の雷鳴が轟いた。
さっきまでのミラとは根本的なところから違う、全く躊躇の無い最大出力の強化魔術。
そしてすぐに、レヴは僕の視界から消えた。
「————っぁあ——っ!」
ミラの時もそうだったように、レヴも大きな音を立てながら突進して行く。
何か意味があるのか、事情があるのか。
そうすると良いことがあるのか、それともそうしないと都合が悪いのか。
理由は分からないが、とにかく分かっていることはふたつ。
さっきまでのミラよりもずっとずっと音が大きい——出力が大きいこと。そして——
「——レヴ——っ!」
——レヴは一度だって負けなかったこと。
初めて出会った時には魔竜を片手間に吹き飛ばしてみせた。
二度目の時も、ゴートマンとエンエズさんのふたりを相手にも余裕綽々といった様子だった。
三度目も……良い思い出じゃないけど、ゴートマンを圧倒してみせた。
そして、レヴの力をフルに引き出したミラが、最後には魔王を打ち倒してみせたんだ。
「——九頭の龍雷——」
がしゃ——と、空気をかち割って、レヴは稲妻の龍を召喚する。
九つに分かれた特大の雷撃は、容赦無く神様を飲み込んでいった。
「——っ! 揺蕩う雷霆——っ!」
けれど、神様はまるで無傷のままその瞬きの中から現れる。電撃も効かない……っ。
ちょっとどころじゃない、やっぱりとんでもなく強敵だ。
でも、レヴだって全然怯んでない。強化を掛け直すと、そのまますぐに突進して————
「————未熟である————」
「——レヴ——?」
突進して——そして、僕の視界から消えた。
また僕の目では追えないくらいの高速戦闘を……と、そうでないことはすぐに分かった。
ばちばち弾ける音がしない、雷の通った輝きの跡が見えない。
神様が僕よりも少し後ろを見ていたから、その先にレヴの姿があるのだと理解した。
「——そんな——っ。レヴ——っ!」
背筋にじっとりと脂汗が浮き出て、恐る恐る振り返ればそれもすぐに乾いてしまった。
地面に焼けた線があって、そしてそれが少女の転がった跡だと——レヴが纏っていた雷が焼いたものだと知った。
黒い煙と砂埃の先に、ぐったりと動かなくなった少女の姿を見つけてしまった。
「————レヴ————っ! しっかりしろ! レヴ——っ!」
未熟である……と、神様はそう言った。
その意味は……そのままだったらしい。
勘違いを——この世界に来てから、僕は何度勘違いを繰り返しただろう。
レヴは誰にも負けないと、勝手に押し付けたのは何故だ。
相手がなんであるのか、本当に現実を見て理解出来ていたのか。
そして——また、お前は——大切だと言った家族だけを戦わせて————
「——ます——たー……っ」
「——っ! レヴ! 大丈夫か、すぐに手当てを……? 手当て……お前——」
レヴは怪我をしていた。
突き飛ばされたのか、それとも殴り飛ばされたのか。そもそも攻撃されたのかさえ不明だが、ものすごい勢いで地面を転がったのだから、当然全身を擦りむいていた。
擦りむいて……自己治癒が発揮されることなく、じわりと血を滲ませている。
どうして……っ。なんで、自己治癒の呪いは……
「——主人——。私は……ミラではない私は、勇者の素質を持ち合わせないのです。勇敢さも、優しさも、どちらも人間であることを諦めた私には手に入れられないものでした」
「……レヴ……? 何言って……っ。違う、今はそんなことどうでも……」
恐ろしいです——。と、レヴはそう言った。
恐ろしい……と、体を震わせながら訴えた。がちがちと歯を鳴らし、焦点の定まらない目を僕に向けて……
「——敗北が——死が——。貴方を守れないことが、何よりも恐ろしいです。
分かっていました、私では敵わないと。“人造神性”として生まれた私では——そこを目指して造られた途上の私では、本物には追い縋れないのだと——」
人であるミラならばいざ知らず、下位の存在としてある私では決して届かないのだと。全て、理解出来ていたのに——
レヴは笑った。
ぼろぼろと涙をこぼして、薄らとだけど笑みを浮かべた。
主人——と、僕に呼び掛けて、手を差し出して。何かを求めて、彼女は笑ってみせた。
「————それでも、見過ごせませんでした。ミラが貴方を置いて折れてしまうことが——何よりも大切な貴方を守ることさえ放棄して、勝手に諦めてしまうことが許せませんでした——」
だから——私も折れません——。と、レヴはそう言って立ち上がった。
ふらふらと、よろよろと。両手を膝に付いたまま、とんでもない重圧の中でまた神様を睨み付けた。
そんなレヴに、僕は何もしてやれなくて——
「——励ましてください——。いつもミラにやっていたように、私を応援してください。勝て——と、あの時のように、私に力を分けてください——」
「——レヴ——まさかお前——」
あの最期の瞬間を——お前は覚えているって言うのか————
返答は無かった。もう、僕のことなんて気にかける余裕は無いみたいだ。
励ましてくれ……か。またなんとも、シリアスブレイカーらしいお願いじゃないか。だったら——
「——頑張れ——っ! 負けるな! 勝て!」
僕も必死になって立ち上がり、そしてレヴの肩を掴んで激励の言葉を送る。
僕からの励ましでなんとかなるなら、幾らでも叫んで伝えてやる。
喉が裂けても、腹に穴が空いても。どんなになっても、僕がお前を応援し続けて——
「——負けるな——頑張れ……っ」
「——主人……?」
——もう——無理しないでくれ——
口から飛び出したのは、堪え切れなくて吐き出した本心だった。
頑張れ……? 負けるな……? そんな——っ。そんな無責任なこと————
「————もう……怪我しないでくれ……っ。自己治癒も無いのに……ただでさえボロボロなのに……っ。これ以上……なんでお前がつらい目に遭わなくちゃならないんだよ……」
重さが消えた——
さっきまで感じていた神様からのプレッシャーが消えて失くなった。
ああ——理解した——
村の人達はみんな、神様には逆らわないと決めたから——諦めたから、それを感じなくなっていたんだ。
じゃあ……今、僕がそれを感じなくなったのは——
「————っ。もう怪我すんな——つらい思いすんな——そんな顔で笑ったりすんな————っ!」
「——主人——」
恐ろしさは消えて失くなった。
もう、僕にはその資格が残っていないらしい。
だから——でも、だったら——どうしたってんだよ——っ!
「————帰るぞ——レヴ——っ! 全部取り返して、一緒に帰るんだ————三人で————っ‼︎」
「————はい——主人——っ!」
——揺蕩う雷霆——
勇敢な言霊は空に響き、そして僕の身体にはバチバチと青白い閃光が……僕に——っ⁉︎
なん——ぼ、僕も戦うぞ⁉︎ 一緒に戦ってってことだよな⁈
よ、よよよよよーし! ままままかせろ! お、おおおおおお前が頼ってくれるなら、俺だって————
「——見ていてください、主人。決して見逃さず、私の頑張りを見届けてください」
「——っ。おう、任せろ! 待っててやるから、全力で行ってこい!」
はい。と、レヴは頷いて、そして僕から一歩——二歩、三歩と離れて行く。
前に、前に——神様の前に、まるで不信心者の顔で——
「——第一級管理権限による限定の解除——認証済み。全管理権の廃棄——確認済み。出力最大開放——承認済み————」
——契約——
それは、魔術におけるひとつの到達点だった。
かの大魔導士が見せた完全詠唱による魔術式。それと同じ文言——始まりと終わりの儀式————
「————万雷の喝采を————ッ!」
レヴは僕の目の前から消えた。
その勝利を讃えるように、打ち鳴らされる拍手みたいな雷鳴を残して彼女は飛び立った。
そして——
「——負けんな——レヴ——っ!」
僕の眼は彼女の行方を——神様の喉元に刃を突き付ける戦士の姿を追い掛け続けた。
僕に掛けられたのは、きっとかなり高出力の強化魔術なんだろう。彼女の姿を捉え続けられる。
最早稲光りのような戦闘の仔細を、僕のこの眼だけが追い掛け続けている。
レヴの身体からは止めどなく血が流れ出ていた。
きっと、あの強化魔術は肉体の限界を遥かに超えてしまっている。
自己治癒を失った今のレヴでは、きっとそう長くは戦えない。
目を覆いたくなる、逃げ出したくなる。
もうやめろって、傷付くなって、また酷いことを言ってしまいそうになる。
「——負けんな——」
レヴの速度は、神様にとっても予想外のものだったのだろうか。顔が随分と真剣に見える。
いいや、ずっとずっと真面目な顔で僕達を選び抜こうとしていた。
ぐっと歯を食いしばって、やりたくもない使命を全うしようとしていた。
けれど——今の神様はもう、レヴのことしか見えていない。
「————負けんな————」
神様もレヴに負けないように速度を上げる。
先が見えているから——という避け方ではない。
先を見て尚、反射で避けなければ間に合わない。
本能だけで立ち向かわなければ、あの不届き者は食い止められない。
それが分かっているから、神様だって全力で向かってきている。
それが、今の僕には見て取れた。
じゃあ……あのふたりにだって……
「————っ! 勝てぇ————っ! ミラ=ハークス=レヴ——っっ‼︎」
「————九十九頭の龍雷————ッ‼︎」
————パ————ッ——と、世界は真っ白な光に呑み込まれた。
そしてすぐに、それらはおよそ百頭の龍の首に化けて地上を襲う。
高く高く飛び上がった少女の背中には、神をも食い破る幻獣の姿があった——
————勝った————
勝手ながら、僕はそう思ってしまった。
神様は身動きひとつ取れなかった。
それだけ一瞬の出来事だったのだ。
きっとレヴ自身も避けられない、この世界に存在するあらゆるものよりも疾い雷撃だった。
神様は確かに呑み込まれて、そしてレヴは満身創痍ながら地上に降り立った。
だから、この世界に僕達は勝ったんだ——って————
「————未達————。————雷電こそ——私である————」
「——嘘——だろ——」
まだ、空は白かった。
ごろごろという音が鳴り止む気配も無く、地上から空に向けて放たれる輝きも収まる気配を見せないでいる。
——神也——。と、そう告げられて、そしてレヴは地に臥した。
全ての力を振り絞り、そして力尽きた。
けれど——神様はまだ、そこにいた。
レヴの放った雷こそが——
「————ぅうぁあああ——っ!」
気付けば僕はまた走り出していた。
レヴの元に駆け付けて、そして彼女の前に立ちはだかっていた。
また——死ぬのだな——
諦念は忘れていた重圧を思い出させ、広げた両手も突っ張った膝もひしゃげて壊れてしまうかと思った。
でも——僕はそれを見届ける——
龍が迫る——。あの時と同じ、終焉が僕に迫る。
これが——アギトも、秋人も——何もかもをおしまいにする————
「————人は……そこまで辿り着けるのだな……」
「……神様……?」
ふわりと小さな手が頬に触れて、そして世界は次第に色を失っていく。
眩い光も、戻っていく影も。何もかもが薄まっていく。
「では、契約の通りに。四代前の人間よ、君達の約束は彼らが果たしてくれた。ならば……私は最後まで人々を守り抜こう」
薄墨の世界で神様は笑った。
それがタイムリミットの合図じゃないのは分かった。
これが——僕達がずっとずっと目指してた————
ぱち——と、目が覚めた。
ちょっとぶりの天井は、ここがアーヴィンであると教えてくれる。
もう果物の甘い香りはしない。神様もいない、ベグさんも来ない。
ここは……僕達の————
「————きゃぁあ————っっ!」
「——っ!」
悲鳴が聞こえた——。それはミラの声だった。
そして————っ。
嫌な予感——思い当たる節がいくつもいくつもある。
最後の時、ミラはレヴを完全に解放した。
そしてきっと、そのことを覚えている。
今のミラにとって、それが意味するのは自身の消滅だ。
恐怖し、絶望し、そしてきっと——っ。
僕は部屋を飛び出した。
世界を救ったその足で、勢いのまま家族を守る為に——




