第八十一話
僕は慌てて目を覚ました。より正確に言うのならば、慌てて眠りに就いた、か。そう言えば今朝は早くから出発すると言っていた。ずっと引っかかっていたのはこれで、思い出してゲームをやめたのは夜中の二時。窓に目をやれば空はすっかり青く晴れ渡っていた。しかし……
「……すぅ……すぅ……」
「……お前が寝坊するのかよ」
首元が生暖かい、と言うかべっちょりと濡れている。昨日の今日で早速クセになったのか、甘噛みというには随分と凶悪な痛みが残っている。本当……クセになったらどうするつもりだ。
「…………昨日の二の轍は踏めんよな……」
今朝は頑張ってミラを起こす事にした。懐事情は改善されたと言えど、いつどんなことが起こるか分かったものじゃない旅だ。少し慎重に行動する癖を付けておいて損はあるまい。
「ほら、起きろって。今日はどうするんだお嬢様よ」
「……んん……ぶろっこり……」
さては本当にブロッコリー苦手だったな? さっきまで食い込んでいた牙……という表現は、少女の歯に対して失礼か? ともかく噛み付くのをやめた。だがそういう話では無くて。
「ミラってば。ほら……ちょっと…………ねえ………………?」
何か……変だ。眠り込んでしまっている事では無い。いや、コレも大概変というか大事なのだが。何と言ったら良いのだろうか…………何か。何かが足りないと言うか、弱いと言うか、少ないと言うか……低いと言うか……?
「……ミラ? おい、大丈夫か? ミラっ⁉︎」
低い。そうだ、低い低すぎる。いつも背中に感じているあの子供らしい高い体温が今朝は随分低い。病院! いや、待て……クリフィアの時みたく勘違いだったなんてオチも……いやいや! 本当に何かあってからじゃ遅いって‼︎ 僕は貼り付いたままの少女を器用におぶって起き上がった。そして足を踏ん張って立ち上がると、ぐわんと視界が歪んだ。コレにも覚えがある。恐怖や不安は簡単に体調に影響を……
「……アギト? 何……もう朝…………アギト?」
「ミラっ! 良かった起きた……どっか悪いとことか無いか? 昨日あんな無茶して……あれ……?」
安堵してまた視界が歪む。コレは……知らない。涙で見えなくなったのでは無い。そしてなぜ僕は膝をついて……? 安心して気が抜け…………
「ちょっ……アギト! 横になんなさい! ほら、布団戻って!」
「……布団? なんで……今日は早くから…………ミラ? 何で倒れ…………——」
ミラはそのまま後ろに倒れて……天井……? ああ違う。倒れたのは僕か。というか……そうか。はじめを間違った。ミラの体温が下がったんじゃ無くて、僕の体温が上がっていたのか。ようやく自分の体調不良に気付いたのは、青い顔で覗き込んできたミラが、アンタ顔真っ青じゃない! なんて言った時のことだった。
私はもう一泊する為の手続きを済ませて外に出た。栄養価の高いご飯と薬を求めて村を回る。迂闊だった、まさか……いや、当然の事なんだ。彼は私とは違う普通の人間で、普通では無い負荷が掛かれば当然体調にも異常をきたすし……最悪は……っ!
「なに考えてんのよっ……」
浮かんだ光景を振り払いたくて、顔を両手でピシャリと叩いた。今必要なのは心配では無く行動、案じるのではなく助ける。そうする為に始めた旅なのだから。ともかく朝食を急がなくては。随分と熱も出ていたし……ああ、蛇に噛まれた傷口から菌が入った可能性も考慮しなくては。免疫力の落ちている今なら、昨日はなんとも無かった事でも悪い作用を引き起こすかもしれない。
「…………ここがアーヴィンなら……」
自分の無力さを痛感する。依存しない様にと持ってこなかった錬金術の材料を、こんなに早くから渇望することになるとは。なんだって出来る気になっていた伸びきった鼻も、根元からポッキリ折られてしまった。彼の病苦一つ取り除けないなんて……
階段に足をかけたところで、私は空いた片手でまた頰を叩いた。紙袋いっぱいに食料を買い込んで、さあ元気になってと言う立場の私が暗い顔をしていてどうする。元気に……元気に行くのよ、ミラ=ハークス!
「……アギト! ご飯買ってき……た…………」
「…………ち、違うんですっ! 決してその……ちっ、違うんですッ‼︎」
部屋に戻ると半裸のアギトが待ち構えていた。お、落ち着きなさい……きっと汗を拭こうとしていただけよ。そう、すごい熱だったもの。だから……だから握った拳は今日は振り上げてはダメよ。落ち着きなさい……
「…………ミ、ミラさん……?」
「……ほら、汗ならあとで拭いたげるから早くご飯にしましょう」
なんとか平静を保って、ズボンを履き直したアギトに紙袋を差し出す。しかし、汗を拭くにしても何故ズボンだけ……? 彼の育った環境ではそれが普通なのだろう。うん、そうよ。深く詮索するのはよそうと、私は依然目を泳がせたままの彼を見て決心した。何か……私には推し量れない、深い事情があるのよ。
「ご馳走様でした。じゃあ薬買ってくるわね。それからポーチの中、緑のラベルが貼ってある小瓶。どうにもならないくらい辛くなったら飲んで」
そう言い残して、私は逃げる様に部屋を後にした。いつも他愛無い会話をしながらしていた食事も今日は随分静かで、寂しさを感じる一方で彼の体調が本当に良く無いことを実感する。私が彼に無理を強いてしまったのでは……と、一度考えてしまったから、落ち着く筈の私の唯一の居場所も今はどこか居心地が悪い。それが嫌で、でも自分ではどうすることも出来なくて。時間が解決してくれることを願って逃避したのだ。
「……我ながら情けない。せめてアイツだけは…………」
アーヴィンまで……いや。それでは約束を違ってしまう。私はあの日交わした約束と、手持ちぶたさになった拳を固く握り締めて村唯一の医者を訪ねる。小さな村だけに病院も随分と小さく……いや、失礼なことを考えるのはよそう。
「ごめんください」
立て付けの悪い戸を叩いて私はその敷居を跨いだ。随分腰の曲がった老医にこの村の行く末を案じてしまうが、今はそれよりもアギトの事だ。詳しく事情を説明して、薬剤を売って貰えたなら問題無い。問題なのは医師の腕でも値段でもなく、この村にどれだけの揃えがあるかと言う事だが…………あまり芳しい成果は得られ無かった。
暗くなるな。元気に……元気に……と、私は部屋の前で立ち往生していた。どうしたものか。薬は手に入らず、彼の苦しみを取り除く手段は無い。せめて元気付ける言葉でもと思ったが、そんな事が出来るだけの器用さも無い。ふとお姉ちゃんの顔が思い浮かぶ。あの人なら……きっと、私よりもずっと……っ。失った十年の苦い記憶が浮かんで、最後に見たお姉ちゃんとしての顔が掻き消えていく。苦しい。彼に縋ることを覚えてしまった所為で、この苦しさを乗り越える手段を忘れてしまった。
「…………いつか……ちゃんと話すから……」
彼には全て説明しなくては。そう考えてもうどれだけ経っただろうか。私は結局、今日も明日も知らん顔で彼に縋り付くのだろう。明るい顔で。と、気合を入れる為に立ち止まった筈が、どんどん悪い事ばかりを考えている。どうしたら良いのか分からない。お姉ちゃんが……あの人がまた、私に命じてくれれば……
唇を噛んでドアノブを掴みあぐねていると、それはひとりでに回ってその扉を開けてしまった。まだ私は俯いていて、元気な顔は準備出来てな……
「ミラ、帰ってたのか。何やってんだよそんなとこで」
「……っ」
——ああ、そうして貴方は笑いかけるから。私はそれに甘んじてしまう。いけない事だと、脱しなければならないと分かっていて……私はこの甘ったるい夢に浸かっていたいと願ってしまう。必死で作った笑顔で、彼の優しさを踏み躙ってしまう——
「…………うるさいわね。何でも——」
「ほら、怖い顔するなって。早く入……いや、その…………」
彼の手が私の髪に触れた。温かくて大きな手。まるであの人の様に私の頭を撫でていたその手を、彼はバツが悪そうな顔で仕舞ってしまった。私にはそんな事をして貰うだけの……いや、違う。もっと……もっと。だって私はもう——
「なーによっ! そんなに撫でたかったならしょうがないわね、今日だけよ?」
「い、いや……そういうわけじゃ…………」
私はミラ=ハークスだ。もう他の誰でも無い。だから……もう少しだけ。もう少しだけこの夢に浸っていても良いだろうか……?