第百七十五話【お告げ】
あまりの変貌に、僕は一瞬だけその存在を認知出来なかった。
彼——或いは彼女が、ついさっき見えた高位な存在であると、理性も本能もそうは言ってくれない。
けれど、それを周りが神様と呼ぶから……
「名を聞かせよ。私には無いが、君にはあるだろう。皆、私を神と呼ぶ。私はそれで構わない。だが、私が君達を区別するのには名が必要だ」
さあ、聞かせよ。と、神様……? は、威圧的な態度など見せず、随分友好的な笑顔を浮かべて僕を急かした。
「あ、アギトです! その……えーと……」
「アギト……か。この村には無い名だな。ベグ、席を外してくれ。客人とはまず私が話をしよう」
かしこまりました。と、ベグさんは深々と頭を下げ、そして僕を残して家に戻ってしまった。
やはり、この“人”があの神様なんだ。
外見が全く同じで、それにベグさんの——村の人の接し方も同じ。
証拠は揃っているのに、どうしてもまだ僕の中の何かが受け付けない。
あの威圧感にも似た存在感は、いったいどこへ……
「場所を変えよう。村の外に出た方が、君達にとって都合が良いだろう。あまり村の人間を怯えさせられても困るのでな」
「……えっと……?」
君も付いて来ると良い。と、神様はそう言って、そしてそれに応えるようにミラが姿を現した。
まだどこか覚束ない足取りに不安は残るが、それでも幾分か楽になった様子だ。
血色も良い、受け答えもハキハキしている。ハキハキ……
「……ミラちゃんが来るってどうして……」
「どうして……か。不思議なことを。君も手の上に虫が這えば分かるだろう」
虫…………
言わんとすることは分かるし、それに悪意や他意が無いのも明らかだ。
気にするところじゃ無いぞ……と、分かっていても、つい凹んでしまう。
目の前の人物は紛れもなく神様だ……と、一度納得しよう。そうなれば、わざわざ僕達人間を——明らかに格の劣る僕達を貶す必要は無い。
「では、付いて参れ。こちらの事情については道中説明しよう。村から出たならば、次は君達の番だ」
「は、はい! ミラちゃん、大丈夫?」
ミラとのちょっとぶりの再会を祝う間も無く、神様はすてすてと歩き始めてしまった。
芝に覆われていた御神木の足元から出て、サラサラと乾いた砂地にも躊躇無く踏み込んでいく。
時たま粒の大きな石も落ちてるんだけど、痛くないのかな……?
「この村は——いいや。この世界は、どうやら君達の知るものよりもずっと未熟なもののようだ。
家畜の種類も少なく、農業もあまり効率的とは呼び難い。
人の寿命も短く、自然への進出もままならない。
大いに驚いた。外の世界では、人は既に自然を蹂躙するまでに至っているのだな」
「……え、ええっと……?」
神様の口から聞かされる言葉には、まるで実感が湧かない……自分達のことを言われているらしいのに、まるで他所の話を聞かされているみたいな気分になった。
この村は……と。君達の世界は……と。自然を蹂躙するという言い方も気になったが、それ以前に……
「……あのっ。どうして……俺達がここに来るって……いや。どうして別の世界からやって来るって……」
「先程も答えた通りだ。服の上から這われては気付けぬこともあるやもしれん。しかし、手の上だろうと足の上だろうと、顔の上だろうと虫に気付けぬ道理は無いだろう」
ぐっ……や、やっぱりちょっと噛み合わない。
それはその……それだけ感覚が鋭敏だ……と、そういうことか?
ミラがやって来る足音が、それこそミラよりも鋭い聴覚で感知出来た……と。
この世界と僕達の知る世界の差は、僕達が村を見る目や態度から察した……と。
それこそいつもマーリンさんが僕にやってるみたいに、経験と予測と、そしてズバ抜けた観察眼から……
「……アギトさん。どうやら、ここは事情が違うみたいです。いえ……この方は……でしょうか」
「……? えっと……ミラちゃん、それは……」
——もう一度——見せた方が早いやもしれんな——。と、声が聞こえて、そして僕は立っていられなくなった。
また——っ。この感じ、さっきの——っ。
今、僕はミラの方を見ていた。
目も、意識も、全てミラの方に注目していた——筈なのに——
びりびりと体が痺れる。
ミラの顔が——世界が、見えるものが朧になっていく。
背後に感じるだけでなんて圧力だ。
これじゃ——また——
「——っぁ……っ。はあ……っ。はあ……っ。い、今の……」
「すまないな。だが、上手く伝える手段が他に無かった。君達人間の言葉で自分自身を表すというのは、中々難しいものがあった。許せ」
許せ……と、そう笑っていたのは、やはりさっきの小柄な人物だった。
神様と呼ばれる、しかし紛れもなく人に見えるもの。
でも、たった今見せた威圧感……いいや、威圧なんてしてもいない。
ただ在るだけで、その強大さに押し潰されそうになってしまう。
やはり……あの神様とこの神様は同じ存在なんだ。
だとしたら、それだけの存在感をいったい何処にしまい込んでいるんだ。
「私には分かるのだ。少なくとも、私の手の届く範囲、目の届く範囲における出来事は。この世界が二度別の世界と繋がったことも、その世界からの来訪者があることも。君達があの場所に現れることも」
「……アギトさん……っ。この方は……紛れもなく、正真正銘の神性です。いえ……私達の言葉で言い表して良いのなら……ですが……」
そう言ったミラの表情は凄く暗いものだった。まだ何処か痛む……というのではなさそうだ。
神性——と、彼女の口から出た言葉には、ふたつの意味がある。
神様であると、上位の存在であると。そう讃える——畏れる意味。そして……
「……ここまで来れば誰にも聞かれまい。小さな村だ、まだここは。しかし、今はそれも都合が良かったか。まず、そちらの少女。名を聞かせよ。そしてアギトと共に語るが良い」
村はずれの草原までやって来ると、神様はどっかりと地面に胡座をかいてそう言った。
ミラは慌てて自己紹介をして、そして……僕になんだか切羽詰まった視線を送って来る。
い、いったいどうしたのだろうか。まさか、緊張して上手く話せない……なんてタマじゃないよな……?
「アギトさん、どうしましょう。全て見通されている……ということなので、隠しごとは不可能です。ですが……どこまで話して良いものか……」
「…………それ、エヴァンスさんやキルケーさん達の前でも悩んで欲しかったかな」
今更そこ気にするの? と、どうやら単純な話ではないらしい。
ミラ曰く、目の前の存在は紛れもない神性である、と。
それはつまり、僕達の手に負えない力であると。
結論を急ぐなら、機嫌を損ねたらゲームオーバー。或いは……精神そのものを破壊され、アーヴィンに帰ることすら叶わないかも……って……
「…………こひゅー……ぜひゅー…………な、なんでそんな緊張すること言うの……?」
「や、やっぱり気付いてなかったんですね……っ」
どうやら僕は、保険が効いてると強く出られるタイプらしい。いわゆる虎の威を借るってやつ。
召喚先において肉体が死のうと、僕達は生きて元の世界に帰ることが出来る。
でも、それにはやはりリスクがある。
精神の崩壊は避けられないし、傷付いた心は簡単には戻らない。
分かっていた、言葉としては。けれど……無意識に甘えていたんだろう。
「……ったく、嫌になるくらい楽観的だな……っ。ほんっとうにダメアギトだ……」
この世界では、その保険は一切効かない可能性がある。
目の前の存在は、外の世界にまで目を向けられる。
やって来る直前の僕達と、そしてその出発点である世界を認知している。
つまり……機嫌を損ね、敵対なんてしようもんなら……
「そう青い顔をするな、アギト。君達の考えているようなことは起きない。君は家畜の骨をいちいち全て砕き折って殺すような真似をするのか。しないだろう」
私は人間を守るものだよ。と、神様は笑っ…………こ、心読まれてるぅ……っ。そ、そりゃそうだ。
よし、しっかり認識しろ。目の前にいるのは、超強化版マーリンさんだ。
観察力、それに未来視。規格外な魔術……に匹敵する力もきっと持ってる。
威圧感だけはあのポンコツには無いものだけど、概ねそういう理解をしよう。
とどのつまり……
「ああ、分かる。君の考えはよく分かる。他の人間よりも簡単に、紛れや隠蔽の余地無く全て伝わって来るよ」
「あひ——っ⁈ ご、ごほん……じゃあ、隠しごとは一切出来ない……ってことですね」
神様はこくんと頷いて、けれど僕が話すよりも先に伝えたいことがあるみたいだった。
手で、そして目で僕を制し、ゆっくりと体を揺らした。
その直後に優しく風が吹いて……まるで、神様がそれを呼んだみたいだった。
「けれど、私は必要以上に君達に干渉しない。君達の口から告げられた言葉だけを理解し、そして手を差し伸べる。
隠しごとは不要だが、己自身で乗り越えようとする事象については語らずとも良い。
これより五度の夜明けまで、君達にはその猶予が与えられるのだ」
「は、はい! ……? えっと……五度の夜明け……?」
神様はまた頷いた。
そよそよと風になびく白い髪が、まるで川の流れのようにも見えた。
ゆったりと、そしてのんびりと。目を瞑って、どこか嬉しそうに。笑顔のまま、神様は僕達に告げた。
「——五度の夜明けの後、この世界には滅びが訪れる。精進すると良い——」




