第百七十一話【何度だって言ってやる】
伝えなくちゃならないことがある。そう言ってから、ミラはずっと黙って俯いたままだった。
早く言葉にしないと。必ず打ち明けないと。そんな焦りばかりが窺えて、こっちの方が息苦しくなってしまいそうだ。
「……あのさ、ミラちゃん。その……それって……っ」
堪えかねて口を衝きそうになった言葉を、僕は必死に飲み込んだ。
それは、君の生まれに関係する話? なんて、そんなことを僕から聞いてどうなる。
ミラはきっと、マーリンさんが事情をある程度説明してしまったと勘違いするだろう。
或いは、この男はどれだけのことを知っているのかと不信感を募らせる筈だ。
そうなったらもう、コイツの中にある不安は取り除けない。
あの頃と同じ、こいつは僕を唯一の相手として見ようとしている。
ハークスという家のゴタゴタも知らず、勇者として崇めることもしない。
昔の僕と同じ、何も特別が無いという特別な相手として。
「……っ。実は……その……っ。勇者というのは……本当の勇者は、私ではないんです……」
必死になって絞り出した言葉は、目を覆ってしまいたくなるようなものだった。
自分は勇者じゃない。本当の勇者は別にいる。そんなの、絶対に聞きたくなかった。
絶対にミラが口にする筈の無い、無責任な言葉だった。
でも……僕は黙ってその続きを待った。
「……私には、勇者として戦った記憶があまり残っていません。いえ、それだけではなくて。勇者として見出して頂いてからのこと、本物の勇者になる為の旅路のことさえ、私はほとんど思い出せないのです。そして……その原因を、私は知っているんです」
原因? と、それらしい相槌を打つ。
また——また、お前はそんなところで蹲ってしまってるんだな。
一緒に勇者をしていた頃よりも、ひとりでその栄光を守っている頃よりも、今この瞬間のミラの姿は小さく見えた。
どれだけの重圧に押し潰されそうになっていても、いつも胸を張って前を見ていたミラが……今は、縮こまって俯いてしまっている。
「————私には——っ。私には、本来あるべき過去がありません。それは……っ。それは、私が……偽物だから……っ。すみません、アギトさん。私は……ミラ=ハークスは、本来存在しない筈の人間なんです」
少しずつ少しずつ、噛み砕きながら吐き出す言葉の苦さに、ミラはやがて息を切らして肩を上下させ始めた。
恐ろしいのだろう。
その言葉の意味を——己を否定する意味を、今のミラは分かっていない。
あの時レアさんに認めて貰った全てを、今自分自身の手で握り潰そうとしている。
覚えていなくても、本能的に感じ取ってしまっているんだ。
この先に進めば、自分が耐えられないのだと。
「……ミラちゃん、ちょっとだけ落ち着こうか。ゆっくり、ゆっくり。大きく吸って、ゆっくり吐いて。お水も飲もう。お茶の方が良いかな、あったかい方が落ち着くよね」
見てられない。
目を逸らしたくて僕はそんな優しげな提案をする。
自分が逃げ出したい一心で、ミラの頑張りを踏みにじる。
でも……しょうがないって、言い訳するしか出来ない。
こんなの見て、平気でなんていられるわけがない。
まだ震えるミラを座らせたまま、僕は一階のキッチンへ向かおうと……
「——いえ、大丈夫です。ここで……話し始めてしまったこの勢いが無くなったら、もう何も伝えられなくなってしまいそうだから……っ。アギトさん、このまま聞いてください」
「……うん、分かった。でも、ゆっくりだよ」
——っ。
この……この大バカアギトが……っ。なんで逃げようとした。ミラがこんなに必死に戦ってるのに、なんでお前が目を逸らして逃げ出そうとしたんだよ。
両手でパチンと軽く頰を打ち、気合を入れてミラと正対し直す。
まだ……まだ、その針のむしろに座り続けるのだと主張する、あまりに弱々しい家族の前に。
「……前に話したことを覚えていらっしゃいますか? この街の——国の信仰体系。その中の、地母神という存在について」
「うん、覚えてるよ。前任者が出掛けてるから、今はミラちゃんが……って」
それも、全部嘘なんです。と、ミラはそう言って俯いた。
嘘……か。あながち間違った説明ではなかったのだけどな。
それでも、ミラはそんな些細な違いも——説明の難しい事情を簡略化して伝えることも許せなかったみたいだ。
「……本当の地母神様——私のお姉ちゃんは、私を守って死にました。正確には、記憶も言葉も、未来も全て失ってしまいました。そんなお姉ちゃんが……っ。そんなお姉ちゃんを、私がもう一度……」
もう一度……。その先に続く言葉を、ミラは必死に吐き出そうとして……けれど、それが出来なくて。
嫌なんじゃない。
その言葉を口にするのがつらいから、苦しいから。だから逃げ出したい……と、そうじゃない。
その言葉を知らないんだ。
その結末を——帰って来ていないという事実だけを覚えていて、第二階層での出来事も覚えていないから。
ミラは……レアさんの身に何が起きたのか、良いことも悪いことも、何もかも覚えていないんだ。
「……それが、私のひとつ目の罪です。私は、この街の希望を食い潰してここにいます。市長という肩書きも、地母神として集める崇拝も、何もかも横取りしたものなんです。
けれど……それよりももっと酷い話もあるんです。私が騙しているのは、何もこの街の人々だけではありません。
王都の——この国の全ての人、マーリン様にフリード様。そして……アギトさん。貴方のことも、私は……」
ちょっとだけ落ち着いて。と、だんだん早口になるミラをなだめ、僕は一度だけ間を取った。
騙している……か。そんな言葉聞きたくなかったけど、今の僕じゃ口を挟めない。
ゆっくり深呼吸してまた話し始めるミラを前に、僕はその苦しさを一緒に背負ってやれないって悔やみ続けるばかりだった。
「私は……いいえ。本当の勇者は私ではありません。今更伝えなくても、もしかしたら気付いていたかもしれませんね。
本当の勇者には、もっともっと強い力がありました。私はその偽物——それを食って生まれた、紛い物なんです」
私にはロクに魔術も使えません。強敵を前に怯むことなく立ち上がる勇気も、大切なものを何が何でも守るんだという気迫も無い。
ただ……自己治癒という前の勇者様の力を掠め盗っただけ、それだけで勇者を名乗っているんです。
ミラは沈痛な面持ちでそう続け、そしてぎゅうと唇を噛み締めた。
血が流れ出ているのが見えて、その痛みがまたミラの心を苦しめるのが分かって。
掛ける言葉を必死に探して、僕はまたミラが話し始めるのを黙って見てるしか出来なかった。
「本当なら……っ。私が本物の勇者なら、アギトさんにあんな思いをさせずに済んだのに……っ。
たとえ原初の世界だったとしても、きっと快適な暮らしを——そして、充実した気力を以って終焉も阻止出来たでしょう。
エヴァンスさんだって、あんな悲劇が起こる前に止められた筈です。私が本物だったら……私に力があったなら……っ」
「……でも……それじゃあキルケーさんとヘカーテさんは、きっとマーリンさんと仲良くなれなかったよ」
言葉は何も考えずにするりと口から溢れ出していた。
そして、それは紛れも無く本心だった。
ミラは何かそれを否定する言葉を探そうとしていたけど……自分に出来ることと出来ないことが思い出せないでいるんだ、そう容易く打ち消しの言葉なんて思い描けない。
もごもごとするばかりのミラを優しく撫でて、僕は思ったことを素直に打ち明けた。
「偽物じゃないよ。少なくとも、俺はミラちゃんと一緒に旅をした。
マーリンさんや他のみんながどうかは……ごめん、俺は小さな人間だから。自分のことで手一杯で、とてもそこまでは分かんないや。
でも……。おめでとう……って。世界を救ったんだってマーリンさんに言われた時……」
ミラちゃんと一緒に頑張って良かったって、そう思った。
まるで子供の感想文みたいな簡素な言葉だったけど、それ以上に素直に伝えられる言葉は持ってなかったんだから仕方ない。
ミラは僕のそんな言葉に、呆れるでも否定するでもなく、目を丸くして黙ってしまっていた。
「偽物なんかじゃない……って、俺が言ってもしょうがないかもしれない。だったら、偽物でも良いやって開き直っちゃえ。
世界を救った勇者でも、この街を守る地母神でもなって言うなら、もっともっと凄い——世界をいくつも救った救世主になっちゃえば良い。
隣で見てた俺が保証する。ミラちゃんならそれが出来る。知ってる人も知らない人も、全部守ってしまえる強さを持ってるって」
「……アギトさん……」
なんだか……そうだなぁ。昔もこうやって励ましてやったっけな。
一度や二度じゃない、何度もだ。
言葉にしたことは少なくても、落ち込んでるミラを僕は何回も励ました。
頭を撫でて、抱き締めて。何回も何回も——僕がアイツに励まして貰った回数よりは少ないけど——でも、何回だって励ました。
一緒に頑張ろうって、手を取ってフラフラしながら歩いてきた。
なーんだ……お前、まだここにいたんだな。
「……? アギトさん……どうして……?」
「えっ? あっ……ちがっ……えっとね……」
気付けば泣いていたのは僕の方だった。
ほんっとうに…………はあ。
嬉しかった……と、そう言ったらアイツに怒られる。
じゃあ……情けなかった? 噛まれそうだなぁ。
でも……そのどちらか。
天の勇者としてずっとずっと遠い存在になってしまったと思っていたミラが、まだまだ手の届くところでショボくれてたんだ。
まだ間に合う、隣に並べる。そういう嬉しさと、そしてまだこんなとこに……って、そう呆れてしまいそうな気持ちで半々。
でも……どっちにしても、やることは一緒だから。
「……大丈夫。ミラちゃんはミラちゃんで、話に聞いてる天の勇者より頼もしいって俺は思うよ。
少なくとも、ここんところずーっとポンコツなマーリンさんの三倍は頼もしい。
ミラちゃんからも怒ってやってよ。あの人、エルゥさんのところで手伝いもせずにダラダラしてたんだ」
「……あはは、マーリン様らしいですね。分かりました、ちょっとだけ……その場合、エルゥにも厳しく言って貰うようにしないとですね」
一番効きそうだなぁ。なんてふたりで笑って、そしてその話はもうおしまいになった。
キルケーとヘカーテに会いに行こう、って。ついさっき別れたばかりのマーリンさんとフクロウ達に会う為に、僕達はその部屋を後にした。
廊下の窓を全部閉めて、一階に降りる階段の前をちょっとだけ封鎖して……と。よし。
キルケー達が飛び出して来ても大丈夫なようにしてから、またマーリンさんの待つ部屋のドアを開ける。
ミラの憂いは全然消えてないかもしれないけど……でも、前を向いて良い理由くらいは分かってくれてると信じて。




