第百六十八話【疵】
——崇め——侵し——奉り——弄び——そして、救済へと導かれん————
「————いっけぇえ————っ! ミラぁああ——————っ!」
ばちん——と、弱々しい稲光と共にそれは現れる。
あの時の夢——もう何度繰り返したか分からない、擦り切れてしまった悪夢。
最期の瞬間——アギトという自己の死、その瞬間の映像。
これは……そう、夢。
何度も何度も——っ。何度も何度も僕を苦しめた——みっともなくやり直しを求めさせられた、根源的な恐怖と後悔。
けれど……その日のそれは……
「——っ! ミラちゃん——っ!」
少女をミラちゃんと呼び、そしてその少女も力無くその場に倒れ臥した。
眼前に立ちはだかるのは魔王——だけではない。
獣の首を持った竜の姿がちらほら見える。
カルデラ湖の水位はどんどん上がってきて、そして既に僕達の足元を濡らしている。
フリードさんの姿も、マーリンさんの姿も——共に戦ってくれる筈の誰の姿も見当たらない。
それどころか……
「——紅蓮の……魔女……っ!」
竜のそれよりも艶やかで美しい翼は、力強い羽ばたきと共にその存在を僕達に知らしめる。
もうひとりのマーリンさん——夢想の世界に現れた、紅蓮の魔女と呼ばれてしまった悲しい人。
銀の髪——銀の翼——そして、瑠璃と赤紫の瞳。
宝石みたいに輝く四つの瞳が、まるで呪いでも差し向けているのかと思ってしまう程鋭く僕達を睨み付けている。
「————負けらんないんだよ……っ。もう——コイツに——っ。誰にも——あんな思いは————」
迫るのはやはり竜の頭で——けれど、そこに繰り広げられる光景は全てが違って。
分かっている。
これは夢だ。
夢なのだ。
悪夢なのだ——すぐに————終わるものなのに————っ。
「————」
ミラの声が聞こえた……気がした。
けれど……何を言っているのかは分からなかった。
ただ——その背中には強さなんてどこにも無くて————でも————
まぶたをゆっくり開けると、嫌に眩しい光が射し込んでいるのが分かった。
頭が痛くなりそうで潜めた眉に、じっとりと汗が乗っているのが分かる。
また……あの夢を見た。悪夢を……悪夢……を……?
「……お前は……? お前は何を伝えようとして……」
ぎゅっぎゅっと手を握って、そして自分自身に——その肉体に問い掛ける。
僕は……アギトだ。けれど同時に、原口秋人であったものでもある。
マーリンさんの言葉を借りるのならば、こっちに長く居過ぎて、向こうでの生活に適応出来なくなっちゃってるかもしれないアギトだ。うん……ちょっとそこも問題。
ふたつ目の……獣の肉体での生活を終えてから、僕は割とこのしょぼい身体能力を思い出すのに手間取った。
もっともっとへっぽこでボロボロな秋人の体なんて…………歩けるかな……まっすぐ……
「さて……と」
ばちんと頬を叩いて、そして自分がすっかり重役出勤なことを思い出した。
とは言っても、別に何かすることがあるわけじゃない。
勿論、みんな忙しく働いている。仕事も多いし、それに家事だってやらなくちゃならない。
それなりのそこそこに出来るようになった料理スキルをみんなに披露して…………ハーグさんに刃物を持つのは禁止と言われてしまったのが、確かあの戦いの三日後のこと。
この国の東、魔人の集いのアジトに乗り込んでから——世界を救った勇者一行が敗走してから六日が経った。
フリードさんの怪我はまだ芳しくない。
それでも脅威的な回復を見せていると言われているのだから、どれ程酷い怪我だったのかは想像に難くない。
ミラは……やはり、魔術の殆どを使えないでいる。
そしてマーリンさんは……
「おはよう、アギト。うん? どうかしたのかい? なんだかとっても…………お説教が必要そうな顔をしているけど……?」
「うげっ……べ、別に何も無いですよー……」
ぴゅぷすっ……すこーっ……ぷすー……と、僕の乾いた唇からは間抜けな笛もどきが音を鳴らしていて……鳴らし損ねていて? ともかく、いつもと変わらない、からかったりからかわれたりが繰り広げられている……んだけどさ。
問題は……どうしていつもと変わらないのか……なわけで。
「安心しなよ、バカアギト。召喚についてはきちんとやり遂げる。その為の力だけは残してるからね。もっとも……他の力はまるで……だけど」
もう、彼女は巫女と名乗らなくなっていた。元々返上した名前だから……と。
しかし、それでもへインスさんや騎士の前では指示を出すことくらいあった。
けど……それもやめた。
彼女は魔術の全てを失った。
とは言っても、強化魔術を使ってヘロヘロな身体を無理矢理動かしていたこともあったし、本当の本当にゼロってわけじゃない……のだと信じたい。
或いは……っ。
彼女がそれを口にしないから——問いただしてもきっと良い返事は貰えないから、僕の憶測になっちゃうけど。
彼女はまだ……その対価を支払い続けているのかもしれない。
最初に失われたのが戦う為の力だった……と、それだけなのかも。
「……次こそ、必ず。何がなんでも……っ」
「……うん。期待してるよ、勇者」
記憶を取り戻す為の召喚術式の、その対価を僕達は知らされていない。なら……もう、そういうことなんだ。
この人はとっくに覚悟を決めていた。
どれだけの未来を食い潰されようとも——どれだけの過去を蝕まれようとも、それでも今この時に僕達と一緒に居られる可能性を選んでくれた。
だったらもう、その夢を叶えてあげることだけが唯一の恩返しなんだ。
「アギトの気合は十分……でも、ね。肝心要、もうひとりの勇者が……」
「……どうにもならなさそうですか……?」
すっかり落ち込んだ表情を浮かべ、マーリンさんは肩を落とした。
それでも、そろそろやらなくちゃいけないんだけどさ。と、彼女はそう続けて、そしてまたゆるーいいつもの笑顔に戻った。
「今日は……そうだなぁ。またちょっとだけお使いを頼まれておくれよ。なあに、本当に簡単なものだ。君達は一度、王宮の騎士達の訓練に混じったことがあっただろう?」
さて、話が少しだけ戻る。そう、重役出勤の話。
僕は今、ここの手伝いもハーグ・レイ兄弟の手伝いもしていない。
やっているのは、次の召喚に向けての準備……とは名ばかりの、僕にとってはただの休暇期間のようなものだった。
その主題は、ミラの心をなんとか回復させてやること。
その為にアレコレ画策するマーリンさんの使いっ走りというわけだ。
当然、仕事でもなんでもないから、時間に規定は無い。
「……でも、別に手伝いくらいはしても……と言うか、した方が良いんじゃ……」
「居心地が悪い? ふふ、その気の弱さは君らしいね。でも、もうちょっとだけ我慢して。あの一件でヘロヘロなのは、何もあの子だけじゃないんだから」
と、こんな具合に、マーリンさんは僕が他に何かするのを嫌がるのだ。
まるで駄々っ子……と、そう切り捨てるわけにもいかない。
星見の力も失った、魔術も殆ど失った。けれど、彼女は僕の師だ。
名義上の……ではなく、本当の。
旅の間にあれこれ教えて貰ってるんだからね。魔術の師じゃないけど、人生の師というやつ。
きっと、何か考えがあるんだろう。
「……ホントに俺の体力がヤバいと思ってるだけ……じゃないよな……?」
ただの過保護では……? と、そんな疑惑も……まあ、ある。でも、今は信じてみよう。
そうして僕は、そんなマーリンさんの言い付け通りにお昼前に出発する。
目的地は商店街、それから再び王宮。
新しいペンと紙、それからリハビリ用の運動器材を、それぞれミラとフリードさんの元へ届けて欲しいとのこと。
どっちも用途は分かってるだけに、やっぱりこのお使いはすぐに終わってしまうのだろうな。
そしたら……僕だってエルゥさんのお手伝いしてきたって良いだろうに……
お使いは本当にあっさり終わってしまった。
フリードさんは、何かあの魔女に対する対抗策を閃いたのだろうか、僕が器材を運び込んだのなんて気にも止めずに鍛錬を続けていた。
尤も、大怪我してて立つのも禁止されてるから、出来ることなんて限られてるんだけど。
それでも——そんな中でも、キッチリ目標に狙いを定めて高い集中力を発揮出来ていた。
愚直とも取れるその没入こそが、あの人の強さの源なのかもしれない。
そして……ミラの方も、とても長居出来る空気じゃなかった。
別に、ミラがつっけんどんな態度を取るとかじゃない。
いつも通り、人懐っこいけど、勇者として背筋を伸ばしたミラだ。
でも……だからこそ、あんまり一緒に居てやれなかった。
自分のことは自分が一番分かっている。そう言わんばかりに必死に机に向かって術式を勉強している姿を見ては、とても世間話で邪魔をしてやろうだなんて考えられない。
こいつが頑張ってるなら僕も……と。そう……僕も……
「……このモチベーション……どこに持っていけば……」
何か無いものかな。
本当になんだって良い、少しでも自分を追い込めるもの。
分かってる、それは本当にただやった気になってるだけ。
頑張った、疲れた。そういう達成感で取り敢えず満たされたいだけ。
でも……それでも、この熱を吐き出さないことには……
「……っ」
また、みんなの待つ家へと帰る。それなりに繰り返したいつものルーティンの、その道中のことだった。
不意にある日の光景が思い浮かぶ。
そしてすぐに、僕の足はその景色の場所へと向かっていた。
人の流れに身を任せ、ずるずると引っ張られているその途中。脇道へポンと吐き出された、僕の大きなトラウマのひとつ。
「————っ」
ばくん——ばくん——と、鼓動が大きくなる。
それでも、ゆっくりと前に——いいや、後ろに。あの日救えなかったもの全てを、もう一度確認する為に……
ずっとずっと続くかのように感じられた短い道のりも終わり、僕は小屋の前にやって来た。
もう……香水の匂いはしない。
小屋はとっくに改装されて、既に倉庫か何かに使われている様子だった。
けれど……悪いことだと分かっていたんだけど……
「……っ。落ち着け……バカアギト……」
施錠されていないのだから、きっと大したものは入ってないのだ。そんな身勝手な言い訳を頭の中で繰り返して、そしてゆっくりとそのドアを開ける。
中には小さな木箱がいくつか並べられていて……そして……
「————っ! これ————っ」
テーブルも、パーテーションも。それに、キッチンも。何も残ってなかった。
あの日、ユーリさんとダンジさんと過ごした面影はどこにも無かった——筈だった。けれど……っ。
僕はあるものを見つけ、そして大急ぎで木箱を退かしてそれを確かめる。
ミラと行ったひとつ目の世界の時と同じ——それは傷跡として、確かに誰かに何かを残そうとしたものだった。
「……ユーリ……さん……っ」
丸があって、そしてそれを取り囲むように菱形が八つあって。
けれど……それの意味は、きっと僕じゃ理解しきれないんだろう。
ただ……やっぱり——って。
それだけが嬉しくて、あの別れが余計に悲しくて。僕は涙を飲んで倉庫から飛び出した。
床に刻まれた太陽を背に、僕はあの人が護りたかった人の元へと急いだ。
何も出来ないとしても、ジッとしてられないと駄々を捏ねるのは、せめてあの人の側で……って。




