第百六十七話【立ち上がれ、勇者】
トンとひとつ廊下の段を上がる。ただそれだけで気が楽になって、そして背負っているものの意味を理解出来る。
不安も、焦りも、恐怖心も。要らない感情は何もかもここで降ろしていけ。
きゅっと口を結んでゆっくりと目を瞑る。そして、もう慣れてしまったこの廊下を歩き始める。
まだ僕を家族とは呼んでくれないアイツを——アイツの心を守ってやる為に。
「……ミラちゃん、起きてる? アギトだよ、お見舞いに来たよ」
こんこんとマーリンさんの寝室のドアを叩けば、ありがとうございますとすぐに声が返ってきた。
とても元気の良い声じゃなかったし、そうある理由も無い。
だから……僕は大きく深呼吸して、それからドアを開ける。
どう慰めてやろうか……ではなく、どうあっても慰めてやるのだ……と。
「怪我の具合は……聞くまでも無いか。どう、落ち着いた?」
「……はい。ご心配お掛けしました」
そこにいたのは、ベッドの上でショボくれている幼い少女だった。
とても勇者の姿とは呼び難い、歳相応の…………いや、もう十七歳になるんだってば。
でも……子供らしい、素直に凹んでいる姿は少しだけ気を楽にしてくれる。抱え込んでひとりで悩んだりはしてなさそうだ。
「ありがとうございます。マーリン様から話は伺いました。アギトさんが……それと…………あのジューリクトンの子が……」
「あはは……不服そうだね……」
いえ……と、ミラは目を背けて頬を膨らせる。
あまりにも分かりやすいむすっとした態度に、思っていたよりは軽傷で済んだ……と、勝手にそんな安堵を覚えてしまいそうだ。
僕も感謝しなくちゃな、ベルベットくんに。
いえ……本当に助けてくれたのはあの子なわけだから、その点についてはもうバリバリ感謝してるんですけど……
「……まさか、また魔女とはね。それも、キルケーさんやヘカーテさん……あっちで出会ったマーリンさんと同じ……」
「……銀の翼……本物の魔女……っ」
本物……そう、本物の。
僕達にとってマーリンさんは雲の上の存在だった。
その割にはベタベタじゃれあってる気がしたけど……そういう意味じゃなくて。
文字通り格が違う——次元が違う、まるで別のレベルにある魔術師なのだ——と。
最後の戦いの折、ミラの力はおよそ人間のそれからは決別してしまっているとさえ思ってしまった。
レアさんに引き出して貰ったアイツの全力は、話に聞いていた魔法に肉薄したものだと。
なのに……マーリンさんはそれをあっさりと超えて行った。
そんなマーリンさんをも上回る——いいや。マーリンさんの力と同じ——マナを活用出来て、詠唱も言霊も不要で、そしてあの人でさえ持ってない、文字通り魔法のような力も持っている。
そう——この可能性——危険性を、あの日僕達は真剣に考えたんだ。
考えて……でも、あり得ないって……
「…………転送、転移。魔術の域を逸脱した、魔法に至る術式……っ。ミラちゃん、あれはそういう……」
「っ。はい……身を以って実感しました。私の意識はすぐに切れてしまいましたが、それでも……っ」
身体が分解されていくのが分かりました。私の身体が大きな流れに放り込まれて、そして粉々になっていくのが。と、ミラは苦い顔でそう答えてくれた。
やっぱり……か。アイツこそが……あの魔女こそが、今まで散々僕達を苦しめた魔人の集いの術師——或いはそのひとりか。
契約術式がアイツによるものなのかは分からないけど、少なくともあの鉄の馬車は……
「……アギトさん、やっぱり凄いですね。そんなものまでご存知だったなんて。いえ……マーリン様に師事しているのなら……という意味で、決して失礼なことを言いたかったわけでは……」
「あはは…………マーリンさんに……? えっと……?」
うん? いや、その……失礼なことを言って貰った方が話がスムーズなんだが。
そんなもの——魔法の存在について知っているなんて、魔術も使えないのに変な奴だなぁ。と、そういう話ならよく分かるのだ。
けど……? マーリンさんに師事しているから……とは。
凄い術師の下で勉強しているという嘘をまだ信じてくれているのなら、そういうのこそ知ってても変じゃないんじゃ……
「……マーリン様はかつて、その素性を隠していましたので。魔法……魔女の力に程近いそれを忌み嫌っている節さえ感じました。
それとは別に……ですが。あの方は魔法という呼び名を——不可能という諦めを許して下さいません。
ですので、転移や転送なんてものを、わざわざ口にするとは思えなくて……」
っとと、その話か。
それは……それも、残念ながらお前よりも先に聞いてたんだけどな。
魔法なんて言葉に逃げるな、不可能だと諦めるな。要約するとこんな話だった気がする。
いえ……僕、あんまり知識も無かったので……っ。
自分に出来ない、マーリンさんに出来ない、マグルさんや他のどの術師でも出来ない。それは諦める理由じゃなくて、前進する余地なんだ……って。
だから……魔法使いなんて存在しない……って……
「…………いた……ね。魔法使いよりもっとヤバいのが……っ」
「……はい。考え得る中で最も強大な敵です。或いは……魔王よりも……」
魔の王は人が魔に堕ちたもの…………ううん、違う。人の未来よりも魔の未来をより良いものだと信じたものだった。
それは、少なくとも魔の王であった。
魔——ミラの言葉を引っ張り出すなら、小さな自然。
その世界の王。
それは摂理に則って生きるもの——法に縛られるものという意味だった。
魔法使い——魔女にとっては、あんなにも強大な存在さえ……
「——そうでしたっ! アギトさんはご存知でしたか? その……マーリン様の……」
「……ううん、俺も昨日聞かされた。信じられなかった……今でもまだ……」
まさかあの戦いで……と、ミラはそう呟いて肩を落としてしまった。
うん……ごめん、帰ったら一発叩くね、マーリンさん。そこんとこの話に矛盾が出ちゃうでしょうが……っ。
ふたりにどう説明したのかをちゃんと教えておいてくれよ…………っ。
「え、えっと……俺はあんまり……と言うか、はぐらかされちゃって。力が失くなったとだけ聞かされてるんだ。その……理由……って、なんだったの?」
「……実は……」
魔王との戦いにおいて、魔女としての力を使い過ぎてしまった。
不完全な魔女であるマーリンさんの力は、それをキッカケに段々弱まり始め……と、ミラはそんな嘘の説明を鵜呑みにして丸々話してくれる。
そっか…………こっちの方がまだしっくりくるよな、実際。
でも……現実は違う。僕の為に——召喚の為に生贄に捧げられた。
もう……あの人のつらそうな顔は見たくないから、それの重さを背負うことはしないつもりだけど……っ。
ミラにとって——今のミラにとっては、恨みを向けたくなる相手になってしまうのかな……って。
そう考えたら……ちょっとだけ、その小さな背中が遠くに感じられてしまった。
「フリードさんともさっき話をしてさ。その……困ったな、って。
いや、あの人は全然……勝つ気と言うかさ、自分がもう一度負けるなんてまるで考えてなさそうだったよ。
どうやって戦おうか、勝とうか……って。流石だよね。だけど……」
「……マーリン様の力を……強化魔術を受けられない以上、フリード様と言えど魔女には太刀打ち出来るかどうか……」
僕とミラの中に共通して存在する、あの戦いの中で見た最強の戦士の姿はもうどこにも無い。再現出来ない。
そうなると……やっぱり、気分的には厳しい。
フリードさんは勝つって言ってるし、それを信じたい気持ちもある。でも……そうじゃなくて。
「気分的にはキツイよね……あはは……。何せ、一番強い状態にはなれないってことだしさ。それでも十分強いってのが分かってても……最強じゃない、次善手に変わりないわけだし……」
「そうですね。気分的には…………? アギトさん、フリード様のこともよくご存知なんですね。その……あのおふたりが共闘しているところなんて、そう滅多に見られるものではないと思ったのですが……」
あっ……やべっ…………え、えっと……ごほん。
話に聞いてるだけだよ、いつものやつ。と、自分が頭でっかちであることを主張してなんとかやり過ごす。
これ……いつかボロ出しそうだな……いや、ボロはもう出してるのか。
はあ……こんなの気にするよりも先に、記憶を取り戻せば解決なんだけどさ。そう簡単にはいかないから困ったもんだ。
「……アギトさん。出来るだけ早く……いえ。次の召喚で全部解決するくらいの気持ちで挑みましょう。
力を失っているのなら、この召喚にもかなりの消耗を要される筈ですから。少しでも負担を軽くして差し上げないと」
「……そうだね。次こそ……うん」
あれ……? 今、心読まれました……?
僕の弱気を発見して喝を入れてくれたのか、それとも偶然なのか。真相は闇の中だけど、少なくとも目の前のミラはやる気に満ちていた。
だったら僕も…………よし!
ばしんと頰を打って、そしてふたりで、やるぞーっ! と、気合いを入れる。
そうだよ、それが完了すればかなりのことが解決する。
マーリンさんの強化が無いなら、ミラの全開強化を掛けてあげれば良い。
マーリンさんが戦えないなら、僕達であの人を守れば良い。
あの時そうして貰ったみたいに、今度は僕達が……って。僕はそう考えてるけど……お前はどうだ?
きっと……ううん、間違いなく。同じこと考えてるって信じてるけど。




