第百六十四話【錆びた黄金】
星見の巫女はその能力の大半を喪失した。
より正確に言い表すのならば、その培った叡智を喪失した。
過去に積み上げてきた、それこそ星のような数の魔術式の大半を喪失した。
そして——新たな魔術式を組み上げる権利を、未来永劫放棄した——と。
それはつまり——召喚術式——アギトについての記憶を取り戻すのに必要な最低限の魔術を残し、彼女にはもう何も残っていないということだった。
「マナを読む力もかなり弱まっている。かつて程潤沢でないにせよ、取り込むことは出来る。けど、しかしその魔力も使い先が無い。
君の目の前にいるのは、残念ながら世界を救った英雄のひとりじゃない。
未来も見えない、魔術も使えない。ただの綺麗なお姉さんさ」
さて、次からが本題。と、マーリンさんはそう言って、さっきまでよりも更に真面目な——深刻な表情を浮かべる。
まるで、自分はまだマシな方だとでも言いたげに見えた。
「……一応、ミラちゃんについても再確認しておこう。僕の伝え損ねや認識のズレがあるといけないからね。
あの子は君を——居場所を失って、心の病を再発してしまった。睡眠障害に摂食障害。それと、強い孤独感からなる他者への依存。
これは、君がいた頃にもまだ残ったままだったけれど」
レヴ——過去に対する恐怖心からくる魔術への忌避感。
以前に聞かされたもの——実際に目で見たものと、今彼女が口にするそれらをひとつずつ照らし合わせていく。
どれもこれも覚えがあって、その姿を思い浮かべるだけで胸が苦しかった。
けれど……それで立ち止まるのは許されないと思った。
「そして……端的に言うと、性格も随分変わってしまったね。甘えん坊は鳴りを潜め、張り詰め過ぎた緊張感を身に纏うようになった。
もっとも、これは少しずつ改善している。やはり、君といると楽になるんだろう。
記憶の有無は関係無く、本能的に落ち着く相手なんだろうね」
「だと良いですけど…………いや。そうですね、そんな気は俺もしてます。もっとも……」
それを一番改善してくれたのは、ついこの間まで一緒だったキルケーさんと、それから今も元気に飛び回ってるキルケーのおかげな気はしますけどね。なんて答えると、マーリンさんはちょっとだけ笑ってくれた。
そうだね。凄く良い刺激になっているみたいだ。やっぱり、責任を感じなくて済む場は重要だよ、と。
「あの子については……うん、こんなところかな。さて、と。次、一番重症かもしれないフリードについて」
「一番……ですか……」
間違いなく一番影響を受けているだろう。マーリンさんは頭を抱えてそう言った。
正直……その、意外だった。
だって、僕とフリードさんとはそう長い付き合いでもなかった。
そりゃあ……親友なんて呼んで貰ったし、仲良くもなったと思う。でも……
「……それは本当に俺の……記憶が失くなった所為なんでしょうか。あんな人を大きく変えてしまう程の影響力が俺にあるとはとても……」
「変えちゃったんだよ、事実として。何も縁の深さ——付き合いの長さが全てじゃない。劇的な出会いだったんだろう、アイツにとっては。そういうこともあるのさ」
そういうこともある。うーん……なんだか言いくるめられた感じがしたけど、今それを言い争っても仕方が無い。
またいつもみたいに、君と話すとすぐに脱線してしまうよ! なんて文句を言われる前に、黙って説明を受けるとしよう。
「……黄金騎士フリードの持つ特異性は、もう殆ど残っていない。
アイツの口から直接聞いた訳でも、あれから多くの戦場を共にした訳でもないから、僕の推測も混じっちゃうんだけどさ。けど、まず間違いないだろう。
アイツの持っていた異常性——守るべきもののある戦いでは負けないという特性は、完全に消失した」
異常性……か。
確かに、それはあまり筋の通った力ではなかった。
勝たなくちゃならないから勝つ。負けちゃいけないから負けない。守らなくちゃならないから、失うわけにはいかないから、それを残しては絶対に倒れない。
あの人が見せたその強さを、彼女は理屈の通らない根性論だと評したこともある。
「……その……それって、俺が——あの時、俺が死んだから……っ。守るべきものを——弱いものを死なせてしまったから……」
「……どうだろう、それもあるかもしれないね。でも、僕の見立てでは少し違う。
アイツは今、モチベーションを高く維持出来ないでいるんだ」
モチベーション……? 彼女の口から飛び出したのは、なんだか少し不謹慎な気さえする言葉だった。
い、いや……別に批判するつもりは無い。
だって、魔王は倒したんだ。悲願を達成して、そこで燃え尽きるなんてのはよく聞く話で……
「知っての通り、アイツの強さは心の在り方と直結している。魔王を相手取った時のアイツは、まず間違いなく過去最高潮にノっていただろう。
眼前にいるのは何よりも打ち倒すべき仇で、彼の悲願に手が届くところにいて、そして守るべき新たな仲間を背にしていた。
あの瞬間のフリードリッヒは、恐らくアイツの人生の中でも最も強かった筈だ」
そして、現在はその真逆。
過去のどの時期よりも弱い——今よりも肉体の幼かった過去の旅の間よりも、更に弱くなってしまったかもしれない。と、そう続けると、マーリンさんは少し寂しそうに目を窓の方へと向ける。
その窓の先には王宮があるわけじゃない。
何か……僕には分からない、知り得ない何かを憂いている様子だった。
「勿論、積み上げた武術が衰えたわけじゃない。むしろ、その技は更に冴えていることだろう。
けれど……やっぱりアイツは気持ちで戦うタイプだから。
魔王という存在は、皮肉にもアイツにとって最高のモチベーションだった。
打ち倒すべき目標として、守るべきものを脅かすものとして。あらゆる面でアイツを強くしていた。けど、それももういない。それに……」
こんなこと言っても良いのかな。なんて、マーリンさんは両手で顔を覆ってため息をついた。
まるで泣き真似みたいなその仕草に、彼女に少しだけ余裕が出てきたように感じてしまった。
でも……本当に余裕があるのなら、その方が僕としても……
「……結局さ、やる気が出ないんだよ。今のアイツの仕事と言えば、残った魔獣と魔人の集いの残党狩り。早い話が雑魚の相手しかしていない。
だから、本来持っていた潜在能力を——窮地を前に進化するという性質を失っている。理由の半分がコレ、もう半分は……」
「……半分⁈ ま、まだあるんですか……」
話の腰を折らないの。と、マーリンさんは優しく僕のお腹を突っついて、そして寂しげに笑って僕の頭を撫でた。
やっぱり、君のいなくなった穴が問題なんだ。と、そう続けて、そしてゆっくり目を伏せる。
「……アイツにとって、魔王は最高のモチベーションだった。それは間違いない、間違いないけど……それだけでもなかったというのが現実だ。
かつての勇者——もう十七年も前に別れた親友。そして、今から二百余日前に別れたもうひとりの親友。
アイツにとって、ふたりの男は特別な意味を持っていた」
君もアイツにとっては最高のモチベーターだったんだよ。と、マーリンさんは呆れた風にそう言って、そしてむぎゅっと抱き着いてきた。
からかうつもりがあるわけじゃなくて、寂しさを紛らわす為に——これから口にする言葉を最後まで吐き切る為に、心の準備が必要なんだ……って、顔に書いてあった。
多分、隠すつもりは無かったんだろう。
「かつて彼と交わした約束は達成した。けれど、アイツはそんなことで立ち止まったりしない……筈だった。
アイツは必ず高い目標を掲げ続ける。気高い……かどうかは僕の口からは言及しないが、アイツの精神力は確かに強い。けれど……」
新たな目標を——誓いを、あの戦いの前に既に打ち立てていたとしたら……? マーリンさんは僕に問い掛けるようにそう言った。
新たな目標……誓い……? それを、魔王との戦いよりも前に——前の勇者様との約束の最中に……打ち立てていたら……?
「鈍い……ほんっとうに鈍いね、君は。アイツは君を見て——あの日君と出会って、君の覚悟を聞いて、そうして新しい世代への期待を高めたんだ。故に、君を親友と呼んだ。
本当ならアイツは迷うことは無かった。だって、そこに新しい目標があるのだから。
けれど……君との思い出を失い、それが丸々抜け落ちてしまった。
アイツは今、生まれて初めて自分が何をしたら良いのか分からない状況に陥っているんだ」
「何をしたら良いのか……って……フリードさん程の人が……?」
そうとも。と、マーリンさんはなんだか嬉しそうに頷いた。
な、なんでそこで笑うんだ。盟友のピンチなんだろ? そこはもっともっと不安そうな顔をしてだな……
「アギト。前にも言った、それにこれからも言う。何度だって言ってやるぞ。
誇れ、アギト。君が凄過ぎたから、アイツはそれに代わる答えを見つけられないでいるんだ。
ポッカリ空いた穴の大きさに、それに見合うだけの目標を定められないでいる。
僕が見た限りでは、アイツはそういう迷い方をしているんだ」
「……俺が……凄い……? 俺があの人に……そんな大きな影響を……」
そうとも。と、マーリンさんはまた更に嬉しそうな声色でそう言って、大きく大きく頷いて笑った。
僕が空けた穴がそんなに大きいだなんて……し、信じられないし……でも、もしそうだとしたら……や、やっぱり罪悪感…………
「…………って、笑ってる場合じゃないですよ! ってことは……ってことは、ですよ! 結局、記憶を取り戻すまではあの頃のフリードさんは……」
「ん? ああ、そうだね。確かにそうとも取れるけど……」
他にどう取るんじゃい。
そう、問題はそこじゃない。
現実的に立ちはだかっている問題は、僕とあの人との関係性が云々なんて関係無いんだ。
あの赤紫色の瞳をした魔女——魔人の集いの最終兵器……なのかな? あまりにも桁外れな強敵を前に、フリードさんが絶不調だなんて状況が破茶滅茶にマズイんだ。
ま、まさか……さっさと記憶を取り戻せばオールオーケーっ! なんてこと言い出すんじゃ……
「……記憶を取り戻せばすぐに解決する……だろうけど、正直それを待つまでもないとさえ思ってる。
言ったろ、アイツはモチベーションを失ってるだけだって。あれだけの強敵が現れたんだ、勝手に立ち上がるさ。
少なくとも僕は、君が思っている以上にこの状況を楽観視しているよ」
「……なる……ほど…………いや、楽観視はマズイんじゃ……」
大丈夫さ。と、マーリンさんは胸を張るのだが……な、何が大丈夫なんだ……?
開き直ってる——ポジティブになれる理由があるのだろうとはなんとなく思ってた。
でも……そこだけ分からないまま、とりあえず大丈夫そうだよとだけ伝えられた僕は……ぜ、全然安心出来ねえ…………っ。
「……それじゃ、ベルベットに怒られてくる。アイツにも心配掛けさせたからね」
「…………やっぱり、俺からも一発殴っておいた方が……」
マーリンさんは僕の小ボケみたいな脅しなんて笑ってやり過ごして、そして小さく溜息をつきながら部屋を出て行ってしまった。
そして、すぐ隣の部屋からベルベットくんの怒鳴り声が聞こえて………………い、いったいどう説明するつもりだろうか……?
かなり怒ってるみたいだけど、変にあれもこれも内緒ですなんて言ったら…………ベルベットくん、顔はやめてあげてね。
女の人だから、顔を殴るのは…………いや、どこも殴っちゃダメだけどさ。




