第百六十一話【失われたもの】
生きてる——?
実感はまだ無くて、けれど目の前にいる少年の姿には覚えがあって。
殴られた痛みがはっきり分かって、それでも……やはり、生きた心地がしなくて。
きっとぼうっとしていたのであろう僕の頭を、ベルベット少年はもう一度グーで殴った。
「——急げこのバカ! フリード様はまだしも、マーリンの奴とハークスのチビは無事とは限らないんだ! こんな時にぼさっとすんな!」
「——っ。ご、ごめん……うん、急ごう!」
さっきからそう言ってるだろ! と、もう一撃をお腹に貰うと流石に状況も理解した。
僕は助けられた。また——また、助けて貰った。
もう無理だって思った、諦めてしまったところから掬い上げて貰った。
情けなさが湧いて出てきて、それと少し遅れて感謝の気持ちがやってくる。
まだ——まだ、恩を返すチャンスがある——
「…………? あれ? と言うか、どうしてベルベットくんが……? 麓で待機だった筈じゃ……」
「大馬鹿、間抜け、ダメアギト。俺を誰だと思ってる。ジューリクトン——金鋼稜の歴史上、最も優れた術師だぞ。お前達の探知なんて、そのくらいわけないに決まってるだろ」
え? ま? すっご……っ。何その最強ストーカー能力。
っと、弛む暇は無いぞ。こっちだ! と、光も何も無い真っ暗な泥の中を先行する少年を追って、僕は相変わらず足元の覚束ない空間を全力で走った。
まずはフリードさんを——一番近くに倒れていたあの人を探さないと。
「詳しく話せなんて言わない。何があった。俺が来た時にはもうフリード様が倒れていた。マーリンのアホが崖から飛んでくとこだった。いったい何があったんだ」
「——っ。それ……が……」
よく分からない。
何も……何も理解出来ないまま話がどんどん進んじゃってて、気付いたら……殺されかけてて……っ。
ひとつだけ分かっているのは、あの場所には魔女がいたということだけ。
それがなんなのか、どこから来たのか、あいつらとどういう関係なのか。何も分からなかったけど……ただ、マーリンさんの動揺が酷くて……
「魔女……そうだ、魔女……っ。言ってたんだ、マーリンさんが。魔女としては生きられなかったから、人間として生きる道を選んだ……って。その為に勇者を召喚して、友達になろうとした……って……」
じゃあ……あの魔女は、かつてのマーリンさんの知り合いだった……?
そうだ、そんな様子だった。お互いがお互いを——過去を知ってるって感じだった。
魔女としては生きられなかった……ってことは、あの魔女とマーリンさんは仲が良かったわけじゃなくて……?
「…………魔女……。ってことは、少なくともマーリンクラスか……っ。急ぐぞ、アギト。今こうしてるのも多分全部バレてる。早いとこ表に出ないと、このまま生き埋めにされかねない」
「生き埋めに……? それは……ええっと…………っ! そうか……魔女はマナを……」
マナを——魔力を、魔術を感知出来るんだ。
となったら、魔獣に見つからない為のこの地下道路も、アイツにとっては居場所を知らせながら逃げているようなものになってしまう。
早くみんなと合流して逃げなきゃ、今度こそ……
「——っ! 居た、フリード様だ! フリード様!」
少年が大声を出したのを聞いて、僕は大慌てで下がっていた視線を前に向けた。
そこには確かにフリードさんが——地中にゆらゆら漂っている黄金騎士の痛ましい姿があった。
やはり、あれは幻覚や夢ではなかった。
その四肢は紫に変色していて、とても歪な形に曲がってしまっている。
何かとてつもない力で握りつぶされてしまったかのように、フリードさんはぐちゃぐちゃになったままそこに横たわっていた。
「……息はある。急いでマーリンを探すぞ。さっさと馬車に戻って手当てして差し上げないと……」
「分かった。取り敢えず、何か当て木になるものだけでも……」
そんなに都合良く行くもんか。と、少年は少し焦った表情でそう言って、表に出れば幾らでも木が生えてるだろう。と、そう続けた。
今は何もしてあげられない……か。
悔しそうなその姿に、僕もぐっと歯を食いしばって顔を上げた。
フリードさんのことは僕が背負って行こう。
幸い、この地下では浮力的なものが働いている。僕でもこの偉丈夫を背負えるし、折れた腕や脚にも負担が掛からない。
便利だとはずっと思ってたけど、ここへ来て過去一番にピッタリハマった錬金術だ。
それからしばらく、僕達はひたすら無言で走り続けた。
泳ぎ続けた……の方がしっくりくるかもしれない。
とにかく前に——マーリンさん達のところに向かって進み続けた。
そうしていると、やっと少年が口を開いた。
そろそろ上がる。ここからはふたりで抱えて行こう、と。
「よし、出た。誰も追って……こないな。急げ、アギト」
「う、うん。よい……しょ……うごっ……さ、流石に重い……」
体格差もあるが、装備の分の重量も厄介だ。
仕方ない、鎧はここに置いて行こう。
ただでさえ怪我してるんだから、こんなもの着せてたら尚更……って、鎧の一部を当て木にすれば良かったじゃないか!
今更思いついた妙案に、僕もベルベットくんも急いで持ってた手ぬぐいや着ている服を裂いて、その折れた腕と脚に金属の当て木を縛り付ける。
腕も脚も丸太みたいに太いから、縛るだけでも一苦労だ。
「えっと……アイツが落ちてったのは…………いた! アギト、あっちだ!」
「えっ、どこ……ホントだ! よし、じゃあ……せーの——」
ベルベットくんが上半身を背負って前を、僕が腰を抱えて後ろを歩いて、遠くに見つけたその影に向かって慎重に——けれど急いで向かう。
見れば、硬い筈の地面にプカプカと浮かぶ人影が見える。
大きく翼を広げたままグッタリしているマーリンさんと、そして彼女に抱き締められているミラの姿がそこにはあった。
「マーリン——っ! しっかりしろ、マーリン! 寝てる場合か! 起きろ!」
「ちょっ……あの高さから落ちたんだから、無茶だよ。もうちょっと丁寧に……」
俺が受け止めたんだ! 怪我なんてさせてるもんか! と、そう叫んだベルベットくんの目には、僅かながら涙が浮かんでいた。
ああ——そうだよ、なんで気付かなかった。
この子だってマーリンさんとずっと一緒に居たんだ。
ずっとずっとその優しさと触れてきた、その弱さを目の当たりにしてきた。
いつも反抗的なのは親愛の証だって、そんなこと分かってたのに。
「——ぅ————あ……っ。ベル……ベット……」
「っ! 気付いたか! 起きろ! マーリン! 何があった! どんな奴が出てくれば、お前とフリード様がこんなことに——っ!」
魔女ってなんなんだ——っ! と、少年はまだ目の焦点も定まらないままのマーリンさんに噛み付いた。
けれど、それが不毛なことだってのは彼も分かってる。
大急ぎでふたりを泥から引き上げ、そして出来るだけ石を取り除いた草地の上に寝転がせた。
良かった……自己治癒のあるミラはもちろん、マーリンさんも見たところ外傷は無い。ゆっくりとだけど、意識もはっきりしてきた。
これなら逃げるくらいのことは————
「————驚いた。あの方を前にして生き延びる者がいるとは。流石、世界を救っただけのことはある——」
「————っ! お前——は————」
ビリビリと脳髄まで痺れる感覚があった。
その声に——気配に、滲み出る殺意に。僕もベルベットくんも全身から滝のような汗をかいて、その登場をただ睨み付けるしか出来ないでいた。
白衣姿の男——殺戮者ゴートマンがそこには立っていた。
「——っ。ベルベットくん。俺が時間を稼ぐから、その間にみんなを地面の中に……」
————お前がなんとかしろ————
頭の内側からそんな怒鳴り声が聞こえた。
ああ——分かってる、最初からそのつもりだ。
これは僕の——僕達の因縁だ————っ。
——考えろ——。
この男は今までどんな風に戦っていた。
さっき見たフリードさんと戦ってる時の姿じゃない、まだ勇者の力が目覚める前のミラと戦ってた時の姿を思い出せ。
どう来る。まず何をする。
どうすれば時間を稼げる、牽制出来る。
目一杯虚勢を張れ、少しでも隙を作れ。
今の僕には何の魔具も無い——短刀も、魔弾も、身隠しの結界も陣も何も——
だけど……畏れは買える筈だ。
あの状況から——この男の態度を見るに、やはりあの魔女と魔人の集いは繋がっている。
なら——あの化け物から無傷で逃げ延びたように見える僕は、この男からしたらかなり不気味な存在に見える筈。
かつての記憶は無い——何も出来ない、守られてるだけの姿をコイツも忘れている。
だったら——何か————
「——っ。どうやら、かなりの人数を手に掛けたみたいだな。どれだけ膨れ上がってるんだ、その利子は。だけど……カラクリは分かってるんだ」
「…………ほう」
至った答えは、やはりこの異質さ——奴の記憶の中に存在しない、過去に見えたという情報を上手く使うことだった。
それはどうしようもなく悪手ということは無くて、現にゴートマンは少しだけ身構えてこちらを睨んでいる。
飛び掛かってこない——一手で詰ませられる場面で足踏みしている。
あの男からはこちらの状況がどう見えている。
最強の戦士、黄金騎士は戦闘不能。
同じく危険性の高い星見の巫女もまだ覚醒していない。
そして、天の勇者の回復力は身を以て知っている筈。
となれば、この男は待ってはならない。
マーリンさんとミラが起きたら、こっちには抵抗するだけの戦力が整ってしまう。
それでも、来ない。となれば——っ。
「——答えろゴートマン——っ! あんな——魔女なんかとどこで繋がった——っ! お前達魔人の集いは、いったい何をしようとしている! まさか——アレもあの魔竜使いが作った魔獣だとでも言うのか——っ!」
「…………少年。いったいどこまで知っている」
——っ! しめた、食い付いたぞ!
ゴートマンは構えを解くことも威圧感を消すことも無かったが、こちらへ明確な興味を向けている。
目の前の僕が何者なのか、まず何よりもそれを知ろうとしている。
魔竜使いのゴートマンの存在を知る人はそう多くない。
いいや、あのゴートマンを知っている人間はそれなりにいるだろう。
だが——魔竜を操っていた時期は、僕達とぶつかっていたあの時だけなのだ。
後ろで倒れているふたりから聞かされた……と、そう単純には考えられない。
何故なら——
「——そうだ——抜けがあるよな——っ! お前の記憶の中に——勇者と立ち会った瞬間の記憶に、穴が空いている筈だよな——ッ!」
「————っ! 貴様——何者だ——っ!」
————っ! ゴートマンに僅かな動揺が見られた瞬間、僕の体はドプンと土の中に引きずり込まれた。
一瞬だけ慌てて、そしてすぐに落ち着いて。隣を見れば、ミラとフリードさんを引っ張るベルベットくんの姿があった。
そして、そのすぐ側にはまだフラフラしているマーリンさんの姿もある。
逃げ切った——っ。
油断はしちゃいけない、まだあの魔女のこともある。
けれど……僕は少しだけの安堵と共に、この地下通路をまた走り出した。




