第百五十九話【翼を持つもの】
その姿は、どうしても僕の胸に毒のようなものを差し込んでくる。
フリードさんなんだ、今戦ってるのは。
あの魔王さえも圧倒した、他の誰でもないフリードさんなんだ。
けれど……男の不遜な態度に、言葉に。そして、今までの苦い経験に。もしかしたら——と、そう思ってしまう自分がいる。
かつてもそうだった。
ミラがただの人間に負けるだなんて考えたことはなかった。
その強さも勇敢さも、他の冒険者や騎士とは一線を画すものだと理解していたから。
けれど、あのゴートマンは僕の希望を踏み砕いてしまった。だから……っ。
「……フリードさん……っ」
状況は圧倒的に優勢だった。
フリードさんは踏み込んで一撃を放つ。そう、重たい重たい一撃を。
それは、相手の行動に対処し切る自信があるから。
牽制を入れる必要も、回避や防御に意識を割く必要も無いと、そういうことだ。
対照的に、ゴートマンの方はそう出来ていない。
かつて見た時とは打って変わって、殺意の塊みたいな強い攻撃性は鳴りを潜め、常に間合いを測るようにフットワーク重視で立ち回っている様子だった。
拳を放っても振り抜くことはせず、いつだって防御の構えから逸脱した姿勢にならない。
「——っ。ぐ——っ」
それでも、フリードさんの拳はゴートマンの腕をすり抜けて肩を打ち抜く。
上体が浮いてフラついたところに、もう一撃が放たれる。
それを間一髪で躱して、そして逃げるように間合いを離す。文字通り、ゴートマンは防戦一方なのだ。
そういう戦い方しか出来ない、攻撃力にはそれだけの差があった。
ただ、それでも……僕の中には晴れない疑念があった。
「アイツ……あんなに……」
このゴートマンの実力は、こんなにも高かっただろうか。
いいや、分かっている。覚えている。その恐怖も、強大さも。忘れてなどいない。
けれど……フリードさんを相手にここまで粘れる程強かったのだろうか。
答えは……分からない。
かつて見た姿が全力だったかどうか、そもそもそこが分からない。
だが、あの頃よりも強くなっているという可能性を——そのキーを知っているから……っ。
「アギトさん、あまり前に出ないでください。フリード様なら大丈夫、あんな奴に負けたりしません」
「……ミラちゃん……」
そう言って僕とマーリンさんの前に立つミラだったが、その表情はどこか不安そうなものだった。
やはり、ミラの中にもあるんだ。
違和感……そう、違うんだ。アイツは——ゴートマンは、あの頃とは違う。あの時からおよそ九ヶ月は経ってる。
二百以上の日数の間、コイツは……っ。契約術式の維持を続けていた、その間もずっとずっと人を手に掛け続けていた。
だとしたら……コイツの上には、あの時とは比べ物にならない罪と、そして強さが積み上がっていてもおかしくない。
「——ぉおおお——ッ!」
「————っ! ぐっ——ぁああ——っ!」
それでも——それでも押してるんだ。
どれだけアイツが強くなっていようと、それでも勝っているのはフリードさんだ。
だから……っ。だから、こんな不安に意味は無い筈なのに……っ。
突然そうなったわけじゃない。ゴートマンは最初から守りを優先して立ち回っている。
つまり、初めから力量差は理解しているんだ。
だったら……だったら、最初のあの発言にはどんな根拠があった。
ただのハッタリ……? 負け惜しみ? 或いはこうやって悩ませること自体が目的だったのか?
もしそうだとしても、その程度でどうにかなる実力差じゃないのは目に見えてるじゃないか。
「——黄金騎士——っ。やはり——手強い——っ」
混乱したままの僕の目に、更に理解出来ない光景が飛び込んできた。
こともあろうに、ゴートマンが逃げ出そうとしているのだ。
あからさまに背を向けたりはしなくても、一歩一歩着実に後ろへと退がっている。
実力差が思っていた以上にあった……って、そんな間抜けな話なのか……?
でも、そうじゃなかったら……これが想定内だと言うのなら、アイツはいったい何をしに出てきたってんだ。
「……マーリン様。あの男……どこか様子が……」
「うん、分かってる。丁度アギトも気付いたみたいだね。周囲警戒。あの男はフリードに任せて、離れ過ぎないように付いて行くよ」
ミラもマーリンさんも同じ不安を……と、どこかホッとした自分がいた。
自分が間違ってなかったことにじゃなくて、ふたりが僕と同じくらいあの男を警戒してくれていることにだ。
僕じゃどれだけ警戒してもダメだ、何が出来るでもない。
でも、ミラとマーリンさんなら違う。アイツが奇策を打ってきても、それを打開する対応力がある。
「——ここまでか——」
「————っ⁉︎ 待て! 何処へ————」
そしてついに、ゴートマンは露骨に撤退を始めた。
フリードさんの攻撃に必要以上に大きく飛び退いて、そしてそのまま洞窟の方へと走り始める。
本当に無策で逃げ出した……? いや、そんなわけない。
あの男が——あの連中が、本当に無策でこんなことするわけない。となったら——
「——フリード! 追うな! この洞窟は何処かに抜けてるんだろう? だったらそっちを抑えれば良い。見え見えの罠に飛び込むな!」
「分かっている——っ。だが——己ならば————」
——逃しはしない————。と、逃げるゴートマンの背中をフリードさんは猛然と追い掛ける。
フリードさんなら追い付けるかも……と、そう期待させる程ふたりの間合いはぐんぐん縮まっていく。けれど——
「——っ! フリード様! 上です!」
その脚を止めたのはミラの声だった。
そしてすぐに、防御の姿勢を取ったフリードさんの腕から血が噴き出した。
そこには何もいないのに、いきなり何かに斬り付けられたみたいに——っ! 見えない魔獣——っ!
「——揺蕩う雷霆——改——っ」
ざざっと後退りしたフリードさんを飛び越え、ミラはばちばちと青白い光を放ちながらその不可視の群れへと突進した。
相変わらず……っ。憎たらしいのはやはりこの魔獣の特性だ。
前もそうだった、ギリギリまで近付かないとミラですら気付けない。厄介極まりない、危険な相手だ。
だけど、一度探知して仕舞えばふたりの敵じゃない——筈だった。
「——っ⁉︎ ミラ=ハークス——っ!」
髪を逆立ててフリードさんの前に躍り出たミラだったが、そこでいきなり膝を突いて倒れてしまったのだ。まさかアイツ——っ。
奇しくも、初めてこの魔獣と出会った時と同じ状況だ。ミラはまた、雷の魔術を……
「……また……あの時と同じ……っ」
そう、あの時と全く同じ。
本来の能力を過剰に開放し過ぎてしまって、結果そのトラウマから雷属性の魔術を——レヴから引き継いだ力を使えなくなる。
事態の深刻さは違えど、状況はあの時と同じ。
幸いなのは、アイツの隣にいるのが僕じゃないこと。何も出来ない僕じゃなくて、誰よりも強いフリードさんだから……
「——はぁあ——っ! 大丈夫か、起きろミラ=ハークス!」
「——っ。すみません、フリード様」
バチン! バチン! と、フリードさんが拳を振るう度に何かが吹き飛んで、そしてどさどさと土の上をそれが転がった。
今はミラ自身が戦えなくても大丈夫。ミラの指示で場所を把握したフリードさんが、見えない魔獣を片っ端から吹き飛ばしていく。
そして、彼が構えを解いたから、そいつらが全滅したんだと僕もマーリンさんも理解した。
「逃げられた……か。魔女、追うぞ。この先までは把握していないが————っ‼︎」
「ああ、勿論だ! ミラちゃん、立てるかい? もうちょっとばかし頑張って貰うよ。洞窟を抜けるのはやはり危険だ、音と匂いでこれがどこに繋がってるかを探って欲し————っ⁉︎」
任せてください! と、そう答えて、そしてすぐにミラは顔を青くした。
いいや、ミラだけじゃない。フリードさんも、驚いた表情で周囲を見回していた。
マーリンさんも、言葉を失って立ち尽くしてしまっている。
僕は……僕も、三人に遅れてその異常を把握する。
そして、更に遅れて——
「————どこだ——ここ————」
びゅうびゅうと頰に強い風が吹き付けていた。
さっきまで風を遮っていた木々や岸壁は存在せず、代わりに見晴らしの良い景色が周りを囲んでいる。
ここは……山の頂上……だろうか。
いや——いいや、おかしい——っ!
だって、さっきまで中腹にいたんだ!
洞窟の前に、今からその先を目指そうって話をしてて————
「————人間ごっこはもうやめたんだ————」
————声がした。
女の人の声だった。
敵意や害意なんて感じさせない、凄く自然な声だった。
優しい……わけじゃない。
けれど、特別こちらに嫌な感情を向けているふうでもない。
ただ、そこにいたから声を掛けてみた……って、そんな声色だった。
けれど……まるで、僕達の中の誰かを知っているみたいな口ぶりで……
「————うそ——だろ————っ。君————は————」
——銀色の髪——赤紫の瞳——白い肌————
そして————銀色の翼————
その姿に絶句したのはマーリンさんだけじゃなかったが、他の誰よりも驚いていたのは間違いなく彼女だった。
その姿に——正体に覚えがあるのは誰も同じだったが、その意味を理解出来ているのはマーリンさんだけだった。
その——翼は————
「——灰色——お前、変わったな————」
————魔女————
僕はその言葉を知っていた。
その意味も、それがどのような姿であるのかも。
強さも、優しさも、弱さも、気高さも——
けれど————その全てを知らないでいた————
「————フリード————ッ‼︎」
マーリンさんの悲鳴が聞こえたのは、それが翼を大きく広げた時のことだった。
その意味を僕とミラが知ったのは、最強の英雄が——黄金騎士フリードが、何をされることも無くその場に倒れ臥した後だった。




