第七十八話
労働とはこんなにも素晴らしい。午前十一時、僕は初めて本物のお客さんを相手に接客を体験した。そりゃあ不審がられない様に必死だったし、多分それが原因で不審がられたかもしれない。本末転倒男である。店長は少し苦い顔をしながらも、ちゃんと出来ていたよ。あとは笑顔だね。と、評価をしてくれた。うん、笑顔……笑顔か。自分の笑顔なんて久しく見ていないものだから、イメージを抱くことも出来ない。鏡の前で少しは練習するべきかも、だ。さて……
「……なんて平和なんだろう。ああ、素晴らしきかな現代社会……」
労働とは! こんなにも素晴らしい! 何度だって言おう。労働とは! 投げ飛ばされたり! リアル雷が落ちたり! やべえ蛇に噛まれたりしない環境の中での! 平和な労働とは! こんなにも素晴らしい‼︎
「しかし、お客さん来ないねぇ……お昼時はこの辺に会社とか学校も無いし、しょうがないんだけど。朝入ったっきり、夕方もそんなに客足伸びないし。手を打たないとねえ……」
「はは……そ、そうですね……」
とても言えない。パンの味がイマイチだからリピーターが付かなさそう、だなんてとても言えない。苦労ジワを一層深く寄せてしょげる店長に、僕はただ無難な相槌を打つことしか出来ないでいた。お店は綺麗だし、おしゃれだと思うし、立地も悪くないから全く入らないわけでは無いのだが……
「…………今日も暇なまま終わっちゃいそうだねぇ。ごめんね、あんまり暇だとつまんないでしょ」
「いえ……慣れてますんで……」
散々繰り返してきた暇をつぶすだけの人生を振り返れば、こんなもの……いかん、目頭に熱が。ともかく、今の僕にとって忙しい忙しくないというのは些細な問題。働いているという事実だけで晴れやかな気分になるし、安全であるというだけで心穏やかに過ごすことが出来る。強いて欲を口にするなら……そうだな。あのちまっこい少女が居たなら、きっともっと楽しく過ごす事が出来るのに、と。
昼休みを終えてもお客さんは来ず。果たして本当に大丈夫か。初アルバイトが一ヶ月で閉店なんて悲しい思い出になるのは嫌だぞう。そんな不安を抱きながら、とっくに綺麗になって久しい控え室の掃除をしている時の事だった。カランカランと入口の鐘が鳴る。待ちに待ったお客さんの来店だ!
「いっ! いらっしゃいませ!」
ぎこちなかったかな? ぎこちなかったね。入ってきたのは高校生くらいの——見た目の話で無く、年齢的にあの少女と同年代くらいの女の子だった。女子高生か、案外まだ中学生か……もし中学生なら、彼女があまりにも不憫に成る程大人びた雰囲気のパーカー姿の少女だった。
「あの、面接に来たんですけど。店長ですか?」
「あっ…………ちょっと待っててください。今呼んできます」
なんというか……取っ付きにくそうな、何処ぞの距離感ゼロの警戒心皆無なおバカ娘と違って、嫌に刺々しい態度に内心もう泣きそうだった。なんでこんな倍近く歳の離れた小娘に敬語使っとんのじゃおのれぇい……ぐすん。接したことの無い、もしあれば苦手意識を植え付けられていたであろうタイプの少女に睨まれながら、僕はバックヤードに店長を呼びに行く。なんて情けない三十路なんだ僕は……
「はいはい……ああ、花渕さんだね。うん、話は聞いてる。ごめん原口くん、しばらくお店お願い」
そう言って店長は花渕と呼ばれた少女を連れて、かつて僕も面接を受け、昨日も散々掃除をしたバックヤードに戻っていった。なんだろう……もしかしたら彼女と一緒に働くことに……初対面の第一印象だけでの判断でとても失礼とは分かっているのだが、どうにも背中が冷える。もし彼女と二人っきりにでもなろうものなら、ペッキリ心が折れてしまいそうだ。コミュ障にとって、取っ付きにくいけど仲良くしなくてはならない相手というのは、余りにも強敵過ぎる。
かかった時間は僕の時とそう変わらないくらいで、少女はバックヤードから出てきて、僕の事など一度たりとも見ようともせずに、スマホだけ見て店を後にした。怖い……怖すぎる……助けて店長。もしあの子と働くって言われても、まったく上手くやっていける自信が無い。
「……あの、店長。あの子……」
「ああ、うん。来週から入って貰う事になった。始めのうちは教える事も多いし、君とも一緒になるだろうね。仲良くやるんだよ」
笑うしかなかった。それも愛想笑いなどでは無い。心の底から絶望感に笑う他なかったのだ。無理だ……あの超至近距離無遠慮コミュニケーション娘ならいざ知らず、あんな……いや、僕も似たようなもんか。あ、怒らないで。怒らないでください! 違うんです! 人と関わるのが嫌そうって! そういう他人と壁作ってそうなところの話です! 別に三十路オッサンと女子高生じゃそもそもの価値が違う事くらい重々承知しております‼︎
夕方にもう一人だけ。正確には二人、小さな子供を連れた母親がやって来ただけで、僕の二日目の——気合いがきちんと入った状態では初めてのバイトが幕を下ろした。店長は見るからに萎れてしまっていたが……僕に何か出来るだろうか。それこそ今日来ていた、えっと……花渕と言う少女が接客をする方が、僕なんかが働くよりプラスに作用しそうなものだ。しかし泣き言を言っても仕方が無い。次は明後日。明日のオフ会で十分に英気を養って、気合いを入れていこう。僕は帰り道で一人そう意気込んだ。
「ただいまー」
家に帰ると随分といい匂いがした。この甘辛い匂い……さては!
「おう、帰って来たか。早く荷物置いて来い」
既に食卓には鍋も取り皿も肉も野菜も、もちろん一緒に食べてくれる家族もスタンバイしていた。僕は兄さんの言う通り、さして何が入っているでもない鞄を部屋に置いて急いでリビングに戻る。今日はすき焼きだ!
「どうだ、アキ。これで二日目。ちょっとは気分も出て来ただろ」
「気分って……んまあ、板山さんには良くして貰ってるし。お店が続けばもう暫く厄介になろうかとは思ってるけど」
兄さんは少し苦い顔をした。理由はもう言うまい。それより肉だ肉。今日明日でしっかりおふくろの味を堪能しておかなければ、明後日にはゲテモノの丸焼きなんて食べる羽目にもなりかねない生活なんだ。ああ、しかしなんだ。二人に話すだけの出来事があるって、なんかいいね。当たり前のことだろうに、こんなことでも達成感を覚えるのだな。
少し焦げ付いた割下に苦戦しながら鍋を洗い上げ、僕は何か喉元に引っかかった様な違和感を覚えながら部屋に戻った。なんだったろう……もう彼女にかけてやる言葉など考える必要は無い筈だが……
「……そうだ。デンデンさんに明日の事ちゃんと確認しとかないと……」
明日は待ちに待った……と言うのは建前。正直緊張しかないのだが、デンデンさんと話が合うことだけは分かっているから。その話が来た時よりは、多少気も楽にはなっている。だから、待ち望んでは無いけど楽しみにはしてた、程度の。僕にとっては貴重な楽しいイベント。遅刻とか迷子とかは避けたいところ……
「さて……えーと。デンデン氏。明日は前に貰った予定と何も変わりないですかな? っと」
デンデン氏……デンデンさん……? はて? やはり何か引っかかる……? いつもなら爆速で返ってくる氏のリプを少し待って、ようやくその正体を思い出したのは自家発電の体勢を整えている時の事だ。
「………………ダウンロード‼︎」
僕は急いでPCを……いかん! ほったらかし過ぎて固まっ……頑張れ! 頑張れPCちゃん! 今シャットダウンしてやるから! レスポンスの悪い、固まってしまったモニターを前に、僕は貧乏ゆすりしながらそれの再起動を待つ。そしてタイミングの悪い事に、氏からの返信はちょうどそんな時にやって来たのだった。
『問題ないでござるよ。ところで、ダウンロード無事終わりましたかな? 長いからって放置し過ぎて、タイムアウト食らったりしてないでしょうな? まあ、まさかアギト殿に限ってそれは無いでしょうな』
問題ないでござるか。そうかそうか。僕は絶賛問題の真っ只中でござるよ。頑張れ……頑……がんばえー! ぱそこんがんばえーっ!
無事ダウンロード完了を確認出来たのは、それから五時間後のこと。午後十二時過ぎ。明日は慣れない電車にも乗って……ダメだ! 今日も出来そうにない! そんなのってないよ! 僕は涙を飲んで布団に入った。今までは当たり前だった徹夜ゲームが許されない。真っ当な生活が僕の優雅な自宅警備員ライフを脅かしている証だった。さあ、寝よう。明日も、明後日も早いのだ。ゲームは……明日帰ってくるの何時頃だろう…………