第百四十六話【許せないとして】
僕とキルケーさんは話をした。何も知らない——あの別れの後のことを何も知らないヘカーテさんに、僕達が今目指しているゴールのことを。
そして、それに至った経緯……フィーネ、ザックの存在。あの人の人格に生まれた空白。死からの蘇生、或いは複数体の存在という規格外の可能性。
僕達が——異世界からの来訪者が引き寄せられた理由。
まだ、この世界は救済の余地を残している、と。
そしてそれは、あの人のこれからに大きく影響される筈なのだと。
「——と、そういうわけで。キルケーさんにも伝えてありますけど、結局は俺の推測……仮定の話でしかないかもしれません。
それに……この世界を救うと言っても、直接ふたりに良いことが訪れるとも限りませんから。凄く身勝手な、外野からの引っ掻き回しになっちゃう可能性もあります。
でも……俺はあのマーリンさんを、あのまま放っておきたくないと思いました」
嫌な顔をされると思った。
そんなのありえない、ふざけるな、と。
彼女達にとって、あの紅蓮の魔女という存在は仇なのだ。
それまでの自分の生活の——居場所の、人々の。平穏の敵。許し難い暴力という、分かりやすい悪。
けれど、ヘカーテさんは難しい顔をしながらも、僕の言葉を最後まで聞いてくれた。
「…………その……こんなこと、俺が言うのもなんですけど。正直、キルケーさんが受け入れてくれたことが凄く意外で……もっと反発されると言うか……最悪、俺とミラちゃんだけでやる羽目になるかな……とか、考えてましたけど……」
「…………そうね。今の話、本音で答えるなら今すぐ蹴っ飛ばしてやりたいと思ってるわ。でも、それは私よりキルケーの方がずっと強い筈。
アイツに対する恨みや憎しみ……アイツに奪われたものは、私よりもずっと多いんだから」
だから、怒るのも呆れるのも、否定するのもそれを聞いてからにしようと思ったの。と、ヘカーテさんはキルケーさんの手を握ってそう言った。
自分よりも腹に据えかねているキルケーさんが我慢してでも付き合おうというつもりなら、自分だって歯を食いしばって戦う覚悟だ、と。どうやらそう言いたいらしい。
けれど、そんな真面目な顔のヘカーテさんとは対照的に、キルケーさんはちょっとだけ百合んだ…………おっとっと、ごほん。緩んだ笑顔でヘカーテさんにくっ付いた。でへ、かわいい……
「あたしは……ううん、許せてはないよ。でも……どうしても憎くて仕方がない……って、そう思い続けるのが難しくなっちゃって。ミラちゃんと喧嘩した時……かな。ちょっとだけ、違うんだ……って、そう思って……」
違う……? ヘカーテさんはぐいぐいと顔を近付けるキルケーさんを押し返して、そしてやっぱり真面目な顔で首を傾げる。
だというのに、キルケーさんはまだゆるゆるな笑みを浮かべて彼女の肩に頭を乗せた。
どうやら……なんて言葉も必要無いよね。この再会を誰より喜んでいるだけ、当たり前のことだもの。
「えっとね……うーん、なんて言うんだろう。ミラちゃんがね、すっごく寂しそうな顔で呼ぶんだよ。マーリン様……って。
アギトもそう。ふたりとも、すっごくしょんぼりした顔で……でも、優しい声でその名前を口にする。
あたしは……紅蓮の魔女とか、ドロシーとか、アイツとか。
結局、何も知らないままそう呼んでた。みんながそう呼んでたから、今まで戦ってたから。
でも……それはダメだと思った。ミラちゃんのことを知らなくて、でも仲良しになって。だけど……知らないから、喧嘩になった」
だから、まずは知らないとダメだと思った。キルケーさんはゆるい顔のまま随分と真剣にそう答えてくれた。
あの時、キルケーさんは本当にミラが——僕達が信じられないって顔をしてた。
僕の思い込みじゃなければ、本気で僕達と敵対するつもりだっただろう。
けれど……結局ミラは失神してしまって、そのあまりの痛々しさに同情したってのもあったのかもしれない。
でも、どうあれまた歩み寄る道を選んだ。選んでくれたんだ。
偶然と言うにも出来過ぎなくらい、毎度毎度出会いに恵まれてるよな。
「……マーリンって呼んだらね、頷いてくれたんだ。
紅蓮の魔女じゃない、アイツでもない。マーリンは、あたしの言葉に耳を傾けてくれた。
話をしようと——仲良くなろうとしてくれた。
ヘカーテ、間違ってたのはあたし達だったんだよ。だってあたし達は何も知らなかった、知らないのに勝手に怒って、勝手に敵だって睨み付けて。あたし達は、きっと——」
「————キルケー」
ぴりっと空気が一瞬だけ凍りついて、そしてキルケーさんは表情を硬くした。
理由は……明白、ヘカーテさんが苦い顔で俯いてるからだ。
嫌な話をされたから……もっともっと真っ直ぐな言い方をするなら……
「……でも、アイツは殺そうとした。キルケー、貴女を。貴女だけじゃない。アギトも、ミラも。みんなを殺そうとしていた。私が見たのは、今までと何も変わらない紅蓮の魔女の姿だけよ」
「……っ。そう……だけど…………っ」
大切な友達が、よりにもよってその本人を殺そうとした相手を許すような発言をしたからだ。
ああ……それには僕も覚えがある。その言葉は、他の何よりも許せないものに感じるんだ。
レイガスという名をあの人が口にする度に——ミラがアイツに善性を見出したみたいなことを言う度に、お腹の中身が全部沸騰するくらいの怒りがこみ上げたんだ。
だけど……
「…………ヘカーテさんの言う通りです。俺達は、ヘカーテさんに助けられなかったら殺されてたかもしれない。いや、その可能性の方が高かった」
「っ! アギト! そういうこと言っちゃダメだよ! だって……だって、アギトにとってマーリンは…………」
大切な人だ。そう、僕にとってもミラにとっても、マーリンさんは代え難い人なんだ。
けれど……それとこれとは話が違う。
ああもう……ちくしょう……っ。まさか——まさか、あんな奴の席にマーリンさんを座らせて話をしなくちゃならないなんて……っ。
「キルケーさんだってそう言って怒った。ヘカーテさんが殺されたかもしれない、って。それに、自分の生まれ育った村の人達を殺されたって。
それは……その怒りや憎しみは、知らないまま勝手に向けた感情じゃない」
「それは——っ。そう……だけど……っ。それでも、あたしはもっとちゃんと知ってから——」
——みんながそう出来るわけじゃないんだ——っ。ちょっとだけ怒鳴ってしまったのは、あの時のことを思い出したからだろうか。
そういう考え方が出来る誇らしい妹を——いつまでもネチネチと恨みっぽく考えるしか出来ない情けない自分を思い出したからだろうか。
けれど……それはなんでも良かった。
その答えを……幸いと言うかなんと言うか、渦中の人物であるあのマーリンさん本人から聞いているからさ。
「……ヘカーテさんはそれが許せない……って、そう答えるかもしれない。それも正解なんだ……って、俺はそう習いました。
許せないことは悪いことじゃない、許さないって正義の形もある。そう習って……その言葉を信じて生きてきました。だから……えっと……」
もうちょっとだけゆったり悩みませんか? と。そして、僕はあの時言われた言葉をそのままふたりに伝える。
優しさに悩んでいるうちは、ふたりとも絶対にお互いの力になろうとしますから。受け売りの言葉で申し訳ないけど、残念ながら僕自身はイマイチ乗り越えられてないので……
「……別に、何がなんでも反対……なんてつもりもないわ。ただ、どうしてキルケーがアイツを許すつもりになったのかが気になっただけ。
さっきも言った通り、私の許す許さないよりも、貴女の傷の方がずっと重たいんだから」
「…………ヘカーテ……っ。えっとね、えっとね……まずね、ミラちゃんがね……」
一度落ち着いて、纏めてから説明して頂戴。と、ヘカーテさんはキルケーさんを優しく撫で回してそう言った。まるで姉妹…………飼い主とペットのようだ。
おや、もしかして…………もしかして、結構アブノーマルな感じです?
主従的な、サとマ的な。そういうちょっと業深めな百合な感じです⁈ ごほん。
どちらかと言うと、かつての僕とミラに近いんだろうか。
基本的には対等、だけど甘える甘えられるの関係が根っこに存在する。
対等だからこそ容赦無く甘えるし、どんな時でも甘えさせてやりたくなる。
分かる。その気持ち、よーく分かる。
「……ところで、その肝心のミラが起きてないけど。アギト……その、本当に大丈夫……よね?」
「え、ええ……息もしてるし、脈だってある。起きないのは……」
なんで……? いや、普段を思えば当然とも言えるんだけど。
でも、もしこれがいつもの寝坊助じゃないとしたら…………考えられるのは、睡眠不足や栄養失調——記憶を失って以降のコイツに付き纏っている問題だろうか。
キルケーさんとは打ち解けてて、すっかりぐっすり眠れるようになった……てのが僕の勘違いで、実は寝たふりで周囲を警戒していた……とか。
ご飯だって、昔を思えば食べてないと言っても過言でない程度しか食べられてない。
あとは……なんだかんだメンタル的な面での疲労か。
マーリンさんと仲良くするって作戦だけど、結局敵対心を向けられるかもしれないことに変わりはないのだし。と言うか、実際向けられちゃったし……
「……ミラちゃんにとって、マーリンさんは家族……親、姉妹みたいなものですから。その……ちょっと複雑な家庭事情があって、尚更そういう絆を恋しがってる節もありまして……」
「……心的疲労……ね。こんなに小さいんだもの、無理も無いわよね。これが病気や怪我で起きないんじゃないとしたら、今はゆっくりさせてあげるのが良いのかしら」
その小さいっての、物理的に小さいって意味だよね……? 幼い的な意味での小さいじゃないよね……? いえ、幼い的な意味でも小さいですが。
一応……もう十七歳になるお年頃の娘なので、あんまり子供扱いはしないであげてね。いえ、子供みたいなことばっかりしてますけど。
「さて……とりあえずおおよそは掴めたわ。あとは…………はぁ…………なんとか飲み込むから、話はもうちょっとだけ待ってて……」
「あ、あはは……分かりました……」
なんだってそんな顔で……と、ヘカーテさんはまたニコニコ笑顔に戻ったキルケーさんの耳を引っ張って、そして大きなため息をついて頭を抱えてしまった。
敵対はやめる。しかしまだ攻撃される恐れはある……と言うか、相変わらずマックスに近い。
でも、こちらからは反撃しない。
とにかく友好的に接して、そして紅蓮の魔女の中の空白に、マーリンさんらしい寂しがりで人懐っこい人格を書き込む。
きっとよく馴染む筈だから、上手くいかないとは思わないけど……僕ですら不安だからなぁ。
きっと出来る! 大丈夫だよ! と、追い打ちみたいな励ましを繰り返すキルケーさんと、それを受けて更に項垂れるヘカーテさんの姿に、僕はちょっとだけ……いいや。物凄く大きな勇気を貰った気がした。




