第七十七話
ひどい砂埃と地響きで、僕の視覚と聴覚は一瞬完全に機能を失ってしまった。やっとの思いで目を開けると、そこには地面に牙を突き立てている特大の大蛇の頭と——
————それは、僕の希望的観測による勘違いだったのかもしれない。僕はきっと、彼女が——蛇と対峙する少女の姿が目に映る、と。楽観的に過ぎたのかもしれないと背筋が凍る。そして何よりも先に足が前に出た。
「ミラーーーッ‼︎ まさか……まさか呑み……」
「——込まれて無いわよっ‼︎ 動くなって言ってんでしょ‼︎」
声は頭上、さっきまで覆い隠されていた太陽を背に抱いて、空中で蛇を睨む少女のものだった。そして僕は、彼女が頻りに僕の立ち位置にうるさくしていた理由を発見する。
「……太陽が……っ⁉︎」
「…………こ、こんな事がありえるだか……?」
太陽が十つ。いや、違う。アレは……
「————九頭の柳雷——ッ‼︎」
十の内の九つ。それは神話に出てくる蛇の化け物の様に、長く伸びる九つの首を持った竜の様な瞬きだった。彼女の言霊はその明滅をより一層加速させ、やがてその大口を地を這うだけの蛇に向け————
「——ッ——————トッ————ギ——アギト——ッ‼︎」
まるで目覚めの様な再会だった。意識が飛んでいたのか、はたまた感覚全てが麻痺してしまっていたのか。僕は……いや、僕とランバさんはミラの放った特大の魔術の影響から解放された。
「まったく……動くなって言ってんのに。ほら、顔拭いて」
「…………次からは事前に言っておいて貰えると助かる」
彼女に手渡されたタオルで顔を拭うと……成る程、余程の大災害が起こったのだろう。真っ白だったソレは一瞬で黒か茶色か分からないほどに汚れ、砂つぶで引っ掻いたのか頰がヒリヒリする。しかしアレだけの魔術を行使して……
「さ、あとは頼んだわ……」
「……節約はどうしたんだよ……まったく」
やはり、その場にへたり込んでしまった。ランバさんも遅れて事態に気付いた様で、慌てて僕らの元へ駆け寄って——
「にッ……逃げろ坊主ッ‼︎」
逃げろ……? というのは一体何から……? あの超ド級の雷に飲まれては、いくらあんなサイズの大蛇とはいえ生きていられる筈が無い。というか、確かにソレは彼の背後に臥して……っ⁉︎
「ちょっ……ちょっ⁉︎ なんだそれ⁉︎ なんだその小さいの⁉︎」
「魔蛇の子供だでよ‼︎ 早よ嬢ちゃん連れて逃げろ‼︎」
まるで波の様にそれらはやって来た。実物を見たことがあるわけではないが、マムシ程度の——日常生活の中でなら酷く驚いたかもしれない程度の大きさの蛇の群れが大挙して押し寄せる。まさか彼女が吹き飛ばした地面の中に巣があって、僕らを追い払うべき外敵として……っ!
「そんな場合じゃない! ミラッ! しっかり掴まってろ‼︎」
「急げっ! アレに噛まれると……っ!」
おぶったりする時間も無く、僕は急いで彼女を抱き上げて走り出した。アレに噛まれるとなんだ⁉︎ 毒か⁉︎ 即死レベルの猛毒を持っているとかそんな……
「……アギトッ! 足元!」
「なっ⁉︎ いつの間にっ‼︎」
さっきの超大型魔蛇とミラの怪獣大決戦によって荒れ果てて走りにくい地面に苦戦していると、信じられない速度でそれは僕の足元へと這い出でた。マズい……っ! こいつに噛まれたら僕も……僕が倒れたらミラも……っ‼︎
「くっ……そぉっ‼︎ ランバさん!」
一か八か。僕はミラを男の方へ投げ渡した。さっき投げ飛ばされた借りだ。随分軽くて投げやすかったよ。サヨナラだ、ミラ。お前との旅、短い間だったけど楽しかっ——
「——そいつに噛まれるとめっっっっっっっちゃ痛いだッ‼︎ 早く走れ‼︎」
「…………は?」
成る程、そういう事か。顎の力もさることながら、きっと牙の形状が独特なんだろう。そして何よりその牙の特異性。まるで蜂の針の様に、獲物に食い込むと口から抜けて患部に残ってしまう。そして…………
「——いっっっっっっっっっっっ⁉︎」
僕らは無事に帰還した。そして、そこら中に魔蛇の牙をプレゼントされた僕は、ミラとランバさんの付き添いの元、今病院で大手術を受けている。
「……だ、大丈夫?」
「いつつ……見てるだけで痛えよ。それ抜くときが本当に痛えんだ。それはもう地獄の様に」
極太の釣り針の様に食い込んだ牙を、一本一本丁寧に引っこ抜かれる痛み。なるほど、彼があんな必死の形相で逃げるのも頷ける。それはそれとして……
「いっっっっ⁉︎ せんせっっっ⁉︎ 先生ッ! もっと優しいいいいっっっっっ‼︎」
いっそ殺せよ! 毒よりタチ悪いよ! ミラの鉄拳など可愛く思える程の鋭い痛みが全身を次々と襲う。ここまで来ると蛇の牙がどうのより先生の腕を疑い始めてしまう。例えるならそう…………例が浮かばねえよ! こんな痛み日常生活で体感してたまるかッ‼︎
「…………ごめん、アギト。私が無茶したばっかりに……」
「……いいよ、とはとても言い難い痛さ。これは何かしらで償って貰うからな……」
別に彼女を恨むつもりも無いが、しゅんとしてしまった彼女にかける言葉も持っていない。なら……と、彼女がいつかしてくれた様に彼女を許さない事にする。眉を顰めたまま笑う彼女に、僕は色々冗談を言うくらいのコミュニケーション能力は身についていた様だ。
「……分かった。なんだって聞いたげる。どーんときなさい」
「…………ほう。なんだって、とな?」
きっと彼女はこう……なんだ。意識しての発言では無いのだろうとは思うのだが、うむ。どうしても邪な考えが浮かんでしまうのは僕の……悪いところ? 実は良いところ? ともかく少しだけでも元気になった彼女に胸をなでおろす。さて……撫で下ろしたところで……
「〜〜〜〜〜〜〜ッ‼︎ いっっっってええええッッ‼︎」
僕は刺抜きならぬ牙抜きを再開した。ランバさんは途中、顔を真っ青にして退出してしまった。彼は以前に噛まれた経験があるのだろう。そう考えるとあの大男ですら怯えるあの小さな蛇に、特大サイズの親蛇への恐怖を超えるトラウマを植え付けられた気分だった。いえ、植え付けられたのは牙なんですけどね。
ゆっくりじっくり丁寧に、牙抜きを終えてみればすっかり夜になっていた。クエスト中の怪我や病気に対しての治療費は負担して貰えるらしく、僕が生きていた事以上にミラがそれに喜ぶというとても遺憾なイベントも終え……
「……まさか同じ部屋にもう一泊とは」
「出発は明朝。たんまり稼いだし、お金の心配は当分しなくて良さそうね」
僕らは今朝目覚めたばかりの部屋にまた戻って来ていた。しばらくは路銀稼ぎに費やすつもりであったが、やはりというか当然というか。あの親玉蛇のお陰で報奨金が跳ね上がったそうな。具体的には、僕が見たことも無い細かいレリーフの入った随分高価そうな金貨をジャラジャラ鳴らせるほどに。
「ほら、アギトそっち向いて。はやくはやく」
「もう隠す気もないな……はいはい、分かった分かった」
布団を敷くなり彼女は定位置の解放をせがんできた。というか、それについては察しがついていた。だって貴女……自分の分のお布団敷いてないもんね。意地を感じますよね。
「……アギト。ただ…………」
「……ただ?」
なにか言いかけて彼女は口を閉ざしてしまった。ただ……? より高いものはないぞ? 今からでも抱き枕手当の支給を考えてくださる?
「……なんでもない。アンタ消毒液臭いわよ。よく眠れなかったらどうするのよ」
「…………お前なら消毒液臭かろうと血生臭かろうと快眠だよ。ほら、もう寝るぞ」
トラウマになり掛けているのを知ってか知らずか。いや、絶対に確信犯だ。僕は首元に新しい噛まれ傷を作って眠りについた。明日は朝早いのか……じゃあ……
すっかり慣れた切り替わりの朝を迎えた。今日は……えーと。そう、バイトがある。明日には待ちに待ったオフ会もある。さて、じゃあもう起きよう。時刻は午前六時。明日の晩は早くに眠らないとな。そんな事を考えながらの秋人の二日が今日も始まる。