第百四十一話【逢瀬】
時限式の魔具とやらが出来上がったのは、その日の夕方だった。
出来上がったならこの勢いのまま……と、そうするのかなって思ってたのに、ミラは意外と冷静に、一晩置いて穴が無いか確認してからにしましょう。なんてことを言い出した。
意外も意外、猪突猛進が信条だったと思っていたのだが。
それとは別に、日暮れの間際に見つかってしまうと、その日は安心して眠れなさそうだと考えたのだろうか。
もしそうなら…………よくぞ踏み留まってくれた…………っ。
「すぴー…………むにゃむにゃ……」
そして迎えた、作戦実行の朝。
緊張で全然眠れなかった僕を他所に、ミラとキルケーさんはベッタリくっ付いてすやすや眠っている。
なんと言うか…………暖かそうで良いね、そっちは。
こっちは肌寒さと寒気と悪寒が…………ぶるぶる。
緊張って文字は、このふたりの辞書に存在しないのだろうか。
緩みきった顔と穏やかな寝息に、一周回って苛立ちさえ覚えた。
「……はあ。顔洗ってこよう……」
ミラはすごく可愛い。僕の自慢の妹だ。
人に甘える、甘やかして貰うことに全力で、あざといくらいに愛くるしい。それはもう常識。
キルケーさんも…………すっごく可愛い。
すっごく…………こう…………可愛いとか言ってられないくらい……ね。デカイけど、でも子供みたいな振る舞いとのギャップが良い。
そんなふたりがすりすりむぎゅーで仲良く眠っているのだ。何をイライラすることがあるんだろう。
答えは…………すっごく簡単で、僕がそれを羨ましいと思ってしまったからだ。
その日の寝床に選んだ洞窟から少し歩いた先にある川で顔を洗って、僕はそのイライラの元をなんとか鎮めようとする。
焦り…………なんだろうな。
ミラは——本当だったらアイツは、ああやって僕に甘えてる筈だった。
僕が……僕だけが、アイツの隣に居られる筈だった。
ミラの隣に居たい。
また一緒に勇者として頑張りたい。
そういう前向きな願望だった筈のモチベーションは、時間の経過と共にネガティブな嫉妬へと変わってしまっていた。
やっぱり、僕は雑魚メンタルなんだな……と、そんな弱気も纏めて洗い流すように、痺れるくらい冷たい川の水で顔を洗う。
「ぶはっ……ひー……ぶるぶる。目は覚めるけど…………か、風邪引きそうだ……」
悪い考えも、嫌な気分も、何も簡単には流れてくれなかった。
でも、気合が入れば別の感情で上書き出来るから。
誤魔化せれば、もう今のミラはそういうとこを詮索してこないだろうから。
距離が離れたことがさみしいと思いつつ、それを好都合と思ってしまうのもどうなのだろうか。
いかん……冷静になったつもりがまだ余計な雑念を…………よ、よし。もう一回……今度は顔を水の中に突っ込むくらいの勢いで…………
「——?」
——バタタタっ——と、近くで激しい音がした。
何かを叩いたような、凄く早いテンポの音だった。
そして……それがあまり良いものではないと、今までに耳にしたいろんな音の中からそれの候補を絞り出す。
それは——鳥の羽ばたきの音だった。
「——フィーネ…………っ!」
ゆっくり顔を上げれば、川を挟んだ向こう岸の木に、見覚えのある銀色のフクロウの姿があった。
じっとこちらを見つめていて、威嚇するでも逃げるでもなく、ただ僕の様子を観察しているみたいだった。
ミラが言うには、紅蓮の魔女——あのマーリンさんとフィーネとの間には、確固たる上下関係が築かれているだろう、と。
だから、フィーネが僕達をあの人にとって危険な存在だと認識しない限りは、二羽のフクロウに見つかっても平気だろう、と。
成る程、確かに獲物を見つけたと報告しに戻る気配は無い。無い……けど……
「…………なあ、フィーネ。マーリンさん、どうしちゃったんだよ……っ。ザックも、お前も……あの人が変なことは分かる筈だろ……? だって……」
せがむような僕の言葉なんて無視して、フィーネは興味を失ったかみたいに他所を向いてしまった。
それなりに傷付いた……けど、ちょっとだけ安心した。
やっぱり、フィーネは僕達のことをそう危険視していないみたいだ。
ミラの作戦は機能する。これなら、憂い無くヘカーテさんを探しに行ける。
まだ寝てるだろうミラにそれを報告しようと、フィーネを刺激しないようにゆっくりと立ち上がって——そして————
「——っ‼︎ しま——っ」
——振り返った先でその人と目が合った。合ってしまった。
飛んで来た音も無かった、足音さえも無かった。
つまり、ずっとここにいたのだ。
銀色の髪、瑠璃色の瞳。そして銀の双翼を小さく畳んで、マーリンさんが僕のことをじっと見つめていた。
「——っ……マーリン……さん…………っ」
——ミラ——っ。と、心の中で助けを求める。
けれど…………っ。
それじゃ相手が違う、僕がアイツを守ってやらないといけないのに。
今回ばかりは、アイツじゃ絶対に敵わない相手なのに……っ。
どうやらフィーネが僕から目を逸らしたのは、もう見張っていなくても平気そうだから……だったみたいだ。
すぐに攻撃しようという意思は感じなかったが、マーリンさんが僕から意識を逸らす気配も無い。
虫が鳴いても、鳥が羽ばたいても、魚が跳ねても。どんな音がしても、僕から目を離さないでいた。
ダメ——なのか——?
幸い、結界陣は持っている。けれど……っ。
それが機能する保証はもう無い。
ミラ曰く、もうあの結界には対策を立てている頃だろう……と。
アトランダムに選び出された対策がガッチリ噛み合った瞬間が、僕の最後の時だ。
それに……っ。そもそも、この結界での脱出はキルケーさんとミラありきのもの。
僕がひとりで逃げ出したとしても、着地も出来ずにそのまま墜落死してしまうだろう。
「————っ——ぅぁ……っ」
段々と心拍の音ばかりが大きくなって、視界の端が暗くなり始める。
緊張感に身体の機能が失われ始めているんだ。
目も耳もその人に対する恐怖心ばかりを捉え始めて、見るべきもの、聞くべきものを逃してしまっている。
でも……そんな無防備な僕を前に、マーリンさんは何もせず…………ただじっと——じっと、静かに見つめるだけだった。
ホロ。と、小さな鳴き声が聞こえて、そしてその羽ばたきが——小さくとも力強い羽ばたきがすぐ側で聞こえて。
そうしてやっと、僕の意識がマーリンさんから世界へと向けられた。
僕の足下に降り立ったのはフィーネで、そう歩きやすいわけでもないだろう雑草だらけの地面を走って、あの人の元へと向かって行くのが見えた。
マーリンさんは……紅蓮の魔女は、それでも僕をじっと見つめて…………
「…………マーリン……さん……?」
ばたばたとフィーネは飛び上がって、そしてマーリンさんの肩に乗った。
殆ど布一枚の薄い服の上から、その力強い指と爪が肌に食い込むのが見えた。
それでも……マーリンさんは顔色ひとつ変えず、じっと僕を…………?
「…………貴女じゃない……んですか……? もしかして……貴女は…………」
——もしかして——と、僕は確証も無いままそれを口にした。
そして……迂闊にも一歩だけ踏み出してしまった。
すると、圧倒的強者の筈のマーリンさんは、まるで怯えた小鳥のように身体を縮こまらせ、そして力強く羽ばたいて逃げて行ってしまった。
「——っ。マーリンさん——っ!」
僕はひとつの確証を得た。
あれは、紅蓮の魔女ではない。
全く別の存在——ふたつの肉体が存在するのかどうかは分からないが——少なくとも、あれは人々を滅ぼしたという紅蓮の魔女ではない。
僕達を攻撃してきたあの人ではない、また別のマーリンさんなんだ。
そう……あの時亡くなったと思っていた、凄く穏やかな顔をした————
「——アギトさん——っ!」
あの人が飛び去った後をじっと眺めていると、すぐに背後から声が聞こえた。
声色はすっかり怯えきっていて、呼び声というよりも絶叫に近かった。
けれど……そんなミラの心配も出来ずに、僕はあの人の背中を——もう見えないその姿を目で追ってしまった。
「アギトさんっ! 今の——っ。無事ですかっ⁉︎ 今……マーリン様が…………っ」
「……うん、大丈夫。大丈夫だけど…………いいや。大丈夫かもしれない」
アギト……? と、ミラから少し遅れてやってきたキルケーさんは、凄く不思議そうな——そして、不安そうな顔で首を傾げた。ミラもそれは同じだった。
そうだ、大丈夫かもしれない。僕達はまだ、この世界を——
「…………聞いて欲しい。俺が見たもの、感じたこと。まだ……まだ、この世界は救いの余地を残しているかもしれない。あの人は——マーリンさんと紅蓮の魔女は、もしかしたら違う存在なのかもしれない」
僕の発言に、ミラはきゅっと唇を噛んで俯いてしまった。
同じことをかつて考え、そして信じ込み……失敗して、窮地に陥った。
そういう苦い経験から、ミラは勘違いをしてしまっているのだろう。
この人もまた、マーリンさんへの情と敬愛で混乱してしまったのだろう、と。
キルケーさんは……やっぱり困った顔で、何を言ってるのか分からないって態度だった。
「仮説だよ。あくまでも、俺の仮説。紅蓮の魔女——あの苛烈な魔女は、実際に存在する。僕達はそれに対処しながらヘカーテさんを探さなくちゃならない。でも……っ。
それとは別に、やっぱりいるんだ。あの時、動物に囲まれて亡くなったと思ってたあの人が——穏やかな人格が、マーリンさんが。
二重人格なのか、それとも本当にふたりいるのかは分からない。でも……」
絶対に、あの人はふたりいる。と、僕はそう断言した。
僕の感覚と、そして状況証拠——僕がここに死んでいないというだけで、強い根拠は他に無い。
でも……でも、そうなんだ。
少なくとも、あの人にはふたつの人格……性質が存在する。
そしてそれは……きっと、この世界の滅びに関与するものだ。
この世界を滅ぼすかもしれない紅蓮の魔女を、穏やかで優しいマーリンさんに戻してあげられるかもしれないってことなのだ——




