第百三十一話【そこにはいないけど】
「——アギト——さん……?」
つい、手が出てしまった。
ああ、いつかもこんなことがあったっけ。
手のひらが熱い。
出来るだけ優しく、痛くないように叩いたつもりだったけど……痛くて痛くて、僕の手のひらが熱くて……っ。
最低な気分だ。僕はまだ、こんなやり方しか持ってなかったなんて。でも……
「……ミラちゃん。それ以上はいけない。しっかりしなさい、ミラ=ハークス」
僕は彼女の名を呼ぼう。それしか……そんな方法しか、僕の手の中には残されていないのだから。
抱き締めてやることも、撫でてやることも。一緒にご飯を食べて、一緒に眠って、目が覚めたら髪を梳かしてやって。そんな日々はもう遠い、そんな触れ合いは僕に許されていない。
この少女の家族として培った時間の殆どを失ってしまったならば——せめて、その半身として——勇者としてのやり方で示してやろう。
そう思ったのは、きっとこいつが…………
「……ふー。いい? ミラちゃん。俺達はここに——この世界に、救済を目的としてやって来ている。ただ遊びに来ているのでも、ましてや何かを求めて来ているわけでもない。
求められて、無為に終わるかもしれない戦いをしにやって来ている」
ミラは目を丸くして…………けれど、どこにも驚いた様子は無かった。
怒られることは織り込み済み、けれどまさか叩くとは意外だった。そんな程度のリアクション。
でも……少なくとも、もうキルケーさんを睨み付けていない。
もう——ここにいない筈の——どこにも無い筈の愛情なんて見ていなかった。
「それは、俺達の大事な世界を守る為。当然、なんの見返りも無しじゃやってられないからね。そういう目的だってちゃんとある。
けど……その本質は、ちょっとだけ違うんだ。ううん……俺が言わなくっても、ミラちゃんはよく知ってるし、よく分かってる」
アギトさん……? と、ミラは首を傾げた。ま、まさか……僕、また泣いたり…………は、してないか。
じゃあ……まさかこんな真面目な話が出来る男だとは思わなかった……かな。まったく、なんて失礼なやつだ。
うん……失礼なやつだよ。
そうだよ。だってお前は、僕のことなんて一度も見ていなかった。
ずっとずっと——後ろばかり見てて、アギトという存在をしっかりと意識しなかった。
だから……頼りなさばかりが目に付いてしまってたんだろう。
それも事実だけど、今はよくて。
「——俺達は、マーリンさんに言われてここに来ている。これは——世界の救済は、あの人の望みだ、願望だ。そして、あの人からのお願いだ。
何より——それは、星見の巫女として——世界を救った救国の天使としての、あの方の命令だ——」
少しだけ語気が荒くなってしまって、ミラはちょっとだけ怯えた表情を見せた。
でも、別に僕が怖いなんてことはないんだろうな。
とっくに分かってることだから、言われる前に答えが見えてしまう。
そう、お前はとっくに——ずっとずっとそう考えて、あの人の為にって頑張ろうとしてた。
マーリンさんの為に——って。
「そう望むのなら、寄り添って見届けてあげなくちゃいけない。そう願われたなら、どうあっても叶えてあげなくちゃいけない。そう下されたのなら——俺達は決してそれに背いてはいけない。
俺はあの人の弟子だ。一時は家族も同然のように——いいや、あの人はまだそう扱ってくれる。
なら、俺はあの人の期待になんとしても応えたい。それはミラちゃんだってそうだよね」
ミラはきゅっと唇を噛んで、そして小さく頷いた。
はあ。お前、また子供みたいになっちゃってるな。
もっともっと——もうちょっとだけ、大人な対応が出来るようになってた筈なのに。
それが出来なくなったのは、もう余裕なんてどこにも無いから……なんだろうな。
「——だから、俺はどんな事情だろうと飲み込んで世界を救う。あの人に笑っていて貰う為に、あの人に喜んで貰う為に。どんな障害だろうと乗り越える、そういう覚悟を俺達はここへ持って来てる筈だ」
ミラは何も言わない。言う必要が無い……って、そう思ってるのは僕だけで、ミラはただ何も言えなくなって黙ってるだけ。
何も言わなくったって僕には分かる、痛い程に。
ずっと隣で見てて、ずっと隣で同じことを考えて旅をしてたんだから。
だから……このバカミラ。僕だってこんなこと、言いたくないし考えたくもなかったんだぞ?
「——勇者としてあるべき姿を見せる。それだけが、君に許されたわがままだ。個人の感情でそれを見失ってはいけない。
しっかりしろ、ミラ=ハークス。お前は、星見の巫女の顔に泥を塗るつもりか。
君が気にすべきことは、その行いが勇者然としたものかどうかだけ。
相手がなんであれ——たとえ、マーリンさんであったとしても、踏み越えて目的を果たさなくちゃならない」
分かるよね。なんて、意地悪なことを言ってしまった。
でも、ミラはやっぱりうんともすんとも言わない。
ただ小さく頷くばかりで、やっぱり萎縮した子供みたいに見えてしまった。はあ……このバカミラ。
「戦うべき相手は、キルケーさんじゃない。君は、在り方を違えてしまったあのマーリンさんにこそ救いの手を差し伸べるべきだった。
間違っていると、正してあげるべきだった。
それが出来なかったことを悔やみこそすれ、他の人に苛立ちを向けるなんてあっちゃいけない。だから……」
だから……なんなんだろうね。
こんな筈じゃなかったのに。
お前にこんなお説教みたいなことする為にここへ来たわけじゃないのに。
こんなことしたくて生き返りたいって願ったわけじゃなかったのに。
けれど……相応の効果はあったみたいで、ミラは俯いたままでも意識をキルケーさんへと向けた。
もう、睨み付けるような真似はしないだろう。うん、それでいい。これで……
「…………っ。ごめん……ごめんな……ミラ……」
これで……いいのだ……っ。
僕は路端の石で構わない、たまたま視界に入った鬱陶しいもので結構だ。
それで……それでお前が壊れずに済むなら、幾ら嫌われても構わない。無関心になられても、どうなったっていいんだ。
ただ、勇者がそれで真っ直ぐ歩けるなら……
「……キルケー。その……」
「————謝らなくていいよ——」
もじもじと口開こうとしたミラを、キルケーさんは冷たく突き放した。
それは…………それも、また当然の反応か。
彼女の冷たい態度に、厳しい言葉に。ミラは肩をすぼめて、そして押し黙ってしまった。
「……謝らなくていい。ミラちゃんは間違ってない、間違ってなかった。
知ってる人——凄く大切な人にそっくりだって、そういう話だった。なら……その人が死んじゃったら、やっぱり悲しいと思う。
それを連想させる出来事があったら、泣いちゃってもおかしくないと思う。
だから、謝らなくてもいい。だけど——」
————あたしも間違ってるとは思わない————。キルケーさんが選んだのは、徹底抗戦の構えだった。
強く言い放たれた言葉に、ミラはゆっくりと顔を上げる。
そしてその先で、真っ直ぐに自分を睨み付ける彼女の姿を見つけることだろう。
本当に短い期間に打ち解けて、すっかり心を許していた相手だ。
そんなキルケーさんが、紛れもなく自分と対峙する道を選んだ。
そのことをすぐに知って、そしてやはり寂しがるのだろう。
「——あたしは間違ってない。アイツは許せない、許しちゃいけない。アイツはあたしの友達をいっぱい殺した。アイツはあたしの大切な友達を殺した。
アイツは……あたしから何もかも奪って行ったんだ。だから、あたしはアイツを許さない」
「……キルケー……」
でも。と、キルケーさんは目を伏せた。
ああ……なんだろう。僕はその感情を——感情に飲まれる様を、よーく知っている気がする。
それが咎められるものではないと、そう教えて貰った気がする。
許せないことは悪じゃない。許すことばかりが善じゃない。
許さないという正義の形もあるんだって、教えてくれたのはやっぱりマーリンさんだったっけ。
「ミラちゃんは間違ってない。あたしも間違いじゃない。でも、それでいい。だって、あたし達はまだ出会って数日しか経ってない。なんでもかんでも分かり合えないし、同じ方を向き続けるなんて出来っこない」
キルケーさんは険しい顔のまま、けれどどこか寂しそうに——悲しそうに、ミラをじっと見つめていた。
もう、睨み付けるのはやめたみたいだ。
ゆっくりと近寄って、怯えるミラの頭に手を伸ばす。
ぽんぽんと優しく撫でて、そして……ぎこちなく笑った。
「——だから、謝らない。謝らせない。それでも、お互いに目的がまだあるから。
あたしは絶対にヘカーテを探し出す。そして、まだ生きている人を——町や村を見つけて、楽しく暮らす。
ミラちゃんは……この世界を……救う……? よく分からないけど、さっきアギトが言ってた目的があるよね。
それはきっと——たまたまでも、ふたつとも同じ方を向いたものの筈だから」
だから、もうちょっとだけ一緒にいよう。と、キルケーさんはそう言って、震えるミラをぎゅっと抱き締めた。
つくづく思う。僕達は——ううん。ミラは、いつも出会いに恵まれている。
手本にすべき立派な人を大勢見つけてきた。
今回は……ちょっと子供っぽいけど、今の子供になっちゃってるミラには良い塩梅だろう。
わがままの通し方を見せてくれる人に出会えたんだ。
嬉しそうに頬を寄せるキルケーさんの姿に、僕は勝手ながらそんなことを思ってしまった。
「——っ。キルケー……キルケーっ!」
「えへへ。よしよし、ミラちゃん」
ぎゅっと抱き締められて、頭を撫でられて。頬を寄せられて、笑い掛けられて。さっきまで強張っていたミラの表情はみるみるうちに解れて、そして涙を浮かべながらその人の名を呼んだ。
そうだよ、そうなんだ。ミラは愛され上手だから。
マーリンさんしかいないって、お前は自分に自信が無いから——自分が偽物だなんてまた考えちゃってるだろうから、そんな風に自分を縛ってしまってるけど。
「…………これで……うん」
ミラには大勢の仲間がいる、友達がいる。
キルケーさんがやってくれたこと、本当は僕がやりたかったんだけど……ま、しょうがない。
心を開いてるのは僕よりキルケーさんの方。同性異性の壁はやっぱり高いよ。
それと…………うん。真面目な話をさっきまでしてたのに、仲直りした途端に……このバカミラが。
むぎゅうっと抱き着いて、ミラはキルケーさんの胸の中で嬉しそうに笑っていた。嬉しいなら……まあ、いいか。




