第百二十八話【墜】
僕達はマーリンさんの背後に回り込み、そしてその動向、様子を窺っている…………らしい。
らしい……というのは、僕とキルケーさんにはそれが全く分かってないから出てくる言葉だ。
ミラの視認出来るギリギリの距離から。それが僕達の安全を維持する為に不可欠な、超えちゃいけないライン。
当然、見失ってもいけない。だから……
「……俺達、何か出来ないかな……」
負担は全部ミラひとりにのしかかっている。
申し訳無さと、やっぱり凄い奴だって感動が同時に湧いてくる。
僕もキルケーさんも、そんなミラの為に何かしてあげたい。
してあげたいのだが…………残念ながら、頑張れと応援することさえも雑音にしかなり得ない。
ピリピリと緊張した様子のその小さな背中に、ふたりとも黙って見守ることしか出来ないでいた。
「……移動します。気を付けて、音を立てないように。直接聞こえるということは無いでしょうが、それを聞いて騒いだ獣がいれば……」
「う、うん……静かに……静かに……」
音を立てないようにって意識し過ぎて、キルケーさんはなんだか不審な歩き方になってしまっていた。
他にやること、出来ることが無いから、どうしてもその一点に集中し過ぎてしまう。
そうなると……なんだか変になっちゃうこと、あるよね。意識し過ぎるとかえって出来なくなると言うか。
「……不思議ですね。探し物をしているのならば、当然もっと動き回っていてもおかしくないのに。私達の痕跡を辿っている様子も無ければ、周囲を見回してもいない。ただ……」
ただ、本当にぼうっと歩き回っているだけみたいです。と、ミラはこっちも見ずにそう言った。
ただ歩き回ってるだけ……か。それに意味はあるんだろうか。
例えば……テリトリーの見回りとか。
それともただの散歩だろうか。
何かの気分転換にと、自然豊か…………枯れてるけど、大自然で間違いないから。
そんな景色の中をゆったりのんびりと歩いているだけ……とか。
「目的が無い……ってこと、あるのかな。その……ご飯も殆ど食べない、外敵もいない。寝床はあるのかもしれないけど、それ以外に気にすることが無い。そうなると……探し物なんてのが俺達の勝手な思い込みだとしたら……」
「……ただ、風に任せて巡回するだけ。意思も目的も無く徘徊するだけの、抜け殻のような存在。今の姿は、確かにそう捉えることも出来ますが……」
だとすると、あの攻撃の苛烈さに説明がつきません。ミラはそう言って、そしてまたゆっくりと移動を始めた。
そう……だよなぁ。
意思も目的も無い、ただ外敵が迫ったなら追い払う。
そういうことならある程度納得出来るけど……最初に友好的な態度を見せたミラに対しても、全く容赦無く攻撃してきたんだ。
まあ……いきなり抱き着いてきたから、襲われたと勘違いした……って説は無くもないのかな。
でも、それにしても……
「……俺達だけじゃない。キルケーさんも、ヘカーテさんも。外敵……なんて呼ぶには、正直……」
「うっ……うん、そうだよ……ね。あたし達も、結局逃げるので手一杯。かすり傷ひとつ負わせたことが無いってのが現実だから……」
いったいどれだけ臆病に出来ていれば、こんなにも力に差のある相手を外敵だなんて思えるだろうか。
動くもの全てを攻撃している……のであれば、彼女の通った後には必ずその跡が残るだろう。
当然、獣や虫、鳥に魚と動くものは幾らでもある。
ある程度大きい動物と括るのならば、それこそクマとでも遭遇してるとこを見かけない限りは断言出来ないけど……
「……やっぱり、魔力痕……魔術に反応して攻撃してるのかな……」
でも、それじゃあ魔女ではない人々が攻撃された理由が分からない。
人間側から手を出してしまっていた……って話だとしても、当然逃げるだけの弱い人だっていた筈だ。
そういう人間も含めてみんな滅ぼされたと言うのだから……うーん……
「…………? なんでしょう、あれは……」
「何か見えた? うぐぐ……望遠鏡が欲しい……っ」
ミラは不思議そうな顔をして、そしてなんだか訝しげに首を傾げた。何があったのだろうか。
僕もキルケーさんも揃って目を凝らすのだが…………見えねえよ……っ。本当にお前の目はどうなってるんだ。
「……沼……です。そこで……? なんだか、いっぱい動物が集まってきてて……」
動物? えっと……じゃあ、やっぱり動くものに手当たり次第攻撃してる説は消えるのか。
しかし……ふむ。なんだろう、似合うな。湖沼のほとりで動物と触れ合うマーリンさん。
ふふ……不謹慎かもしれないけど、なんだか絵になる気がする。
黙ってれば本当に美人だからなぁ、どっちのマーリンさんも。
ここのは近寄ると殺されかねないし、向こうのはすぐポンコツになるけど。
「…………行ってみましょう」
「へ? 行って…………ど、どこ行くのっ⁈」
ちょっと⁉︎ 見つからないようにって話だったじゃない!
ミラは突然木陰から飛び出して、そしてスイスイと木々をすり抜けて、マーリンさんがいるであろう方角に走って行く。
ちょ——それはマズイって!
マーリンさんみたいな人がのんびりしてるもんだから、ついつい安全なものだと勘違いしてしまったのか。それとも何か考えがあるのか。
分からないけど…………それは暴挙ってやつだよ!
「や——やばい……っ。分かってたけど……」
「待って……待ってってばミラちゃん! はあ……は、速い……っ!」
ミラは僕達ふたりを取り残して、ぐんぐん先へと進んで行く。
当然、一番足が速いのはアイツだから。
それに、足場が悪くなればなる程その差は広がっていく。
舗装された路面限定の三輪車が僕だとするなら、アイツはどんな悪路でも走り抜けるラリーカーみたいなもんだ。
ギリギリ見えなくなることは無かったけど、それはつまり……アイツがどこかで立ち止まったことを意味していて…………っ。
「…………ちょ——ちょっとミラちゃんってば——っ!」
僕は蚊の羽音よりも小さな声で叫んだ。
叫んでないと、人はそう言うかもしれない。
しれないが…………とにかく叫んだのだ。
それはもう、怒鳴り散らしたと言っても過言でない程に。
僕らが追い付いた時、ミラはマーリンさんのすぐ後ろに立っていた。
「…………マーリン……様……?」
凄く愛おしそうに、名残惜しそうにその人の名を呼ぶ。
ミラは……っ。やっぱりミラは、あの人との敵対を選べなかったんだ。
それがそういう姿で、そういう在り方である以上、ミラはその側に駆け寄りたくて仕方がなかった……と。
その瞬間が来るまで、僕はそう勘違いしてしまった。
ミラは……いいや、その側の動物全てが。風に髪をなびかせるその人の身体に、優しくすり寄って地面に座り込んだ。
「……何して……いや。なんだ……これ……」
「…………っ。もしかして……」
きゅうきゅうと鳴き声をあげたのは、二匹の小狐だった。
じゃれ付くようにマーリンさんの足にすり寄って、そしてすぐにゴロンと地面に転がった。
それを見てか、ミラよりも重たそうなイノシシも彼女の足下に寝転び出した。
ふと周囲を見回せば、僕達よりもずっと大きな鹿が何頭も集まってきているではないか。
これは……
「……マーリン様……っ。マーリン様ぁ……っ」
そんな中で、ミラはなんだか寂しそうに泣いていた。
ぎゅうと手を握って、そして……っ。
マーリンさんの体は、重力に抗うことをやめた。
ふらりと仰向けに倒れ始めて、ミラに支えられながら地面にお尻を付ける。
そして、そのまま背中まで地面に付けて……
「…………死ん……だ……? まさか……コイツ……っ」
「嘘……だろ……?」
ミラはボロボロ涙を流して、そしてその人の胸の上で声をあげて泣いた。
他の動物達も、その亡骸に寄り添うみたいに集まってきて……っ。
僕とキルケーさんだけがその光景から取り残されていて、状況も事態もまるで把握出来ていないまま…………ただ、その存在の終わりを突き付けられて……
「……だって……ついこの間、あんなに元気に……っ。なん……なんで、こんなにいきなり……」
寿命……? そんなことってあるのか……? もしそうだとしたら……っ。
もし、もしも——僕達が救うべきものが、本当にこのマーリンさんだったとしたなら——
「——また——また失敗した——? また——俺達は————」
——この死を——孤独な終わりを避けることが、この世界の救済だったのか——?
本当に彼女に探しものがあって、それを届けることがこの世界での僕達の使命で。
それが……間に合わなかったから…………?
混乱したままの頭で色々考えてみても、答えなんてまるで出てこなかった。
出てくるのは……
「……っ。アギト……泣いてるの……?」
「…………え……? 俺…………っ。俺……も……っ」
これは——このマーリンさんは、紅蓮の魔女は——あの人ではない——
頭ではそう割り切って…………いいや、頭の中でさえ割り切れていなかった。
だからだろう、僕も気付けばボロボロと泣いていた。
危険そのものだった、なんとかしてやり過ごす必要のある脅威だった。けれど……っ。
目の前で臥せっているその姿が、まるで本当にあの人が死んでしまったかのように見えて————っ。
「——マーリン——さん————っ」
僕も駆け寄って、ミラの隣でその人の手を握った。
そして……声をあげて泣いた。
かつて一度だけ味わった——味わってしまった、あの人との死別。
その追体験のような深いところからの震えに、僕もミラも逆らうことなんて出来なかった。
ここに——紅蓮の魔女は没した——
なんの間違いも無く、紛れも無く。この人は————




