第百二十四話【秋人の力】
——バクン——バクン——と、自分の内側の音がどんどん大きくなっていくのが分かる。
目の前に降り立ったのは、パッと見ではやはりマーリンさんとなんら変わらない。
——けれど、発せられる威圧感……緊張感、これが非常に高い攻撃性を持っているんだという恐ろしさみたいなものが、水から引き揚げたばかりのスポンジみたいに滲み出している。
見た目は確かにそっくりで……凄く……ボケーっと間抜けな顔をして見えるが………………?
「…………? キルケーさん、これって……こういうことって……」
「……ううん、初めて見る。コイツ……こんな風に……」
ぼけーっと…………そう、いつかも見た寝起きのマーリンさんみたいな、ボケーっとした顔で紅蓮の魔女は突っ立っていた。
僕達のことを見ているのかと思いきや、その実何も見えていない。
それどころか、そもそも意識があるのかすら怪しい。
そのうちに最初は虚ろだった目もすっかり閉じてしまって、すうすうとなんだか穏やかな息遣いまで聞こえてくる始末。
こ、こいつ……
「……ポンコツ成分までしっかり再現してるってことか……っ。ふたりとも、ゆっくり後退。ゆっくりゆっくり……静かに逃げればもしかしたら……」
こいつ……寝てやがる……っ。
さっき物凄い勢いで飛来したと思ったら、次の瞬間には意識が切れてやがった。
どういう了見だ、それは。
少なくとも、ここに何かあると思って飛んで来た筈だろう。
なのに、それを探しもせずに寝るなんて……
ゆっくりゆっくり……本当にゆっくりと距離をとって、僕達は取り敢えずそれの射程圏から脱出することに成功した。
と言っても、僕達の知るマーリンさんの射程は、目に映る範囲なら大抵届いてしまうのだが。
キルケーさんが言うのだ、紅蓮の魔女はあまり遠くへは攻撃しない、目の前に対峙しているものにしか攻撃の意思を見せない、と。
それはやはり、探し物ごと壊してしまうことを避けようとしている……ってことなんだろうか。
「なんにしても、命拾いしたね。このまま見えなくなるまで逃げて……」
「——っ。いえ、どうやらそうもいかないみたいです。本物は眠るとなかなか起きて下さいませんでしたが……っ」
えっ、嘘。逃げ切れる展開じゃなかった?
今回はなんだかポンコツ成分をきちんと持ち合わせているんだなぁって発見だけで、取り敢えず逃げ切るところまででひとつのチャプターが終わる展開じゃなかった?
僕にはあんまり違いは分からないけど、どうやら意識が覚醒したらしい。
まだ……まだ、ぼーっとしてるようにしか見えないんだけど……
「……どういう……ことなんでしょうか。初めて会った時もそうでしたが……あの人はどうにも…………いえ……その……っ。ま、マーリン様のことを悪く言うつもりはなくて!」
「ああ、うん。分かってるから、大丈夫だから」
大丈夫だから言ってごらん。と、なんだか……こう、取り繕おうとするミラの背中を優しく押した。
まあ、言わんとすることはなんとなく予想が付いてる。
ポンコツだなぁ、相変わらず。
大事なこと、優先順位の高いことがあってもついついサボっちゃうんだよな、あの人。って、そういう話だよね。
「……どうにも、意識が不安定なように見えます。いつも何か……別のものを見ているような。
焦点が定まっていない……と言うにも、それは生き物として不自然ですし。常に半覚醒状態で活動している……ように見えます」
「違った……っ。ごほん。それって…………いつも寝ぼけてるみたいなもの……ってこと?」
僕の問いに、ミラはうんともハイともイエスとも答えず…………目を伏せた。
いつも寝ぼけたこと言ってるもんな、マーリンさん。
さて、名義上の師をディスるのはこの辺にしておいて、だ。
いつも半覚醒状態……言い換えると、いつも半分眠ってる状態。
別のものを見ている……なんて言葉だけで考えるのならば、思い当たる節はひとつしかない。
「…………このマーリンさんにもあるかもしれない……って、ことだよね。星見の力——未来を視る力が」
「……或いは、常に未来を見ながら行動を決めている可能性もあります。その……私達に対して反応が鈍い、遅いのは……」
本来はあり得ない存在だから、見えている未来の中に映っていないからではないだろうか。ミラはそう言って、そしてゆっくりと僕をその小さな体の後ろに匿うように引っ張った。
こらこら、僕が前だ。
しかし……ふむ、その話にもやはり合点が行く。
ちょっとだけ聞いた話、かつての僕は未来が殆ど見えなかったらしい。
その理由は、過去が無いから。
あの世界において、アギトという存在はあの瞬間からしか存在しない——継続した過去が存在しなかったから。
未来はあくまで積み上げた過去によって引き起こされるもの、過去が無ければ予知も予想も出来ない……ってことらしいけど……
「じゃあ……ふたりといれば、こうして何回もチャンスが生まれるってことかな?」
「そう……なるのかも。でも、攻撃のチャンスじゃないわよ、キルケー。あくまでも逃げる為の……」
おお…………お前がそういうこと言うの、なんか凄く新鮮だな。
逃げようって言っても全然聞いてくれなくて、いっつも突撃して行っちゃうんだもん。
分かってる、今回は相手が特別だから。
だから、ミラが変わったわけではないんだろうけど……お兄ちゃん、ちょっとだけ嬉しいんだよ。
成長したなぁ、大人になったなぁ。こんなにチビなままだけど、大きくなったなぁ……って。
「…………でもさ、今回に限っては……っ」
「……はい……っ。もう……来ます——っ」
——ブワ——っ。と、翼を大きく広げ、そしてゆっくりとたたみ直す。
人で言うところの伸び——ストレッチ的なものだろうか。
ゆっくりゆっくり、綺麗にたたみ直すと、マーリンさんはまた僕らの方を躊躇無く向き直して——そして、一歩ずつ歩いて近付いてくる。
「…………ふーっ。ふたりとも、こうなったらもう俺に託して欲しい。頼りないって自負はあるけど、それでもこれしか無い。
説明した通り、結界を使って脱出を試みる。ぶっつけ本番だけど、なんとか合わせて欲しい」
「…………っ。分かりました。キルケー、お願い」
うん。と、キルケーさんは力強く頷いて、そして…………むふ…………い、いかん。集中しろ、集中…………むふふ。だ、だめだ……気が抜ける……っ。
ミラと僕のことを纏めて抱き締めて、いつでも飛び立てる様に準備をしてくれた。
してくれたけど……これ、やっぱり…………むふぅ。
「……いつでも来い……っ。こっちは手の内全部分かってるんだ、そう簡単にはやられないぞ……」
ぱき……がさがさ。と、枯れ枝を踏み折り、草を踏み分けてその人はゆっくりと近付いてくる。
相変わらずぼーっと……僕達ではない何かを見つめて、それでも迷うこと無くこちらへと向かってくる。
この人はマーリンさんではない——とも言い切れない。
しかし、完全にマーリンさんその人であるとも言い難い。
マーリンさんでもあり、しかしマーリンさんとは決定的に違う。
だけど……あの人と全く同じと言って良いものだってある。それが——それこそが————
「————っ! キルケーさん——っ!」
ふわぁっと体が宙に舞う。
接地感の薄れた足の裏に、ほんの僅かにだけど動揺もしてしまう。
けれど——っ。
条件は揃っている、必要なのは失敗しないことだけ。
失敗しない…………ハードルが高い!
初めて使う結界、初めてやる作戦。
相手は超強力……なんなら、もうただの公式チートのインチキキャラだ。
こっちの戦力は、なんの役にも立たないヘタレチキンと、能力の殆どを失ったマスコット。
それに……むふ……童顔巨乳の銀翼の魔女。
あれ、童顔巨乳は目の前のも同じだな。
じゃあ…………ボーイッシュ巨乳! はあ……だめだ、こりゃ。
「————どうにもお前は——っ」
————ぱり——。と、硬めに練られたインク溜まりが潰れる音がした。
それを潰す音がした。
そしてすぐに、僕達の周囲——半径数メートルの狭い空間に、魔力の膜が張られる。
この結界は、ほんの僅かな——それこそ数フレームのジャストガード部分にしか効力の無い、使い道の殆ど無いとされたニッチな結界だ。
けれど——そういうのが得意な人間が——しっかりと訓練を重ねた人間が、受ける攻撃の発生フレームまでしっかりと把握出来ているのならば————っ。
「——キルケーさん————っ!」
「————任せ——うわぁあああ——っ⁉︎」
——ボゥ——ッ。と、僕達の周囲を紅蓮の炎が包み込む。だけど——っ。
その炎は僕達を焼き尽くすその一歩だけ手前で、見えない何かに吸い取られるように勢いを弱めていく。
発動タイミング完璧、あまりにも気持ちが良い置きカウンターが決まった!
そして——ミラに頼んでおいた、結界に追加するように提案した機能。
そもそも、この結界は魔術を——魔力を飲み込んで無効化するというもの。
じゃあ、その飲み込んだ魔力の使い道を——
「————ぁぁああああ——っ⁉︎」
「——がん——頑張っ————っ⁉︎ 舌噛ん————んびぎぃ——っ⁉︎」
——反転して放出するようにして仕舞えば良いのだ。
当然、これを攻撃に——反撃に使うのはあまりにも愚策。
マーリンさんの炎、マーリンさんの魔術、マーリンさんの力。
それをそのまま差し向けても、アッサリ対処されて、むしろ更に強化されて跳ね返し返されるだろう。だから——っ。
待っ…………やばい、酔った。気持ち悪…………気持ち良い……っ。
ぎゅーって……ぎゅー……って……でへ。
噴き出す豪炎を全部推進力に変えて、キルケーさんはジェット機もかくやと言わんばかりの速度で射出され、そのまま滑空した。
決して僕達のことを落とさないように、ぎゅー…………って…………むふふぅ。




