第七十五話
ガタガタと視界が揺れる。この尻にゴツゴツくる感じ、何と言うか……いつかの膝枕の件を思い出してしまって、精神衛生上よろしくない。僕らはかつて乗った屋根付きの立派なものとは程遠い小さな馬車に揺られ、村を後にしていた。
「……あの、本当に大丈夫なんでしょうか……? ミラさん……?」
「大丈夫大丈夫。アンタ強いんだもの、いつも通りやれば良いだけよ」
なんだろう。その全幅の信頼は、今は全く嬉しく無い。どうしてこうなった。あれは遡る事数十分前……
「これとこれと……お、これも近いわね。これも……」
「あの……ミラさん? 一体何を……?」
少女はまるでおもちゃ屋のチラシでも眺めるみたいなキラキラした目で、掲示板に書かれた依頼用紙と手元の用紙とを行ったり来たり見つめていた。そして時折ブツブツと呟きながら、ペンで何か……番号を書き込んではまた視線を泳がせ続ける。いえ、魔獣退治とは聞いたんですけど、魔獣退治としか聞いていないというか……
「どうせだから、場所が近い依頼は纏めて受けちゃおうと思って。どうせ入り用になるんだし、稼げる時に稼いじゃわないとね」
「それは分かるんですけど……そんなに大量に……本当に大丈……」
大丈夫か? と、言いかけたところでグイと手を引かれて顔を近づけられる。そしてミラは口に手をかざして内緒話を始めた。
「いい? あくまでもアンタが戦うって顔してなさい。そしてそう話しなさい。私が戦うなんて言ったって信じて貰えっこ無いし、止められるのがオチよ。そうなったら最後、アンタが受けるなんて言っても信用されっこ無いわ」
「……なるほど、確かに」
少し屈んでいた体を起こし、彼女を少し物理的に見下してそう答えた。覆りようの無いその差が気に食わなかったのか、僕のスネに一発蹴りを入れて彼女はまた記入に戻る。予想だにしない激痛に、僕は彼女を見上げる高さまで屈み込む羽目になった。こ、このやろう……っ。
「とにかく、しゃんとしてるのよ。分かったわね」
「〜〜〜〜っ! ぎょ、御意に……」
そう。それから随分訝しげな目で係の人に見られたり、まるで英雄の出立の様に見送られたり……
「ともかく、今緊張したって仕方ないでしょ。ほらリラックスリラックス」
「今緊張しないでいつ緊張するんだよ……まったく、人の気も知らないで……」
紆余曲折あって僕らはこうして移動している。僕が戦うわけじゃない、とは分かっている。いえ、戦いますよ? 必要とあれば戦いますけど……ほら、僕が一緒に戦うってなると、彼女の足を引っ張りかねないっていうか。撤退する時に彼女を背負って全力で逃げるのが、僕に今出来る唯一の戦いというか。そう、戦うのは主にこの少女だ。すぐに無茶して後先考えずに突っ込んでいく、このインテリ脳筋少女の身が心配なのだ。
それからもう少し走って、何を今更気にしているのだろうか、今までも散々ふわふわと漂わせながら戦っていた筈の、その長く綺麗な、柿か蜜柑かと思うほど鮮やかなオレンジにも近い栗毛を、ミラは鬱陶しそうに纏め始めた。こうして長い髪を掻き上げて、リボンで括っている姿はなかなかどうして。どこか色っぽい、艶やかというか大人っぽいと……
「…………こっち来なさい、やってあげるから」
「……なによ。別に鏡があれば私だって……」
色っぽさなど、文字通り毛先程も感じさせぬレベルの下手くそ。あーあーもう、こんなぐしゃぐしゃで……左右で長さもバラバラだし、真ん中で縛れて無いし。むくれっ面で僕の方へ寄って、彼女はすとんと背を向けて座る。僕は本当の兄妹にでもなった気分で彼女の髪に手櫛を入れた。
「まったく、まだまだお子様だなお前も。ほら、ここをこうして……出来……」
さっきミラがやったのよりはマシだから。うん、僕がやった意味は無くも無い。うん……もう一回。もう一回チャンスを。
「おかしいな……えっと……ここをこうして……ほら、今度こそ……完ぺ……」
「ヘタクソ。嬢ちゃん、こっち来い」
ダメだ。女の子の髪を触った事なんて、ここに来るまで一度も無かったんだ! しょうがないじゃないか! そんな顔をするなよ! ミラは僕の手を離れ、このアギトの手とは比べ物にならない程大きな手をした声の主の方へ行ってしまった。
「まったく……ほれ、もうええぞ」
その大きく太く、節くれだった指からは想像も出来ない器用な手つきで、ミラの髪は綺麗に纏められた。うん、ポニーテールも似合うじゃないか。うなじが……こう、ね? ほら、ちゃんとお礼しなさい。
「ありがとう。見かけによらず紳士ね、どっかの誰かと違って」
「余計なお世話だ」
もう少し素直にお礼だけ言って終われんのかお前は。頰を突かれたお返しに鼻をつまむと、ミラはちょっと嫌そうに顔を振ってから僕の頰をつねった。
「はは、仲が良いの。妹がいてな、慣れとるんじゃ」
「へー、妹さんが。ところで……」
さて、ここらでこの疑問を解決しようか。僕らがどこへ向かっているのか、と言うのはミラが教えてくれてないから僕は知らない。僕だけが知らない。彼女がどうして髪を縛ろうと考えたのか、それも僕は知らない。でもそんな事じゃなくて……
「ん? おーう、そうか。自己紹介がまだだったな。オイはランバ。よろしく」
「あ、どうもこれはご丁寧に……じゃなくてっ⁉︎」
ランバと名乗る大柄な男は感情表現が苦手なのか、控えめに笑って僕に手を差し出した。いえ、握手はしますけど。僕が聞きたいのはそういうことではなくてですね……
「オイは監督役。お前さんらの骨拾って、ダメだった。って、報告する為におるでよ」
「なんて縁起でも無い……って監督役?」
クエストにはそんなものが付いて来るのか。ゲームのイメージしかないからどうにも実感が無かったが、成る程。成果の報告を自主性にしては虚偽も混じるし、何より帰還しなかった時の成果がキチンと伝わらない。道中でリタイアしたのか、はたまた敵に倒されたか。そういうのをしっかりしておかないと、何かと不具合も起きよう。
「おう、お前さんらすごい量の依頼ば受注しよったて聞いてな。それも幼子連れなんて言うから、監視を付けようってな。男の方も頼りなさげやし、せめて嬢ちゃんだけは無事に連れ帰らんといかん言うての」
「おさっ……っ⁉︎」
幼子呼ばわりが癇に障ったのだろう、ミラはイライラした様子で僕の背に隠れてランバを睨みつけた。ほら、そう言うとこだぞ。子供っぽいとこ。しかし男の言うことは本当にごもっともで、心配して下すって本当にありがとうございますなのではあるのだが……戦うの、その幼いお嬢ちゃんなんです。ええ、一度見れば驚いて頂けるかと。
「……さ、そろそろ着いたぞ。気張れよ兄ちゃん」
見れば確かに、何も無かった荒野に生き物の形跡——足跡やフン、食い散らかした骨や血の跡が辺りに散見される。しかし、肝心の魔獣は姿を隠しているのか近くに見当たらない。停まった馬車から降り、そろりそろりと目前にあった岩に近付いて……
「アギト、もう良いわ。そこでジッとしてなさい」
それはまるで突風だった。抜き足差し足などとやっていた僕の脇からミラは飛び出していった。だが待て、まだ魔獣の姿など……
「……はっ!」
少女はポーチからナイフを取り出して、岩影から現れた小型の魔獣に先制でひと蹴り入れた。犬の様な上半身に、腰から下は魚類……鱗のビッシリ付いた尾ひれのある肉体の魔獣。その下半身は果たして陸上生活の何処に役立っているのだろうか。と、疑問を抱かせる奇妙な形の魔獣は、彼女の一撃で宙に舞い————
「これで——まず一匹——」
——容赦の無い一振りで、その首から多量の血を吐いて墜落した。すると岩陰と言わず、盛り上がった砂の中、少しだけ残った草葉の裏から合計七体の小型魔獣は飛び出してきた。ミラはそれの突進を華麗なステップで躱しながら、一撃一撃確実にナイフで斬りつけていく。そう、ナイフで斬りつけて……
「……ミラ……まさか……っ!」
一つの不安が僕の背を押した。そういえば、彼女は今まで自身より大きい相手としか戦っていない。少なくとも僕の見ている前では。もしこの小さな敵に——勝手の違う相手に、戦い方を掴みあぐねているとすれば……っ! 僕はポーチの中の短剣——彼女が預けてくれた魔具を抜いて群れに突進する。
「……これで二匹……っ⁉︎ アギト⁉︎」
「うわあああああ!」
ミラの様にスマートにはいかない。斬りかかっても蹴りつけても全て躱されて、噛みつかれるのだけは避けられているが、いい突進をもう何発もボディに受けてしまった。おごぅっ⁈ お、思ったより体重あるぞこいつら⁉︎
「ちょっ⁉︎ ジッとしてなさいって言ったじゃない‼︎」
「でも……ミラが……っ!」
上手く言葉に出来ない不安に突き動かされて、気付けば僕も彼女諸共魔獣に囲まれてしまっていた。なんだ、何がどうした? なんで僕が危機の真ん中にいる⁉︎
「……はあ。ちょっと痛いだろうけど、受け身は————ちゃんと取りなさいよ——っっ‼︎」
「は……? えっ——でえええええ⁉︎」
ミラはため息ひとつに僕を担ぎ上げ……そして、在ろう事か馬車の所まで投げ飛ばし返した。いてぇっ⁉︎
「すぐ終わらせるから! 今度こそ“待って”なさい‼︎」
そう言って彼女は、結局一度として僕の目では追えない動きをする事無く魔獣を全て斬り伏せてしまった。魔術を使うまでも無い、と言うだけのことだったのだろうか……? もしそうなら僕は突進され損、投げられ損なのでは……? いてえ……