第百十八話【不帰】
キルケーさんによるヘカーテさんの自慢話をしばらく聞いていると、そのにこやかな笑みのすぐ下でもぞもぞとミラが動き出した。
どうやら意識を取り戻したらしい。
もぞもぞ動いて……そこが寝心地の良い場所だと知って、またゆっくりと体を沈めていく。
こらこら、起きなさい。そして……
「……ミラちゃん、気が付いた?」
「…………はい」
すみませんでした。と、開口一番にミラは僕達三人に——ヘカーテさんが此処にいないことを知らないミラは、三人に宛てて謝罪を口にする。
自分がやらなければならない。マーリン様の汚名は、私が雪がなければならない。
気が逸って、つい勝手な行動を取ってしまいました。
ミラはキルケーさんの腕から離れ、深々と頭を下げてそう述べる。
うん、ごめんなさいがちゃんと出来る良い子だ。自慢の妹だよ。
「……それでも……っ。それでも、身勝手ながらも結果を出す自信はありました……っ。後でいくらか怒られることにはなると、謝罪は覚悟の上でも……届くと……思って……っ。思い上がっていました……」
「…………うん。そうだね、そこの勘違いはちょっとだけ……マーリンさんならきっと、困った顔でいただけないねなんて言うと思う。
自分の精神状態をしっかり把握すること。俺もあんまり出来る方じゃないけど……一緒に克服していかないとね」
キルケーさんはなんのこっちゃって顔でにこにこ笑って、またミラを抱き締めた。
良い子良い子、大丈夫大丈夫。と、何回も何回も……ああ、そうだ。
「……はあ。しっかりしなさい、ミラ=ハークス。君はこの世界を救う為に遣わされた、マーリンさんに選ばれた精鋭なんだよ。
そして、かつては魔王を倒して世界を救った勇者だ。
焦らない、そして忘れないこと。ミラちゃんがミラちゃんとして頑張れば、必ず結果は付いてくるから」
「っ。は、はい……あの、アギトさん……。アギトさんは……その、私のことをマーリン様からどれだけ……」
ちょっと生き急ぎ過ぎた、責任感のある勇者だって聞いてる。僕の返答に、ミラはちょっとだけ首を傾げた。
何も嘘は言ってないから、きっとコイツには僕の真意は見抜けないだろう。
多分。今のミラは、多分何よりも不安が心の大半を占めてしまってる状態だ。
そしてその不安の中でも、レヴに対する——本来の自分、いつ現れて自らを無かったことしてしまうのか分からない存在に対する恐怖がほとんどだ。
だから……名前を呼んであげようと思った。
これまでに何回でも、何十回でも、何百回でも。何千……はちょっと怪しい。けど、ずっとずっと繰り返してきたみたいに、名前を呼んであげようと思った。
それが……ミラという存在の肯定が、今のコイツには一番心落ち着くものだと知っているから。
「……こんな筈じゃなかったけどな……っ」
キルケーさんも、なんとなく僕の意図を汲み取ってくれたらしい。
ミラちゃんミラちゃんと何度も名前を呼びながら、ぎゅうぎゅうと頬を寄せて抱き締め続ける。
こんな筈じゃなかった。こんな予定じゃなかった。
早く記憶を取り戻して、レヴに対する誤解を解いてやる筈だった。
なのに、結果としてはまた遅延策を取ってるに過ぎない。
早く早く——早く記憶を——っ。
ばちんと頬を叩いて、さっき自分で口にした言葉を思い出す。
残念ながら、焦っているのは僕も同じだ。
あと一手——僕がちゃんと冷静に判断出来てれば届いただろう。
ヘカーテさんでもキルケーさんでも、或いは腹を括って僕がやっても良い。
ミラがこじ開けた突破口をみすみす閉じさせてしまったのは、ミラが壊れてしまうって焦った僕の所為だっただろう。
「んむ……えへ……えへへ……? あれ……あの、ヘカーテ……? ヘカーテは……どこに……」
「——っ。あ、ああ……えっと……」
さあ、また問題が——なんと答えれば、コイツに余計な罪悪感を抱えさせずに済むだろう——って、しどろもどろでうろたえ始めた僕を他所に、キルケーさんはあっさりとその別れを教えてしまった。
あたし達が逃げられるように、紅蓮の魔女の足止めをしてくれたよ。
あまりにも真っ直ぐに、取り繕われることなく告げられた言葉に、ミラの顔はみるみるうちに真っ青になっていく。
「——じゃ——じゃあ……っ。私の——私の所為で——っ! 戻らないと! 早く助けなくちゃ——っ!」
ああ、やっぱり……と、頭を抱えたくなるくらい予想通りのリアクションだ。
と言うか……僕だってまだ信じられてない。
キルケーさんは大丈夫だって言ってくれるけど、とてもじゃないがあんな化け物みたいな強さの敵を前に、本当に逃げ切れるのかどうか。
慌てるミラをまたぎゅっと抱き締めて、キルケーさんは疑いなんて持つつもりもないって顔で笑った。
この信頼関係は、何処となくマーリンさんとフリードさんのものに似ている気がした。
なんとなくだけど。そのくらい、強い絆と互いへの理解があるんだって。
「平気平気、ヘカーテは速いもん。今までだって、何回も何回も逃げてきた。頭も良いから、絶対に無茶はしない。
無理だと思う前には必ず退いて、そしてのらりくらりと逃げ切っちゃう。
あたしとヘカーテだけがまだこうして平気な顔で空を飛んでるのが何よりの証拠だよ」
「で、でも…………? キルケーとヘカーテ……だけ……が……?」
うん。と、無邪気に頷いたが…………ちょ、ちょっと待った。
今、とんでもなく重大な話が飛び出した気がするんだけど……?
キルケーさんとヘカーテさんだけ……って……っ!
「……滅ぼされたのは……紅蓮の魔女にやられたのは、人間だけじゃなかった……ってこと……ですか……?」
「うん……魔女も、もう殆ど残ってない。ちょっと移動しよう。ヘカーテと落ち合うポイントをいくつか決めてるんだ。
その殆どは、以前魔女や人間が使っていた村や町の跡。もう……隠れるのに困らないくらいの場所が、アイツに滅ぼされた」
滅ぼされた……って……っ。
まだ、この世界のことはあんまり理解出来てないけど……もしかして、ここは人間と魔女が共存していた世界……だったのではないか……?
キルケーさんは人に育てられたって言ってたし、仲が悪かったって様子も無い。
なんとなく——本当になんとなく、一切の悪意や他意は無く。人間の世界と、そこに魔女が少し関わってるくらいのものだと思ってた。
救うべきは人間の方だと、魔女はあくまでもマイノリティだと、マーリンさんの過去や人間である僕の主観から勘違いしてしまっていた。
もしかして、この世界は……僕達が救うべきものは……
「あっ。そうそう、目的を……どうとか、聞かれてたっけ。
あたし達の目的は、あの紅蓮の魔女を退けること。退けられるだけの力を手に入れて、そしてまた人のいる場所を目指すこと。
もう、生まれ故郷には誰も残ってないけど……でも、アイツの行動範囲外にはまだ残ってると思うから。
アイツにやられないくらい強くなったら、また大勢で暮らしたいな……って」
「……キルケーさん……」
さあ、行こう。と、キルケーさんはまた僕達を抱きかかえ、そして悠々と空へと舞い上がった。
あの……いえ、歩いて行くんじゃ流石に時間が掛かり過ぎるんでしょう。
ふたりとも基本的には飛行を移動手段にしてるし、それを前提とした行動を取ってるだろうから。
歩いて行ったんじゃ、その合流場所にもいつ着くか分からないんでしょう。
でも……でもね……
「…………アギトさん……」
「っ⁈ ちが——違うんだよ! その…………いや、君にとやかく言われたくないよ⁉︎」
やわらかぁーい……ものが……こう……ね。
仕方無いことだし、本人も全く気にしてないから…………全く……気にしてくれないから……っ。
なんだろう、魔女とは相性悪いぞ……? いえ、ご褒美ですけど。
ご褒美ですけど…………絶対に主導権を握られてしまう。
え? お前が主導権を握れる相手なんてこの世に存在しない……? な、なんて酷いこと……っ!
幸せな遊覧飛行はものの数分で終わって、僕達は山の麓の廃村へと降り立った。
歩いていたら何時間か掛かっただろうに、空を飛べるってのは本当に便利なものだ。
特に、山道みたいな悪路を気にしなくて良いのは凄く楽だ。
楽だけど…………その、大変なことになるし、それにキルケーさんだけに負担が掛かってて……申し訳無い。
「…………ここが……っ」
「うん、そう。ここには昔、村があったの。私が育った場所じゃないけど、でも……ヘカーテと一緒によく遊びに来たんだ」
遊びに来た……か。
やっぱり、この世界の人間と魔女は仲良しらしい。
折角……仲良しなのに……っ。
かつてそれを一番望んだ筈のマーリンさんがあんなことになってるなんて、いったいどんな巡り合わせなんだよ。
「……何回見ても、キツイものがあるな……っ」
「そう……ですね。ユーザントリアにも、こういった残骸は多く見られますから」
救えなかった村、町。人々の居場所。
かつての旅の間に、何度も足を止めては胸を痛めた嫌な思い出達。
それと同じものが——それよりももっと酷いものが眼前に広がっている。
跡地だなんて、それはあくまでもその過去を知っているからこその言葉だ。
僕達の目の前にあったのは、雑草すら生えていない、まだ真っ黒に焦げたままのボロボロの地面と、崩壊したコンクリート片だけだった。
「……キルケーさん。アイツ……紅蓮の魔女について詳しく教えてください。俺達の目的も、アイツを退けるところから始まる筈です。
正直、さっきのは千載一遇のチャンスだった……っ。俺がもっとミラちゃんを信じていれば——どっち付かずなことをしなければ、なんとかなったかもしれなかった。
でも……もう、二度目は無い。ミラちゃん抜きでアイツをなんとかする方法を考えないと」
アギトさん! と、ミラはなんだか異議ありげに声を荒げたが、しかしそれまでだった。
誰よりも本人に一番自覚があるだろう。
ミラはもう、魔術の行使すら怪しい。
戦うだなんて——それも、マーリンさんを相手に拳を振るうだなんて。
この世界は、僕が救わなくちゃいけない。
ヘカーテさんのことも……正直、アテにして良いとは思わない。
キルケーさんと、僕だけ。
ミラの助言も借りるは借りるけど、基本的にはふたりでなんとかするって腹でいないと。
「……うん。えっとね、アイツは……えっと……」
「あ、ええっと……漠然と聞き過ぎましたね。ごほん……じゃあ、一個ずつ。まずは……」
順を追って質問していこう。アイツがなんなのか……知りたいことが多過ぎて、問いの方が具体的じゃなさ過ぎた。
ええと、まず聞くべきは……強さ……は、見ての通りか。
いつ頃から……ってのも、生まれた時には暴れ回ってるんだっけ。
ヘカーテさんが生まれた場所には、もう人間はいなかったってことだから。
そこが魔女だけの村だったってよりは、魔女だけが逃げ延びられた集落……って感じなんだろう、そんな言い方だった。
じゃあ……ええっと……目的……とか?
「……? 何か……誰か飛んで来ます。バサバサって……」
「っ! ほんと⁉︎ ヘカーテだ! ほら! 言った通り! それにしても、ミラちゃんは耳が良いんだね」
えへへ。と、ふたりして和んでいるが…………ちょ、ちょっとだけ不穏なこと言っても良いかな……?
そ、そういうのってさ……そういうのって……所謂フラグてやつじゃ————
「あっ! 見えた見えた! おーい! ヘカーテーっ!」
嬉しそうに、そして誇らしげに空を見上げて手を振るキルケーさん……だけど……っ。
そのにこにこ顔のすぐ横で、同じように笑ってたミラの笑顔が引き攣ったのを僕は見逃さなかった。
まだ、僕の目にはそれがなんなのか見えない。
けれど、少なくとも——ずっとずっと信じてやってきたミラの目は、今更になって疑うようなもんじゃない。
僕達はキルケーさんの手を引いて、大急ぎで山の中へと飛び込んだ。
逃げて逃げて、物陰に隠れて。そして…………っ。




