第百十七話【僕だけが決死の逃飛行】
「——ミラちゃん——っ!」
駆け付けてみれば何のことはない、さっきまでの苛烈な竜人は弱々しい子供に変わってしまっていた。
ガチガチと歯を打ち鳴らし、涙をボロボロこぼしながら縮こまって震えている。
そうだ、そうなんだよ。
その弱点は——精神的な脆さは、お前だって同じなんだ——っ。
「——っ。掴まって、早く!」
——だけど——っ!
ここで折れたからって、終わりになんてさせない。
お前が何回挫けても、何回ヘコたれても連れて行く。
なあ、そうだろ。だって——だって、俺達は——
「————アギト——っ!」
小さな小さなミラを背負い、そして大急ぎでその場から離れる。
今まで何回やったか分からない、もうすっかりお約束の僕達の旅のオチのひとつだ。
けれど……っ。
ヘカーテさんとキルケーさんは、今すぐにでも飛び立てる準備をしてくれている。
そう、準備は完了してるんだ。
それはつまり——ふたりが近付ける状況は——とっくに過ぎ去っているってことだ————
————ゴアァ——と、地響きみたいな低い音が鳴って、そして僕達は熱に飲み込まれる。
紅蓮の魔女の容赦無い一撃は、自らに届き得ると見なした脅威をみすみす逃したりはしない。
ミラを——もう勇者でもなんでもない小さな女の子ひとりを屠る為に、その魔女はあの人の力を————
「————キルケー————っっ!」
叫び声が聞こえて、そして僕達は遥か上空へと投げ出された。
どうやら、風の魔術か何かで吹き飛ばされたらしい。
真紅の炎を吹き飛ばす程の突風に巻き上げられ、僕達は二対の翼が向かい合う姿を遥か遠くに見下げた。
そして……
「——っ。しっかり掴まってて——ふたりとも——っ!」
「——キルケーさん——っ。待って——待って——っ! まだ——まだヘカーテさんが————っ!」
ミラも僕も優しく抱きかかえられ、そして物凄い速度でその場から飛び去った。
僕達とキルケーさんだけが、その脅威から撤退することを赦された。
遠く遠く——みるみるうちに小さくなるそのふたつの影が、やがてひとつ炎の塊になって視界から消え失せる。
僕は——僕達は、また——また助けられた————
ずっとずっと遠くへと飛んで、そして僕達は似たような景色の山の中のひとつに降り立った。
もう、炎は見えない。
もう……ヘカーテさんの姿は……っ。
「…………っ。そんな…………っ。また……また……助けられて……っ」
ミラは……気絶してしまっていた。
コイツもコイツで、こんなになるまで自分を追い詰めやがって。
精神的なストレスで気絶するなんて、そう簡単に起こるものじゃない。
もう……今回はミラの魔術に頼れないだろう。
レヴとしての記憶——自分を飲み込みかねないもうひとりの人格を、その恐怖を強く意識し過ぎてしまった。
それに、相手はマーリンさんだ。それの真贋は関係無い。
ただ、あの人だと思わせる要素が山程あって……そんな相手を傷付けようとしてしまって。
無事に元の世界に戻ったとしても、また後遺症が残るかもしれない。
「……っ。もっと……もっと強く止めるべきだった……っ」
僕が……っ。一番俯瞰で事情を見ていた僕が止めなきゃいけなかった。
無理だって、無謀だって分かってて……縛りあげてでも、無理矢理にでも引き止めて逃げなきゃいけなかった。
結果を見れば、これは最悪としか言いようがない。
ミラの暴走によって、ヘカーテさんを失ったかもしれない。
ただでさえ貴重な協力者を……それに、一緒に逃げてくれたキルケーさんの信用だって失っただろう。
そうなれば……僕ひとりでいったい何が出来る。
どうやったら……この世界を…………っ。
「——よしよし。良い子良い子」
「————っ⁈ キルケーさ————」
——ばむん——。と、なんだか……柔らかい……音がして…………ほふぅん。
僕の頭の中に渦巻いていたあらゆる不安は吹き飛ばされてしまった。
何がどう……あふ……良い匂いする……むふ。
でも、全く前が見えない。いったいどうなって…………
「大丈夫、大丈夫。怖くはいよ。アギトも、ミラちゃんも。大丈夫大丈夫」
「——キルケー……さん……」
キルケーさんは僕達を纏めて抱き締めて、そして何度も何度もそう囁いてくれた。
不安なんて全く抱いてない、僕らへの不信感なんてまるで感じさせない笑顔で、何回だって頭を撫でて……おふ……くれた……むふぅ。
「落ち着いた? よしよーし、大丈夫大丈夫。怖かったよね」
「こわか……い、いえ……別に俺は…………じゃなくて!」
むっほぉおんっ⁉︎
なんだか知らない間に、キルケーさんの…………キルケーさんの…………ッッ⁉︎
ぎゅっと抱き締められて、そしてナデナデされて……あ、あかん……それはダメ……らめぇ……っ。
マーリンさんの所為で……マーリンさんの所為でその性感帯(?)は開発され切ってるから……はふぅ……
「はふぅ……じゃない! は、離して下さい! これ以上は…………これ以上は…………っ。た……大変なことになりますよ……っ?」
「大変なこと。うーん、アギトはやっぱり変だね。ヘカーテもミラちゃんも、こうすれば落ち着いてくれるのに」
落ち着くかいそんなことされて! て言うか落ち着いていられるかい!
もう……もう、それは凄いぞ……っ! 落ち着くどころか大興奮で………………っ。
最低過ぎる……最低過ぎるぞ……僕…………っ。
「……っ。なんで……なんでそんなに笑ってられるんですか……っ。だって……俺達の所為でヘカーテさんは……っ」
そうだよ……っ。なんで和んでんだ、そんな権利があるわけないだろ……っ。
僕の所為で、ミラもヘカーテさんも大変なことになってる。
色ボケかまして笑ってる場合じゃないんだ。
謝らなくちゃいけないこともいっぱいあるし、そもそも助けて貰ったことへのお礼だってロクに言えてないってのに。
やるべきことと色んな感情が一気にせり上がってきて、僕はどうしても吃って言葉を選び切れないでいた。
けど、そんな僕にキルケーさんはまた笑顔を向ける。
ニコニコ笑って……そして、平気な顔でまた頭を撫でた。
「……? よく分からないけど、ヘカーテは大丈夫だと思うよ? 元からそういうつもりだったし。
ヘカーテはね、速いんだ。他のどの魔女より、ずっとずっと速く飛ぶ。
誰よりも速い——それこそ、紅蓮の魔女よりも——」
だから、すぐに合流出来るよ。と、キルケーさんはあっけらかんと言ってのけた。
速いって……いくら速くても、あんなに警戒して攻撃の意思を向けまくってる相手から逃げるなんて……っ。
無理に決まってる。そう言いかけて、けれど今回ばかりは僕の口と頭もちゃんと仕事してくれた。
無理だって、もう助からないって。そんなネガティブなことを言ってなんになる。
彼女が信じているのに、それに水を差してなんの意味がある。
なんとか踏み止まってくれた口に感謝して、代わりの言葉をひとつつずつ吐き出すことにした。
「……っ。すー……はー……ありがとうございました、キルケーさん。二回も助けられました。
それと……ごめんなさい。もっと良いやり方が、四人だったら出来た筈なのに。
ミラちゃんが焦ってること、分かってたのに。止めてやれませんでした。ごめんなさい」
「…………? うん、どういたしまして……? それと……うーん? 謝らなくても良いと思うよ? 少なくとも、あたしは何も困らなかったし。ええっと……でも、そうだなぁ……あっ。じゃあ……」
ミラちゃんをよしよししてあげないといけないんだね! と、どういう理屈で辿り着いたのか分からない結論を口にして、キルケーさんはまだ意識の無いミラを抱き締めた。
お、おお……さっきまで僕もあんな風に……じゃなくて!
はあ……いかん、どうしてこうも……っ。
マーリンさんも、レヴも、それにレアさんも。魔術の腕前と比例して、シリアスブレイカー度も跳ね上がるように出来てるのか……?
さっきアレだけ苛烈な戦いがあったってのに、すっかり呑気な顔に戻ってしまったキルケーさんにその疑念は更に深まった。
あ、いや……と言うか……
「……もしかして、ふたりはこんなこと——あの紅蓮の魔女と、しょっちゅう戦ってるの……?」
「うん? うん、そうだよ。何年くらい経つのかなー……うーん、分かんないや。
少なくとも、ヘカーテと出会う前からずっとそう。ずっとずっと、アイツから逃げて、生き残る為に戦ってるよ」
ずっとずっと……か。
ああ、じゃあ……そういうことなんだ。
切り替えが早いんじゃなくて、アレも日常の一部なんだ。
紅蓮の魔女、ドロシー。そう呼ばれるド級の脅威。
最早災害レベルの厄介者を相手に、ふたりはずっと抗っていたんだ。
はあ……成る程、ちょっと納得。ミラが魔獣を倒した後にもケロッとした顔でご飯食べてたのと同じ。
焦ってるのは僕だけ……かぁ。
「…………ずっとずっと……あの、キルケーさん。いくつか、聞きたいことがあるんですけど……良いですか?」
「あたしで良かったら、うん。でも……ヘカーテが戻るのを待った方が良いかも。
あの子の方が、一応歳も上だし。あたしと違って、魔女のことにも詳しいから」
魔女のことに詳しい……ってのは、さっき聞いた話と繋がるのかな? キルケーさんは人間に育てられた……って。
そういうとこも含めて、この世界の在り方——ふたりの生まれや育ち、そして目的。それに何より……アレが何なのか。
紅蓮の魔女だのドロシーだの、名前と外見と強さと……そういうガワの情報ばかりが洪水みたいに押し寄せてて忘れてた。
あのマーリンさんみたいな魔女は、いったいどういう存在なんだ。
山程ある聞きたいことの中から、まず最優先でこれを……
「ええっと……何から話そうかなぁ。そうだ! ヘカーテの話しよう! ずっとずっと一緒に戦ってるからね、詳しいよ!
まず、飛ぶのが速いっていうのは言ったでしょ? それと……甘えん坊さんなのも教えたっけ。ええっと……」
「あ、あの……? キルケーさん……?」
ダメだ……っ。魔女……どうしてもシリアスブレイカー属性が強過ぎる……っ。
なんだか嬉しそうにヘカーテさんの——友達の話を始めたキルケーさんを、とてもじゃないけど止められなくて、僕は延々と惚気話みたいなものを聞かされ続けた。
うん……でも……むふふ。百合語りはウェルカム、ウェルカムですぞ。
ウェルカムしてる場合じゃないんだけどさぁ…………っ。




