第百十二話【二人目と三人目】
銀の髪。瑠璃色の瞳。大きな翼と、桁外れの魔術。
それはかつて、僕達を守ってくれた大魔導士の真の力——だった筈なのに——っ。
「————ミラ——っ! しっかりしろ——ミラ——っ!」
いくら土を掛けても服で叩いても、ミラの体に点った炎は消えてくれなかった。
熱いともがくこともせず、すっかり気を失ってしまっているらしい。
いや——まさか————っ。
いいや——そんな筈は無い————っ!
だって——だってマーリンさんが——ミラを——っ。
「————」
「——? 何を————っ!」
声が聞こえた気がした。
けれど、この場において音を発していたのは、僕と、僕の服と、焼ける土と木と草と、そして風だけだった。
だから——それは声ではなくて、僕が勝手に望んだ幻聴だったのかもしれない。
けれど……それはどちらでも良かったのだろう。
僕とミラは、突如吹き荒れた突風に吹き飛ばされた。
なだらかとは言え登りの斜面を押し転がされ、そしてまた木にぶつかって止まる。
その風が——暴風が自然のものでないことは、これまでの経験則と差し向けられていた手のひらになんとなく理解していた。
そう——差し向けられた、マーリンさんじゃないもうひとりの魔女の手のひらに————
「————っ。クソ——クッソォ——っ!」
魔具なんて無い。獣の肉体も無い。
手元にあるのはヤケクソじみた果敢さと、そして泥だらけの煤だらけになったボロのシャツ一枚。
これでなんになる、いったいどんな抵抗が出来る。
結果は火を見るよりも明らかかもしれない。
でも————っ。
「——守るって——決めてんだよ————っ!」
ぎりっと奥歯を噛み締めて、そして震える拳を思い切り握り込んでそれらと対峙する。
ミラを包んだ炎も、たった今突き飛ばしてくれた突風も。どちらも誰からの攻撃かすら分からなかった。
ただひとつ分かっているのは——完全無詠唱——マーリンさんのやってみせる桁外れの魔術と同等のものを、僕は相手にしなければならないということ。
それだけでもう十分、僕の戦意なんてものはとっくに消え果てて吹き飛ばされている。
立って睨み付けている理由なんて、もうひとつしか残っていなかった。
「————下がっていなさい——」
「——え——」
こちらに手のひらを向けた魔女——マーリンさんではない、髪の長い——金の瞳の魔女が、視線を僕と……まだ燃え盛っている火だるまへ——ミラへと向けた。
そしてすぐに————
「————っ——うわあぁあ——っ!」
また突風が吹き荒れて、そして僕もミラも斜面を転がされる。
だが…………どうだろう。ただ遊ばれているのでないとしたら、この魔術にはどうも危害を加えようという意思が見られない。
オックスの魔術剣のように切り刻むか、或いはうっ血するまで押さえつけ続ければそれで済む筈なのに。
でも、そうならない。そうされない。
答えは……その魔女の視線の先——炎を引き剥がされ、真っ黒になったミラの姿が露わになったことで判明した。
「——ミラ——っ! 助けて——くれた————?」
当然、信じ難いことだった。
それはつまり、あの炎はこの魔女による攻撃ではなかったということだ。
少なくとも、あの炎は僕達に敵対心を——害を成そうという意思の元に放たれた。
それと敵対するこの魔女の————そのひりついた緊張感が、マーリンさんに向けられていることが——
僕達を庇うこの魔女が————マーリンさんを敵だと睨み付けていることが————
「————っ」
やはり、言霊や陣の発動は見受けられなかった。
ただ、暴風が吹き荒れて——土が盛り上がり、植物は蔓を伸ばし、そして——近くに沼も見当たらないというのに、土の中から絞り出された濁流が——あらゆる全てが大挙してマーリンさんへと襲い掛かる。
どれもこれも規格外で、魔術と呼ぶには規模の違い過ぎる災害が、全てこの金の瞳の魔女の制御下にあることだけが理解出来て————
「————マーリンさん——っ!」
どうしても——っ。どうしても——信じられなかった。
僕達は守って貰った。何かからの攻撃——燃え続ける炎を消し飛ばして貰って、そしてその背中にかくまって貰った。
その炎の主だけは、紛れもなく僕達の敵であると断じなければならない。
けれど——その主を——魔女を——どうしても、認められないでいた。
だって————だってそうだ——っ。
だって——その人は————
木々をなぎ倒しながら吹き荒ぶ風も、その木々を押し潰しながら爬行する泥も、か細い首を捩じ切らんと飛び上がった蔦も——それら全てを平等に飲み込まんとした大波も——。全てが焼き尽くされ、世界から消え失せた。
積み上げたわらを燃やすみたいに、その炎は凡ゆる事象を焼き尽くす。
風が吹いていたという事実も、練り上げられた泥の蛇も、意思を持った植物も、津波のような破壊的な水流も————何もかもを無かったことにして、その人は炎の上に立っていた————
「————マーリン——さん——っ」
————この人が————敵だ————
かつてその人に褒められた僕の弱虫が、培ってきた彼女との絆の全てを踏み潰して警笛を鳴らす。
この人はマーリンさんではない。
少なくとも、僕達の知っているマーリンさんではない。
顔も、姿も、魔術も——本当に、翼以外の全部が瓜ふたつのこの人が————っ。
炎の上——陽炎の中で見開かれた瑠璃色の瞳には、反射する朱と冷酷さだけが輝いていた。
「————ヘカーテ——っ!」
また、声が聞こえた。
詠唱でも言霊でもないそれは、僕達の頭上から響いたものだった。
マーリンさんも、そして金の瞳の魔女も視線を上に向けるから、僕も釣られて空を見上げた。
見上げてしまったから——その次に起こる災害に、一切の備えなく立ち向かうこととなってしまった。
「————しま——っ。ミラ——っ!」
再び突風が吹き荒れ、しかし今度は全てを吹き飛ばすのではなく————ここら一帯を細切れにしようという鋭いかまいたちとなって、枯れた木々を容赦無く斬り倒し始めた。
腕が切られ、血が滲む。
屈んで、そして這ってミラの元へと駆け付ける。
庇うように抱き締めて目を瞑ると、また————また、轟音と共に熱が僕の背中を襲った。
かまいたちも、また全て焼き尽くされてしまったらしい。
「——キルケーっ! 抑えて!」
「——? 子供——っ! ごめん——っ⁉︎」
ぱきぱきと枯れ木が爆ぜる音以外に、ここへ来て初めて会話らしい声を耳にした。
さっき頭上から聞こえて来た、誰かをヘカーテと呼ぶ声。
それに、たった今聞こえた——さっき僕達に手を向けていた魔女の、誰かにキルケーと叫んだ声。
ゆっくりと顔を振り返ると、燃え上がる炎の前でふたりの魔女が並んで立っているのが見えた。
燃え上がる炎から——その主、マーリンさんから——僕達を守るように、立ちはだかっているふたつの影が。
「——守って——くれるのか——?」
返事なんて無かった。
そんなことをしている余裕が無かったのだろう。
杖も持たない三人の魔女は、互いにただ睨み合っていて————ただそれだけ、なんの言霊も無しで、苛烈な魔術をぶつけ合い続ける。
いいや——少し違う。
なんとか退けようと放たれ続ける魔術を、炎の魔女は全て焼き潰している様子だった。
「————なんだよ——なんなんだよ——ここは————っ」
ミラは言った。ここは、魔術の発達した世界なのだ、と。
だから、ミラよりも凄い術師のひとりやふたりは現れることくらいは覚悟していた。
むしろ、それによって僕も——力を減じられている今のミラも、新たに魔術を会得することが出来たなら——と、希望すら抱いた。
けれど、それは違った。あまりにもアテが外れていた。
この世界は——目の前にいる、この魔女達は————
「——————っ! ヘカーテ————っ!」
キルケーと呼ばれていた魔女が、大声をあげてこちらへと振り返った。
そして必死の形相で僕達に駆け寄ると、そのまま腕を掴んで引っ張り起こす。
逃げるよ——。と、それだけ言って、ヘカーテと呼ばれた魔女を残し、まるで船にでも乗っているかのように空を渡り始めた。
大きな翼を力強く羽ばたかせ、銀の羽根を散らしながら、渦巻く炎から遠退いて行く。
いつか——いつか、この感じを覚えた気がする。
そうだ——あの時、魔王の元へと向かっている時————いいや、もっと前。ゲンさんと一緒に、ミラに背負われて空を跳んだ時の————
炎はすぐに見えなくなった。
そして……僕達は洞窟の中でやっと船から降ろされた。
大きな翼をいたわるように撫でると、魔女は綺麗な金色の瞳を——あのヘカーテと呼ばれていた魔女のものと同じ瞳を僕達に向ける。
いいや……僕の腕の中、ミラへと……
「…………にん……げん…………っ! 人間——っ⁉︎」
人間……?
ひとまず危機が去ったということと、それから目の前の魔女の抜けた表情とが僕の緊張感を少しだけ弛めた。
い、いやいや……ちょっとちょっと。ごほん。危機が去ったのではなくて、僕達が危機から……あ、そこはいいですか。くぅ……ボケ損ねた……っ。
「あ、あららー……あの子、また変なもの拾ったと思ったら……へぇー、人間なんてまだ居たんだね」
「え、ええっと……」
じろじろと僕達のことを観察する……ええと……キルケー……さん?
金色の瞳、高い鼻、それにちょっとだけそばかすのような細かい斑点が鼻や頰に浮いている。
それと……やはり、銀色の髪に銀色の大翼。
ボブヘアとでも言うのか、活発そうな印象を受けるショートヘアが……どこか……少年らしささえ…………感じ………………させる……暇も無い程…………大きくて……たわわな…………ものが………………ち、近いぃ…………でゅふふ……
「…………でも、そっちの子はダメだね。ごめん、遅かったかも。まさか、あたしら以外に生きてる奴が——それも人間が残ってるなんて、思ってもみなかったから」
「え……ええっと……?」
あたしら以外に……生きてる奴が…………っ⁈ そ、それって……貴女方以外、生きてる人がいらっしゃらないという…………っ⁉︎
だ、だめだ……冷静に物事を考えられない。
ち、ちかい…………マーリンさんより大きいかもしれない、ボヨンとしたものが…………っ。
翼の為に背中のバックリ開いたドレスのような……けれど、華美さも重厚さも無い、くすんだ薄黄色のワンピースが……その薄い生地が、暴力的なまでの質量に張り裂けそうになっている……っ。め、目の毒過ぎる……
「…………って——ミラ——っ! ミラ、しっかりしろ! ミラ——っ!」
いかん! 忘れてた! いや、忘れてはないです。決して忘れてはないです。
大事な妹、世界一可愛い妹。忘れるわけがない、忘れてたまるか。
僕は抱き締めたままだったミラを、大慌てで地面に寝かせた。
せめて……と、焦げた僕のシャツを枕にして、横向きに身体を丸めさせて。
「いやいや、無理だって。ごめん……遅かったことは謝るよ。だけど、アイツに焼かれて無事でいられるわけが…………」
首に……頚動脈に指を当てれば、まだしっかりと脈がある。
忘れるわけがない。いいや、忘れていなかったからこそ。
ミラは生きている。生きているミラは——死んでさえなければ、ミラはどんなとこからでも復活する。
自己治癒のふざけ切った能力が、どんなところからでも再活させてくれる。
あっちゃいけない、出来れば避けたいと考え続けていた瀕死からの治癒だが…………っ。
それでも、死なずにいてくれるとだけは信じていた。
「…………うっそ……それ、そっから……」
——バサッ——。と、羽ばたく音がして、そして大きな翼のシルエットが洞窟の入り口の光を切り抜いた。
一瞬だけの硬直の後、僕は急いでミラを庇う為に立ちはだかる。
だが……やってきたのは、柔和な表情の女性——ヘカーテと呼ばれていた、もうひとりの魔女だった。




