第百七話【後に遺るもの】
やっと僕が泣き止むと、マーリンさんは、ご飯にしよう。と、優しく笑った。
ご飯……そうだ、帰ってきたんだ。
たったひと晩——三十五日に渡る旅は終わった。
ここは王都ユーゼシティア。あの化け物もいなければ、獣人なんてまず見かけない。
僕が人生で二番目に長く過ごした世界が、国が、ここにはある。そして……
「ん。おはよう、ベルベット。素直じゃないね、お前は」
「…………ふん」
マーリンさんに連れられて部屋から出ると、そこには随分と眠たそうな顔をしたベルベット少年の姿があった。
ベルベット=ジューリクトン。まだ出会って日も浅い彼だが、なんとなくその在り方を理解し始めた気がする。
「おはよう、ベルベットさん。ちゃんと寝ないと、成長しないよ? ミラちゃんみたいに」
「——っ! アギトお前っ! 俺をあんなチビと一緒にするな!」
素直じゃないなぁ。って、マーリンさんはニコニコ笑って少年の頭を撫でる。
それを鬱陶しいと振り払うと、ベルベット少年はプンスコ怒ってエルゥさんの部屋に入ってしまっ…………え……? な、なんでそこに入ったの…………っ?
も——もしかして——ベルベット×エルゥなの⁉︎
いや! エルゥ×ベルベット! おねショタの逆転はぜってえ許さねえからな! じゃなくて。
「おーい、こらこら。このバカアギト、突然立ち止まるんじゃない。朝ごはんだよ、先行っちゃうよ」
「…………はぅあっ⁉︎ あ、朝ごはん……?」
昨日の今日だけど、君は随分久しぶりだからね。と、マーリンさんは僕の手をぎゅうっと握って…………はふぅん、しゅきぃ。
グイグイと引っ張って、少年の後を追うように部屋へと入った。
そして、そこには少年だけじゃなくて……
「おはようございます、マーリンちゃ…………えっ? えっ、えっ⁉︎ も、もしかして…………やっぱりおふたりって——っ! きゃーっ!」
「あはは、相変わらず賑やかだね。おはよう、エルゥ。残念ながら、君をあんまり喜ばせてあげられるような事実は無い。でも…………うーん。そうだなぁ……」
アギトにもうちょっとだけ勇気と甲斐性があったら、もしかしたらもしかするかもね。なんて、マーリンさんはちょっと意味深な笑みを浮かべて………………えっ?
そ、その発言…………それはつまり、押せば……その…………そういうことでよろしいのか……っ⁉︎
ヘタレを克服した暁には…………って、ご褒美チャートがちゃんと存在するって認識を持ってしまっても構わないのでしょうか——っ⁉︎
「あらあら、随分仲良しさんね。おはよ、巫女ちゃん、アギトちゃん。エルゥ、くねくねしてないで早く支度しちゃいなさい。ベルベットちゃんも、つまみ食いしない」
オカン。どうしてだろう、このオネエがオカンに見える。
朝からシャキシャキとみんなを取り仕切るのは、相変わらず存在がうるさいピンク坊主のオネエ——ハーグさんだった。
なんだろう、オカン属性がやたら似合うな。
でも……でへ、そんなに仲良しに見えます? でへへ……いやぁ、参っちゃうなぁ。
「……っと、あれ? レイさんは? あんな大男、どこにも隠れようがないと思うんだけど……」
「ああ、レイならもう出てるわ。ここの手伝いもするにはするけど、私とレイはそもそも冒険者……戦う人間だから。
ただでさえ東のことでゴタゴタしてるんだから、のんびり受付嬢なんてやってられないのよね」
嬢ではない。嬢ではないが…………成る程、納得。
決して受付嬢という単語に納得したわけではなかったが、ハーグさんの言う東のゴタゴタには覚えがある。
はあ……なんだろ、ちょっと鬱になりそう。
最期の時、ミラとそういう話をしたのだ。
あの旅は——世界は、嫌なこともあったけど、基本的には楽しかった。
結局、アイツらさえ絡まなければ最高の思い出になったんだ。
あの獅子頭と、東——魔人の集い、及びゴートマンとが、どうにも被って仕方がない。
「…………なんとかしないとな。楽しい思い出、いっぱいあるんだ」
怖い顔しないの。と、ハーグさんはニコニコ笑って、そしてナチュラルに僕の乳首をつついた。
やめっ…………お前、本気でいい加減にしろよ……っ!
そういうのはな……そういうのは、マーリンさんやエルゥさんみたいな美少女にして貰いた——股間に手を伸ばすな——っ! やめ——やめろこの馬鹿野郎——っ!
「うーん、相変わらず読めないわね。巫女ちゃん、本当にどういう子なの?
昨日はなんだか言いくるめられちゃったけど……ううん、この子がなんでアナタと一緒にいるのか、じゃなくって」
「あー……あはは、確かに君には不思議な生き物に見えるかもね。うん……そっちの詮索については何も咎めない。仲良くしてやっておくれ、この子は寂しがりだから」
そうなのねっ! かわいいっ! と、なんだか鬱陶しいことこの上無いテンションで、ハーグさんは僕のことを抱き締めた。
やめろ、上書きすんな。それはマジでやめろ、僕の幸せを奪うな。
僕はな…………っ。僕は……マーリンさんにぎゅってして貰った感触が何よりもの宝物なんだ……っ。
ぐいっと手で突っ張って押し返すと、なんだかちょっとだけ嬉しそうな顔で、い・け・ず。などとほざく始末。コイツ……
「……仲良く……ね。アギトちゃん、これからもよろしくね。なんとなく……うん、なんとなくだけど。貴方とは長い付き合いになりそうだわ」
「うげっ…………そ、そうですかね……? はは……よろしくお願いします……」
そういう顔も好みよっ! と、また尻を揉まれた。
流石にこれ以上の接近は貞操の危機を感じる、逃げよう。
もう獣の瞬発力なんて無い筈のアギトの身体で、僕はミラもかくやと言わんばかりに飛び退いてマーリンさんの後ろに隠れた。
意外なことに、体は本当に動いてくれて……
「…………アギト……今の……」
「……な、なんか…………体が……」
体が……軽い……っ⁈ なんで⁉︎
昨日まで……あー……えっと…………こっちの世界での昨日までは出来なかった筈のことが、どういうわけかひと晩明けてみたら出来るようになっていた。
そんなにたいそうな話でもないのだが、どうにも様子が変だぞ。
その場でピョンピョンと跳ねて、力を溜めて……ぎゅんっ! と、回りながら跳んでみると——視界は二回転くらいして…………壁が物凄い勢いで迫って来——
「——ぶべっ⁉︎ いっちちち……」
「…………意外と動けるのね、アギトちゃん。ちょっと不格好だったけど」
動け……る……動けるってレベルじゃない!
二回転した! ダブルアクセル(?)!
顔を抑えてちょっとだけ喜ぶ僕を、マーリンさんは不思議そうな顔で見つめて…………そ、そんなに見ないでよ……でへ、照れちゃう……
「…………精神が向こうに適応し過ぎてしまったんだね。さてと……うーん、ちょっと予想外だ。困ったな……」
「へ……? 困……るんですか?」
困るとも。と、マーリンさんは頭を抱えて、そして…………僕のことをぺちぺちと殴り始めた。
いたいいたい、ちょびっとだけ痛い。ちくしょう、なんだその可愛い攻撃は。もっとドシドシこんかい! いでっ! グーはやめて、グーは。
「困る。うん、困った。次は…………ちょっと、前よりも間を開けようか。このままだと戻って来られなくなる。
ハーグ、アギトのことお願いしても良いかい? しばらくここで働かせてやって欲しい」
「ええ、私達は良いけど…………アギトちゃん、随分驚いてるわよ?」
待ってよ——っ! 預けるならせめてエルゥさんに預けてよ——っ! ごほん。
前よりも間を開ける……って、そんなことしてたらミラの記憶が……っ!
色々文句があるのに、この場じゃなんにも言えやしない。
モゴモゴと口だけ動かしていると、そんな僕の心を見透かしてか、マーリンさんは僕のことを引っ張ってまた部屋の外へと出て行った。
あっ、まっ……待って、確かにみんなの前じゃ出来ない話だけど……いきなりふたりっきりは…………っ。
「——アギト、結論から言うよ。君の精神は、未だ獣の肉体に順応したままだ。長く居させ過ぎた、僕のミスだ。ごめん、次からは修正する。
これから時間を掛けて、今のアギトの肉体に馴染ませ直していくよ」
「…………えっと……? それって……」
ダブルアクセル出来なくなっちゃうの……? 僕のそんな問いに、マーリンさんはちょっとだけ笑うのを我慢して……小さく頷い……な、何がそんなにおかしいのさっ!
「いや……ぷぷ……っ。なんと言うか……可愛いこと言うな、君は。ベルベットなんかよりよっぽど子供らしいよ……ぶふっ」
「——っ⁉︎」
だ、誰が子供だ——っ!
憤慨する僕を他所にひと通り笑うと、マーリンさんは今度こそ真面目な顔を取り戻して僕に向き合った。
むむむ……だ、誰がお子様だ…………た、確かに…………その…………そう…………被って…………ぐすん。
「出来なくなるね。ううん、本来は出来なくて当然。
今の君は、言うなれば自然に強化状態を維持しているようなものだ。
それは……良い意味ではなくてね。
自分の肉体の許容範囲を掴みあぐねている。いつか自分の力で怪我をしかねない、それも取り返しのつかないような大怪我をね」
「っ! そ、そんなにヤバイんですか……俺がダブルアクセル出来ると……」
今はかなりヤバイ。と、ハッキリ言われては……しょんぼり。
成る程、完全に理解した。
昨日まで旅をしていた強靭な肉体——それこそ、ミラと並んで戦える程の肉体のイメージを、まだ引きずってしまっているらしい。
それで……なんと言うのか、常に火事場の馬鹿力的な状態なんだろう。
それだと怪我をするぞ……と、そう言われた……んだよね?
「まずは、このアギトの肉体の限界……ポンコツさ加減を思い出すこと。
そしたら……折角だ、さっきのが出来るようになるまで鍛えてみようか。
一度出来たという経験は、何よりも優れた手本になるものだ。
頑張れば、きっとオックスみたいに強い体を手に入れられるかもよ?」
しれっとポンコツとか言うな。でも……マジ?
オックスって……オックス? 僕の友達の、オックスくん? 同姓同名の別人……とかじゃないよね?
まだまだ成長期だからね。と、ニコニコ笑って、マーリンさんは先にエルゥさんの部屋へと戻ってしまった。
そっか……そっかそっか、僕も頑張れば……
「…………ってことは……」
いつか……また、秋人の肉体に戻った時にも……っ。
なんだかちょっとだけ高いモチベーションを持って、僕は肉体改造の為にもご飯をいっぱい掻き込んだ。
そんなんなくても美味え! 毎日でも食べたい! さっすがエルゥさ…………え? 今日のご飯当番はハーグさん…………?
な、なんだその目は……やめろ、違う、そういう意味じゃ————




