第百三話【折れた心と挫けぬ勇者】
——嘘だ——
自分の口から出たその言葉だけが、頭の中でぐるぐると回っている。
ああ——これには覚えがある。この嫌な熱には——この憤りには覚えがある——っ。
「————ここへ来る前、先日の仮面の男を見つけました。何者かに倒されていましたが……あれは……」
二度目だ。
あの時——アギトが死に、そしてそれを受け入れてしまった瞬間。
あの時と全く同じ苛立ちを、僕は頭と心と——そして、体の至る所で感じ取った。
ぐつぐつと煮えた油の中に浸っているような、そんな熱が全身を焼く。
「…………で、あれば。或いは、日常的な出来事だったのかもしれませんね。
さっきの銃声……あれは、人を襲う人……獣の特性を強く引き出してしまった人々から、身を守る為に開発された武器なのかもしれません。
獣狩りをする必要の無いこの世界では、銃口を向ける相手なんて限られますから。それとも——ええ、そうですね。やはり————」
「——ミラ——」
————滅びの原因は、ここにあるのかもしれません——
なんだ、何がどうした。
おかしい。耳に届くミラの言葉が、どれもこれも淡々としたものに聞こえてしまう。
だって……だって、ミラだ。
誰よりも他人が好きで、他人に愛して貰いたくて、他人のことで涙を流せるあのミラなんだ。
だから……僕の中の感情が大きくなり過ぎていて、ミラの感情の機微を上手く捉えられてないんじゃ……って……そう、思ったのに……
「……人間と獣の差……について、今は考える余地はありません。
ですが、その在り方だけがこの世界にも——この世界の根っこにも存在しているとすれば。
獣は弱者を喰らい、人は喰われぬように道具を——文明を発展させる。
この世界に足りていなかった獣という要素を補う為に、人々が変わり果て、そして……共に殺しあってしまう。
そういう結末を、この世界は迎えようとしているのでしょう」
「——————っ!」
彼女の口からこぼれ続ける言葉は、どれもこれも酷く冷たいものだった。
ふざけるな、そんな理屈があってたまるか。
そんな理屈を——人の不幸が当然のものであるかのような口ぶりを、勇者であるお前がどうして————っ。
殴ってやりたい、なんとしてもその言葉を撤回させたい。
誰よりも大切だった筈のミラにそんな怒りを覚え、僕は歯を食いしばり、拳を握り締めて振り返った。
だけど……すぐにまた、込めた力を全部取りこぼしてへたり込んだ。
「————先へ——っ。先へ進みましょう、アギトさん。私達にはまだ、やらなくてはならないことがあります……っ」
「————ぅぁ——ぁぁあ————っ」
そこにいたのは、血が滴る程拳を握りしめた少女だった。
この理不尽を前に、抗議の言葉をいくつも並べたいのを我慢して、必死に歯を食いしばって感情を圧し殺そうとしている。
フッ——フーッ——と、息が荒くなるのを無理矢理押し込めて、ミラは僕に立つようにと指示をした。
僕は…………っ。
「…………あんまりだよ……っ。こんなの……こんなお別れがあってたまるかよ…………っ」
泣き言をひとつこぼしてしまった。
けれど……だって、しょうがないじゃないか。
だって…………友達だったんだ……っ。
何も分からない世界にやって来て、初めは情報収集の為に取り入ったのかもしれなくても、ずっとずっと旅を共にした仲間だった。
それが————
「————ぅぅうぁあああ——っ!」
————バズンッ。と、叩いた顔からちょっとだけくぐもった音が響いた。
毛むくじゃらの顔に分厚い肉球だから、パシンなんて景気の良い音は鳴らなかった。
けど、それでも痛みは変わらない。
頑丈になった体も、その分強くなった力で叩かれれば痛む。
だから……結果は変わらない。僕は——
「——行こう——っ。このままじゃ終われない……こんな下らない出来事がエンディングであってたまるか……っ。
この世界を救う、欲しかったもののひとつくらいは手に入れて帰る。
急ごう、ミラちゃん。まだ此処にいる、時間が残っている限り」
「……はいっ!」
切り替えなんて出来ない。
忘れることも、彼の為にもなんて奮起することも出来ない。
だけど……壊れた心で歩き続けるコツだけは知っている。
進む。進んで、進んで。その先で、必ず成功する。
かつてミラと交わした約束を違えるな。
それは、何も秋人としてだけの約束じゃない。
世界を救った勇者の片割れとして、その栄誉に恥じぬだけの生き方を貫いてみせろ。
「——っ……ミラちゃん。ごめん、さっきの話だけどさ……」
「……大丈夫です」
大丈夫なもんかよ。
だけど……だからって無視出来ない。
ミラが気付いてくれた可能性——それが開き直りにも似た当てつけみたいなものだとしても、とても無視出来る内容ではなかった。
この世界を救う糧にしろ。どんな楽しい思い出も、踏み潰して登り詰めろ。
お前はそれが出来る、それだけを頑張ってこの半年を生きて来たんだ。
今この時は、アギトよりも強い秋人として——っ。
「あくまでも可能性の話であり、そして同時に……その結果も、また薄い可能性でしかありません。
私達の世界でも、人同士の諍いで死人が出るというのは当然あります。この世界だけの特別なものではありません。
ですので……そこのひとつ前の違い、人としての在り方について」
世界の終焉——人類の終わり。もしかしたら、人の尊厳、価値の置かれようを意味するのかもしれません。と、ミラはそう続けた。
相変わらず難しい言葉を選ぶようになったものだ。
だけど……うん、頑張って理解する。
ミラだってこんな話をするのは心苦しいだろう。それでもしてくれるんだ、僕だけボケてちゃ話にならない。
「人と獣の差。それは、他者を尊重出来るか否か……と、言い表すことが出来るでしょう。
勿論、獣も群れを作りますし、長だって決めます。
そうではなく、相入れぬ相手——それこそ、別種を前にどういった対応を取るのか……と。
寛容性、多様性の喪失が、この世界では起こり始めているのかもしれません」
「…………それは……」
あの集落と、そしてたった今起こったこの街での出来事を許容しろ……と。そう此処の人達に求めるって話だろうか。
ミラは小さく首を振って、しかし、結果としてはそういう意味になってしまいます。と、諦めたふうな言い方で締めた。
「食の多様性、住む場所の多様性、政治の多様性。趣向や言論、或いは活動。この世界は、比較的多くのものが縛られてしまっています。
閉鎖的な街々、限られた食料。それに、活動時間を制限した街。
ある意味では、獣のようだと思ったあの獅子頭が、最も人らしい好奇心を持っていたのかもしれません」
「……嫌な話させてごめんね。ありがとう」
このくらい。と、ミラは頑張って笑ってみせた。
それが懸命に作り上げた笑顔なのは、付き合いが長くなくたって分かっただろう。
さあ、じゃあその答えを——その結末を回避する方法を考えよう、探そう。
僕達は街に背を向け、誰にも鉢合わせないように静かに立ち去った。
目指す場所は無い。戻れない場所ばかりで、戻りたい場所ばかりなのに——進みたい場所はどこにも無い。
でも、帰る場所があるのだから。
「——楽しかったです。ごめんなさい……約束……守れなかった……っ」
僕達はひたすらに進む。
林を抜け、草原を歩き、川を越えてもなお進む。
日が暮れれば月明かりを頼りに。雨が降れば風の匂いを頼りに。
歩いて、歩いて歩いて……そして、彼との思い出の全てを抱きかかえたまま、この旅の果てを目指す。
彼がかつて口にした、遠い遠い海を求めるように。
四日間の野宿の末に、僕達はまた小さな村を発見した。
これまでに訪れた街とは比べ物にならない、本当に小さな小さな村だ。
けれど……今の僕達には、それがとてもありがたかった。
この世界に来てからとっくに三十日以上が経過している、いつ強制退去になるか分からない。
だと言うのに、歩けど歩けど大自然で……もう、精神的にクるものがあったのだ。だから……
「………………っ! たてもの…………建物だっ! ミラちゃん!」
「……たて……もの…………街っ! どこですか⁉︎ アギトさん!」
ごめん。街と呼んで良いかは分かんない。と、予防線を張って、僕はミラに見つけたばかりの村の在り処を指し示した。
するとミラは、ぴょんぴょん跳ね回りながら僕の体をぽこぽこぺちぺちと叩き始めた。
おいおい、はしゃぎ過ぎだろ。まったく、どれだけ人恋しかったんだ…………ではなく。
「…………多分、最後のチャンスです。アギトさん、気合いを入れて行きましょう」
「当然。絶対救う、終わらせてたまるか。それさえ出来なかったなら、俺達は何しに来たか分かんないもんな」
こくんと頷くミラに、つい昔の癖で拳を突き出した。
すると、なんだかちょっとだけ恥ずかしそうにしながらも、ミラはそれにこつんと拳をぶつけてくれた。
やろう。なんとしても、この世界を——と、気合い十分で走り出す。
村は川の近くに作られていて、柵も何も無いから飛び込むのに障害は無かった。
さあ、聞き込みだ。それとも、何か遺跡めいたものでも探そうか。
とにかく、この世界の終わりに関わる重大な手掛かりを見つけ————
「————大変だ——っっ! 誰か————誰か手伝ってくれ————ッ!」
————るぞ。と、鼻息を荒げた僕達の耳に、随分と不穏なSOSが飛び込んで来た。
き、来て早々…………いや、好都合だ!
確認なんてするまでもなく、僕もミラも揃って声のした方へと向かった。




