第百二話【果てに】
ぶつ——っ——ざざ——と、思考回路にノイズが混じる。
元から大したものじゃないけど、それにしたってあまりにも機能してくれない。
今——何が起きた——?
僕達は、エヴァンスさんと一緒にご飯を食べようと思って——病院まで向かってて————それで————
「——しっかりしてください——アギトさん——っ!」
「————っ」
ガリッ——と、なんだか懐かしい痛みが首元に走って、そして僕はようやくこの場所へと意識を取り戻した。
どうやら、呆け切った僕を、ミラが噛み付いて叩き起こしてくれたらしい。
それ……そっか、それで懐かしさが————じゃない——っ!
「——エヴァンスさん——っ! なんで——さっきの————だって——」
「落ち着いてください、アギトさん! これは——っ。考え得る中で、最も悪い可能性を引き当ててしまったみたいです。どうやら、病室で起きたことは全部————」
——エヴァンスさんが——っ。
血が滲む程唇を噛み締め、ミラは険しい顔で病院の入り口を——さっき僕達が通った道を睨み付ける。
考え得る最悪の可能性……って……まさか…………っ。
「——伝染したんです。アレが病気によるものなのか、それとも…………っ。ソレを“知ること”で、本来持っているべき獣の本能を呼び起こしてしまったのか。
どちらにせよ、エヴァンスさんは…………人ではなく、獣として在ることを選んでしまいました」
「獣として——っ。じゃあ…………どうしよう……っ。このまま放っておいたら……」
捕まえます。捕まえて——裁きます。と、ミラは躊躇無くそう言った。
それって——っ。それってつまり……エヴァンスさんを、人殺しとして…………っ。
違う。彼は友人だ、仲間だ。
とても良い人だった、そんなのずっと一緒だったんだから分かるだろ。
口を衝きかけた言葉達は、強過ぎるミラの眼差しを前に行き場を失った。
その顔は——知らない。僕はお前のそんな顔を知らない。
悪を悪として断じる、冷徹な正義の貌を僕は知らない————
「友人でした。仲間でした。けれど——それと、その罪を見逃すこととは別です。大切な方だったからこそ、せめて私達の手で。急ぎましょう、アギトさん」
「急ぐって……っ」
まだ日の落ちきっていない薄暗い街に、女性の悲鳴が轟いた。
まさか——まさかエヴァンスさん——っ。
騒ぎを聞き付けた看護師や他の入院患者が、ぞろぞろと顔を覗かせ始めた。
そして——すぐにその臭いから惨状を見つけてしまう。
そこに転がっているものの意味を——今の悲鳴の意味を——っ。
そして————似た話を彼に説明した、来たばかりの新顔ふたりの姿を————
「——走って——っ! 私達も————私達も例に漏れません。免れ得ません、その誤解は。少なくとも——この現場で一番不審なのは————」
「————っ——どうして————どうしてだよぉお————ッ!」
どうして——どうしてこうなった——っ。
だって、昨日一緒になってゴミ漁りをしたんだ。
部屋が汚いって嘆きながら、一緒に掃除をした。
ひと晩経って——たったそれだけで——っ。
弁明なんてしてる余裕は無い。
して、それで僕達を見逃して貰って——じゃあ、その間エヴァンスさんはどうなる——っ。
「——っ。捕まえよう、俺達で。でなきゃ……でなきゃエヴァンスさんは…………っ」
「…………はい!」
何よりも、誰よりも先に彼を追いかけないと。
僕達が捕まえる、僕達が裁く。
せめて——ただの人殺しではなく、あの狂った出来事の被害者として——っ。
僕達が彼を————
廊下から続いていた血痕——恐らくはエヴァンスさんのものでないそれは、乾いた砂地にぷつぷつと黒い跡を残していた。
これを辿って行けば——っ。
だが…………脚が竦んでしまった。
先生だけじゃない、既に他の誰かにまで被害が——と、そう考えると————彼がソレをしでかしてしまった証拠を見たくなくて、ここで立ち止まって諦めてしまいたかった。
でも……僕達はそれを許さない。アギトも——ミラも——っ。
「——揺蕩う雷霆——改————ッ!」
——立ち止まるな——と、強く背中を突き飛ばされた気分だ。
雷の強化魔術はアギトの身体を包み込み、青白い稲光を伴いながら前へ前へと進みだす。
この力は、勇者の力。世界を救う——誰かを救う、正義の為の力——っ。
ミラに手を貸して貰っているこの瞬間は——ふたりでひとつの勇者として在るこの瞬間だけは————
「——っ——エヴァンスさん————」
もしも彼が街の人を襲ってしまったなら、きっと僕達は追い付けるだろう。
確かに身体能力は高いが、強化魔術を前には人も魔獣もこの世界の獣人達も違いは無い。
ただ——彼の理性が———正義感が——残っているその心が働いているのならば——
「——っ。外に————っ。アギトさん、手分けして探しましょう!」
血痕は街から出てすぐの草原で途切れていた。
そして…………草を踏み倒して作られた足跡は、鬱蒼とした林の方へと向かっている。
もしも彼が全力で逃げているのだとしたら、臭いを辿っていては追い付けない。
いくらなんでも、強化状態の速さでは臭いなんて自分で巻き起こした風で流れていってしまう。
それを避ければ——ゆっくり鼻を利かせてなどいれば、当然速さで追い付けなくなるだろう。
となれば、ミラがその判断に辿り着くのは必然であった。
そうだ、冷静に考えられる今のミラなら……
「…………っ……分かった。見つけたら合流しよう。三人揃ってれば……きっと……」
きっと……なんだ。お前はどうするつもりなんだ。
彼を許して、そしてまた共に旅を続けようだなんて言うつもりか。
答えは…………分からない。
僕自身、何をしたいのかがまるで分からないでいた。
ハッキリしていることは、とにかく話がしたいということだけ。
もう一度、彼と向き合って言葉を交わしたい、と。
ただそれだけを願って、僕達は全速力で林へと飛び込んだ。
「——エヴァンスさん——エヴァンスさーん——っ!」
名前を呼んで、せめて知っている奴らに捕まろうなんて気になってくれれば……っ。
こうして誰も襲わずに逃げて来たんだ、きっと彼の中にはまだ心が残ってる、絶対に。
その衝動と、今もひとりで戦ってるんだ。
強化を貰ったってのに、脚が全然前に進まない。
精神的な焦りで錯覚しているだけじゃない。背の高い草と、低い所まで枝を伸ばした木々に、物理的に遮られてスピードが出せないでいる。
でも……その条件なら彼だって……
「……ミラ……お前なら……」
——違う——っ。縋るな、頼るな——っ。
ミラだけに押し付けるな、お前の友達だったんだ。
絶対に見つける、誰よりも先に見つける。見つけて……とにかく、見つけて安全な場所まで連れて行く。
くそ……っ。あの街が安全だって、平和で長閑で、療養するにはもってこいだって……思ってたのに……っ。
なんで……なんでこんなことに……っ。
林に入って数分もすると、ざわざわと人の声が沢山近付いて来るのが分かった。街の人達も捜索に来たんだ。
まずい、早く見つけないと。
大勢に取り囲まれてパニックを起こしてしまったら、それこそ取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。
なんとしても————
「————っ——この臭い——っ!」
ツンと鼻を突いたのは、気分を悪くさせる血の臭いだった。
近くにいる——っ。近くにエヴァンスさんが————?
血の——血の匂いだけじゃない、コレは————
「——ウガァアア————っ!」
「————っ——うわぁあ——っ!」
鼻に届いたのは、あの時嗅いだお香の匂いだった。
そして、現れたのは————仮面も、鈴の付いた杖も無い、口の周りを真っ赤に染めた獅子顔の男だった。
あの時の——っ。まさか、本当にここまで追っ掛けて来て————っ。
いいや、違う。追い掛けて来られるわけがない。
そして——追い掛けて来ていたのならば——こんなにも新しい血の臭いを身体中に纏わせているわけがない——っ。
コイツは————この林は——コイツらの活動圏内だったんだ——っ!
「——っ! クソ——退けよ——っ! 退け————お前達に構ってる暇なんて無いんだよ——っ!」
獲物の血なのか涎なのかも分からないものを撒き散らしながら、男は僕に向かって飛び掛かって来る。
強化済み、それに獣の能力でスペックも底上げ済みとは言え、あの戦い以降ただの一般人だった僕には、とっさの防御なんて出来っこなかった。
突き飛ばされて、組み伏せられて、鋭く尖った爪と牙を向けられる。
コイツ——っ。
分かってたけど、めちゃめちゃ重い——っ。
体勢が悪い、力が入らない。お腹の上に乗られて、ブーストされた筋力を振るう余地が無い——っ。
このままだと————
「————雷霆の外套——っ!」
「————ッ——ゥァガァア——ッ‼︎」
——バァン——と、大きな音が鳴って、そして獅子頭は大きくよろめきながら飛び退いた。
ミラから貰ってた魔具、全身スタンガンの防犯グッズがまさかこんな形で活きるなんて。
やっぱりアイツの力を借りないと話にならないのかよ——なんて自虐してる暇は無い。
今のでコイツも完全に臨戦態勢だ。獲物ではなく、外敵として僕を睨んでいる。
だったら……真正面から————
「————玉響の陽光——っ」
もうひとつの魔具——強力な発光機のようなもので目を眩ませ、そしてその隙に思い切りタックルをぶちかます。
強化込みの上、全体重を乗せてのしかかるようにぶつかったんだ。いくらコイツが頑丈だとしても、当然耐えられるわけはない。
思い切り吹き飛んで、一緒になって倒れ込んで。そして、獅子頭は口から血を吐きながら気絶した。
ま、まさか内臓破裂……そこまでやっちゃったか……っ⁈ と、不安になったが、どうやらただ飲み込んでいた血肉を吐き出しただけらしい。
だけど……死なれちゃ寝覚めが悪い。仰向けはダメだ、気道確保しなきゃ。
体を横にして、顎を引かせて顔を下に向ける。呼吸音……うん、よし。
「…………悪く思うなよ。こっちだって…………っ」
こっちだって必死なんだ。
けど……今ので結構時間使った、もう街のみんなも林全域に捜索範囲を広げている。
マズい。いくら僕とミラが強化で早く動けても、それは真っ直ぐ逃げ続けてる時にしか意味が無い。
どこかに身を隠していたら、この数の差じゃ先に見つけられちゃう。
だったら……だったら、僕も鼻を使って……
「すんすん…………うえぇっ⁈ くっ……さっきのアイツの所為で……僕にまで……」
ダメだ、血の匂いが自分から漂ってくる。
こうなったら、やっぱりしらみつぶしに行くしかない。
急げ——急げ——頼むから急いでくれ——っ。
脚が遅い、どうしたんだ。
答えは単純、さっき戦った所為で強化魔術が切れちゃってるんだ。
でも……でも、まだ——
「——————エヴァンスさん————?」
——声が聞こえた気がした。
アギト——と、微かにだが、僕を呼ぶエヴァンスさんの声だった。
近くにいる——声の届くところにいるんだ——っ!
エヴァンスさん——っ! と、大声で呼び掛けるも、返事は無い。
どうして、さっきの声は幻聴だったのか。
返事をしてくれ、お願いだ。お願いだから————
————パァン————と、少し近くで嫌な音が聞こえた。
それは——この世界には無いのだろうと思っていた、外敵を撃ち倒す為の兵器の音だ。
獣を捕まえる為の——敵を倒す為の武器の音————聞こえちゃいけない銃声だった——
「——嘘だ——」
音のした方へと急げば、そこには長銃を担いだ三人組の男の姿があった。
そして——自分にこびりついたものにもかき消されない程の、濃い血の臭いが————
「————嘘だ————」
そこにあったのは、三人の男の冷め切った表情だった。
銃を肩に掛け、そして布で包まれた何かを運び出す街の人達の姿だった。
布からはみ出して垂れ下がった、大切な友達の大きな腕が————真っ赤な血を滴らせながら連れて行かれてしまう光景だった————
「——アギトさん————っ。今の音は————」
————間に合わなかった————
そう突き付けられた僕は、その場でへたり込んで途方に暮れてしまった。
ただ、譫言を繰り返しながら——それが見えなくなるのを黙って待つしか出来なかった。
「————嘘——だ——————」




