第百一話【成れり】
結局、おじいさんから頂いた箱の中には、手掛かりになりそうなものなんてロクに無かった。
書物のようなものを見つけても、劣化が著しくて読めたものじゃない。
インクは勿論、ペンの跡すら消えてしまっている。
そんな紙束を僕達が掃除している間にも、ミラは必死に解読しようと試みてたけど……それでもダメで。
がっくり肩を落として、昨晩は眠るまでしょんぼりしたままだった。
で、ひと晩経ってお日様も昇ったわけだけど……
「むにゃむにゃ……んー…………んんー」
ぐるぐると喉を鳴らしながら、ミラはやっぱり僕のお腹の上で伸びをした。
慣れた。なんとなく慣れた。
鳩尾に乗っかられるのは、そこが座りの良い場所だから。
ちょっとだけ体勢を変えてやったら、驚く程あっさりと胸の上に誘導出来た。
いや、それでも苦しいは苦しいけど。
そんな簡単な作りのミラが目を覚まして、やっと今日も一日が始まる……って。そう思ってた時のことだった。
「……? エヴァンスさん……? エヴァンスさん、大丈夫ですか?」
僕の上からさっさと退くと、ミラは心配そうな声を掛けながら、エヴァンスさんの方へと駆け寄って行った。何ごとだろうか。
その声で目が覚めたって顔で僕も起き上がると、そこには苦しそうにうなされているエヴァンスさんの姿があった。
小さく縮こまって、シーツが破れてしまいそうなくらいに握り締めている。
ただ嫌な夢を見ている……ってだけじゃないぞ、これ。もしかして……
「…………昨日の……っ。ミラちゃん、病院連れて行こう。あるか分かんないけど……鎮静剤とか、とにかく気分を落ち着かせてあげないと」
「はい! エヴァンスさん、起きられますか? 大丈夫ですか?」
返事は……無い。どうやら、意識はまだ覚醒してないみたいだ。
僕が背負って行くから、先に行って説明をしておいて欲しい。そう伝えると、ミラはこくんと頷いて窓から飛び出して行った。
い、いやいや……玄関使いなよ、そこまでしなくても……
「……完全にパニック状態だよな……これ……っ。エヴァンスさん、しっかりしてください。すぐ病院に着きますから」
こんなことなら、昨日の男の子の言う通りにしておけば良かった。
覚えがある。寝ても覚めても嫌なことばかりがフラッシュバックして、突然息が苦しくなるんだ。
僕も…………何回だってそれに苦しめられた。
こういう時、相談出来ないってのが一番キツかった。
誰かに出来る話じゃなかったら、僕は痩せこけるまで苦しめられたけど…………彼は違う。
病院に行って、薬を貰って。そしたら、僕達以外の——あのトラウマと繋がってない誰かに、カウセリングみたいなことをして貰って。
幸い、この街の仕組みは今のエヴァンスさんにとっては都合が良い。
苦しくて働けなくなっても、衣食住も充実していて、医療も受けられる。
街にはすっかり馴染んだし、事情が分かればみんな嫌な顔なんてしない筈だ。
「……ゆっくり……ゆっくり治していけば良いですから。大丈夫です、大丈夫ですからね」
アギト……と、絞り出したような声で名前を呼ばれた。気が付いたみたいだ。
だけど、ちょっとまだ動けそうにはない。このまま連れて行って、早く診て貰おう。
道中を半分くらい行ったところで、引き返してきたミラと合流して、ふたり掛かりで急いで病院へと運び込む。
大きなツノの生えた先生は……鹿……だろうか。その素性はなんでも良いけど、とにかく親身に話を聞いてくれそうな人だ。
良かった……この人になら任せても大丈夫そうだ。
「えー、聞こえますか。私はヤンと言います、医者です。お名前言えますか」
「……医者…………ああ、悪い……アギト……ちび…………俺は大丈夫…………」
大丈夫じゃないのは、会話が成立してないとこ見てたら分かるよ。
ヤンと名乗った先生は、困った顔でエヴァンスさんの胸やお腹に聴診器を当てていた。
今思うことじゃないかもしれないけど…………先生は割と人型だから良いんだけどさ。僕達みたいに獣顔の人は、聴診器どうやって使えば良いんだろう……
「……んー……脈が随分早いね。それに、胃腸の動きも変だ。おふたりは、昨日も彼と一緒にいたの? なら、昨日何してたのかと、それから何食べたかを教えて貰えるかな」
「はい。ええと、昨日は畑仕事をしてて……」
それが終わったら、僕達とは別行動でお手伝いに行ってしまってて。
晩御飯は……食べてない。あの箱の片付けですっかり参ってしまって、何も食べずに眠ってしまった。
で、今朝起きたら、凄く苦しそうにうなされてて……
「その片付け作業中に、怪我した子供が来て……その前の前の日にも、畑で怪我をした人がいて。僕達が運び込んだあの人です。その……それで…………っ」
「血を見て気分が悪くなった……と。前からそうなの? それとも、理由に何か思い当たる節がある?」
ある……が、果たしてどう伝えたものか。
言葉を慎重に選んでいると、僕の背中を突っついて、ミラがずいと前に乗り出した。
ごめん……こういうの、僕がやるって約束してたのに……っ。
「…………私達はこの街に来る前——」
先生はミラの説明に、目を丸くして驚いていた。
無理も無い。だって……アレが人である以上、僕達だってまだ信じられていない。
獣でもあるという仮定の下で、なんとか納得はしたが…………っ。
エヴァンスさんは、そんな光景を目の当たりにしてしまったから、血がトラウマになってしまっているのかもしれない……と、ミラは説明を終えて、また僕の後ろに引っ込んだ。
わざわざ引っ込まなくても……と思ったのだが、どうやら彼女は看護師の手伝いをしてくれているらしい。
ごめん……それなのに、僕が歯切れ悪い所為で……
「……そうだとすると、ちょっと面倒なことになりそうですね。体の病気を治す勉強はしてるけど、心の病気は簡単に治せるものじゃないから。
多分、それ以降ずっと緊張したままで、身体が疲れてしまっていたんだろう。こればかりは時間を掛けて克服するしか……」
「そう……ですよね……」
そうなると…………もう、彼と一緒には旅なんて出来ないんだろう。
ここは安全だし、平和だし、今の彼が療養するにはうってつけの場所だ。
僕達は……急いで別の街を目指した方が良いのかもしれない。
この街では、旅の支度なんて出来ない。
貯金や貯蔵なんて、街が全部やってくれるから個人では必要無い。
この街の福祉の充実は、留まるものには大きな恩恵でも、僕達のような根無し草には強い毒だ。
慣れてしまったら旅立てなくなるし、それに旅立つ為の準備も進まない。
だったら……早い段階で見切りを付けて、野宿でもなんでもしながら先へ進まないと……
「……エヴァンスさん。仕事終わったらまた来ます。晩御飯は一緒に食べましょう」
返事は無かった。まだ……まだ、意識がハッキリしていないんだろう。
こんなお別れになるなんて……ショックだけど、受け入れなくちゃいけないよな。
これ以上振り回すわけにもいかないし、かと言っていつまでもここで調べ物も出来ずにいるわけにもいかない。
僕はミラと一緒にまた部屋へと戻った。どうやら、ミラも似たことを考えていたらしい。
或いは、昨日の木箱が空振りに終わった時点で……
「……いつでも出発出来るようにしておきましょう。長居すれば、私達も……エヴァンスさんも……」
「…………うん」
荷物を整頓して、そしてまた畑へと仕事に向かう。
この街には留まらない。けれど、その恩恵を受けた以上はしっかり働いていく。
勇者として、社会の正義で在った者としては、借りっぱなしで出て行くわけにもいかないからね。
ミラのテンションは昨晩よりも更に下がってしまっていたが、みんなに心配を掛けまいと畑では明るく振舞ってみせていた。
それがまた、僕には痛々しいようにも見えてしまった。
夕方になって仕事も終わると、僕達は急いで病院へと向かった。
向かったが…………流石に昨日から何も食べてないからさ……大きな音を立ててお腹が鳴ったわけだよ。
そこで、エヴァンスさんにも持って行ってあげないと。と、この間と同様にご飯を持ち出させて貰う為、踵を返して宿へと戻った。おお、美味しそうな匂いがぷんぷんと…………
「ご飯食べてお腹いっぱいになれば、きっとエヴァンスさんも元気になりますよ」
「そうだね。うん、そんな気がしてくる」
えへへと笑って、ミラは大事そうに料理の器を受け取った。お前が言うと、やっぱり説得力が違うな。
今日は鶏肉と野菜の炒め物。ちょっと辛そうな匂いが食欲を……ちょ、ちょっとだけつまみ食いしても…………ダメ……ですよね……
「…………あっ。今更思ったけど、病院って食べ物持ち込んでも平気かな……? なんか……それが当たり前で過ごしてたけど……」
「……成る程。確かに、この世界で病院にお世話になったこともありませしね。一度聞いておくべきでした。いえ、もしダメなら…………ダメでも……」
ちょっと、悪巧みするのやめなさい。
と言うか……僕の持ってる常識的には、病院って飲食物の持ち込みダメなんだよな、基本。
病院内の売店で買ったやつなら、先生に許可貰えば良いんだけど……フルトで散々ご飯持ち込んでたから、そのイメージのまま来てしまった……
「ダメだったら素直に持ち帰ろう。それか、どこか食べても良い場所があるなら、僕達だけで食べよう。エヴァンスさんには病院食とか出るだろうし」
「そう……ですね……むぅ。やっぱり、みんなで食べたかったですけど……」
みんな揃っていただきますした方が美味しいもんね。
けど、それはそれ。けじめはしっかり付けましょう。
とにかく先生に相談だ。やっと辿り着いた病院で、僕は凹み過ぎて穴の空きそうなお腹をさすりながらそのドアを潜っ————
「————この臭い————」
「——臭い……? すん……っ! ミラちゃん……これ…………っ」
ドアを開けると、中からは血の臭いが漂ってきた。
そりゃ、外科も受け持ってる以上はそういうこともある。
急患が運び込まれたんだろう……って、そう流しても良かった。
良かったのに……それが引っ掛かったのは、やっぱりあの光景が焼き付いているからで————
「————まさか————まさか、アイツら————っ!」
「アギトさん、静かに。でも、急ぎましょう。まさかとは思いますが……」
追い掛けられていた——?
振り切ったと思った。そもそも、尾行なんて出来ると思わなかった。アレが野生動物ではなく、人である以上は。
僕達ですらキツイ野宿をしてまで、こんなとこまで追い掛けて来るとは思わなかった。
だけど…………っ。
病院内が静かなのは、ソレが当然のことだから。
院内は走らないとか、静かにとか、そういう常識は通用するから……な筈。
だけど……奥に進めば進む程濃くなる、この嫌な臭いは…………
「…………っ。あの、ドアが開いてる部屋って…………エヴァンスさんの…………っ」
小さく——本当に小さくだが、息遣いが聞こえた。
ああ、最悪だ。あの時と同じ音だ、あの時と同じ臭いだ。
お香の強い匂いだけが取り除かれた、あの時と全く同じ状況だ。
まさか——まさかアイツら、エヴァンスさんを狙って————っ。
「——急ごう! 気付かれることより、間に合わないことの方が————っ」
「はい——っ!」
ご飯なんてそこらの棚の上に置いて、僕はミラと一緒に走り出した。
ほんの二十メートルくらいの距離が、凄く遠くに感じる。
大丈夫、きっと大丈夫。
エヴァンスさんは体も大きいし、力だって僕より強い。
多少の不調があっても、窮地になれば火事場の馬鹿力でなんとかしてしまえるだろう。
だから……だから——怖がってないで、早く————
「——————エヴァンスさん——っ!」
何キロ走ったのかってくらい、心臓はバクバク言っていた。
でも——それでも、所詮は二十メートル。すぐに辿り着いて、そして僕達は嫌な臭いの立ち込める部屋へと飛び込んだ。
フシュ——ッ——フゥ——ッ——と、荒くなった息遣いと、バタバタと液体の滴る音。
鼻も、耳も、その最悪の光景を思い起こさせている。
なのに————なのに——眼だけは、目の前の出来事を受け入れられないでいた————
「————エヴァンスさん————?」
転がっていたのは、ツノの生えた先生の————
息を荒げていたのは、獅子ではなく、狼のような顔の男だった。
けれど、その臭いは——その音は————そして、僕達を睨み付けるその眼は————あの時のものと何も変わっていなくて————
「————っ! アギトさん————っ‼︎」
強い力で突き飛ばされて、僕は手も出せないまま床に思い切り背中を打ち付けた。
走って逃げていくその姿が——見慣れた友達の姿が、まるで————のようで————
「————エヴァンス————さん————」
——————その叫び声が————あの時の遠吠えのようで————




