第七十二話
途方も無い草原を歩き続け日もすっかり真上にやって来た頃、僕達は遠方に古い小屋を発見した。辺りに他の建築物は見当たらず、ただ自然の真ん中に打ち捨てられた様に佇むその小屋を、僕らは不審に思いながらも訪ねることにした。少年の言っていた訪れるべき場所、見るべきもの……とは無縁の、ただそこにあって、魔獣の手によって取り残された人の営みの残骸として。
「行くわよ……せーのっ!」
ミラは僕に少し離れるように指示して、少し身構えながら勢いよく立て付けの悪いボロボロの引き戸をこじ開ける。意外だったのは、その時魔獣はおろか土埃一つ飛び出して来なかったことだ。
「随分綺麗と言うか……アギト、もしかしたら最近まで人が住んでたかも知れないわ」
「最近まで……って。あの飛ぶ魔獣の生息圏で、こんな何も無い様な草原の真ん中に住める人なんて……」
とても想像出来た話ではない。アレは確かに集落一つを根城にしていた。空を自由に飛び、そして明確な意思を持って襲い掛かって来た。建物の中に入ると言う行為を見たわけでは無いが、あの太く鋭い爪と力強い脚ならば、こんな小さな木造建築を壊して侵入する事は造作も無いだろう。あるいは本当に、アレらはこんな小屋一つで身を守ってしまえる程度の知能しか持ってないのだろうか。
「——誰じゃ。人の家に勝手に」
小屋から目を離して僕と向き合っていたミラは、その奥から聞こえて来た声に跳び退き、拳を構えて警戒態勢を取った。僕が見た限りでは、その小屋はいくつも部屋を作れる程の大きさでは無い。もし小屋の中にいたのなら、彼女がその存在を見落とす筈が無い。だからその不審に、彼女も僕もこうして肝を冷やしているのだ。
「大した挨拶じゃな。全く聞いた通り、不躾な小娘だことじゃ」
それは確かにそこにいた。だが僕達はそれを視認、いや彼女ならば臭いや音、或いは第六感じみた本能で察知していた筈のそれを認知出来ていなかった。そしてその姿を目に映した今ですら、それがなんなのか理解出来ないでいた。
「——アギトッ!」
それは人の様に立ち歩く、狼の様な魔獣だった。
「揺蕩う——」
「待て! 待て待て! 待たんか! 話し合いという選択肢はハナから無いのか⁉︎ 聞いておった以上に物騒な娘だなおぬしは!」
青白い魔力の迸りを纏う少女に、諸手を上げて降伏の姿勢をとった、老人男性の様な声で喋るそれはまさしく人狼と言った趣の魔獣に見えたのだが……話し合いという提案や、聞いていたという口ぶりが引っかかる。もしや……
「えっと……もしかして俺達の事を誰かから?」
「ああ、聞いておる。儂の名はマグウェラ。かつていた知人達は“マグル”と呼んでおったよ」
マグウェラ。マグル。えっと……名前は分かったのだが、肝心の正体が…………
「「ま——魔術翁——っ⁉︎」」
僕とミラは顔を見合わせ確信した。この魔獣……いや、彼こそが少年魔術翁が見せたかった、合わせたかった人(?)物なのだろう。犬が鳴く様にくぐもった笑い声をあげ、魔術翁を名乗る彼は僕達を小屋の中へ手招いた。
「ばっはっは。そう、何を隠そう儂はかつてあの街の長であった者だ。まだまだ若く見られることもあるが、これでかれこれ百余年は生きておる。あの小僧どもは儂が見込み育て上げた術師じゃて」
「ひゃく……⁉︎ ちょ、ちょっと待って⁉︎ なら、なんでその前魔術翁がこんな原っぱの真ん中でこんな小屋に住んでるのよ⁉︎」
ミラの疑問はもっともだ。この掃除の行き届いた部屋を見れば分かる、彼は現在ここに暮らしている。街からももう近いとは言い難い、周りにも一切食物らしい作物も見当たらない。魔獣の襲来がいつ来るとも知れぬ無防備なこの小屋で、間違いなく生活している。
「……それについては話せば長くなることでな。なに、隠居生活も程々にここで暇を潰しておるのだよ」
「暇って……こんなとこに暮らしてたらそれこそ…………? ミラ⁉︎ そういえば……っ!」
僕は大きな勘違いをしていたのかもしれない。そんな焦燥感に、急いで小屋の外へ飛び出した。眼前に広がるのは間違いなくただの草原。背の低い草以外何も——そう、なんの痕跡すらも無い。死に絶えた様に気配の無い、貼り付けられたテクスチャの様な——ただ本当に、ここには草原だけがある。
「……そう、ここに魔獣は出ない。もう一度だけ名乗ろう。儂は魔術翁。他の何でも無い、魔術の長。そしてここは……」
「…………結界……っ! まさかそんな……だって、ここに来るまで何の陣も楔も見なかったわ⁉︎」
結界…………? 久しぶりに聞き慣れた、それでいて身近にある筈の無い単語が飛び出した。そう言えば……いつかミラは言っていた。アーヴィンは地母神様のお陰で魔獣の襲撃を受けないのだ、と。もしかしてそれもその結界というのが関係しているのだろうか。
「賢しいな娘っ子よ。いや、おぬしはハークスの——人造神性を継いだ術師の娘だったな。なに、あれ程立派なものではないのだがな」
「……アル……? えっと……?」
ミラは黙ったままだった。魔術翁もそれを見てか、さっきまでとは打って変わって口を閉ざしている。アル……? 僕の分からないところで話が進む。
「……あいや、すまぬ。忘れてくれ。して、あの小僧っ子がここに寄越したと言うことは……成る程確かに」
ごほんと咳払い一つすると、翁はさっきまでミラを見ていたその狼そのものと言った眼で僕をジッと見つめてそう言った。えっと……あれ? 魔術の話なんだから……?
「…………えっと、俺ですか……? えっ? あの、ミラじゃなくて……?」
ミラも意外そうな顔でこちらを振り返って……ちょ、ちょっと待って欲しい! 翁はウンウン頷いて……もしかして……っ! 僕に隠された力が! 何か封印された魔術みたいな物があったり……っ⁉︎
「まっっっったく。と、言い切って良い程魔術適性のない男じゃ。おそらく終生魔術も簡単な錬金術も会得することはあるまい」
「…………へ?」
すごく残酷なことを言われた気がした。なるほど……これが三十年を無為に生きてきたものへの罰か……
「娘っ子よ、おぬしも気付いておったな? その男の特異性に」
「…………はい」
特異性? 魔術のセンスが欠片程も無いと言うのが特異性? 一体何の話をしているんだこの二人は。
「魔術とは人が内なる魔力を用いて行う簡易儀式。それは言霊であったり、陣であったりと方法は多岐に渡るが根源は一つ。だが小僧っ子よ、おぬしには魔力を体の外に放出する機能が備わっておらん。人が喋り、虫が声を発せぬ様に。おぬしはそもそも魔力を行使する様に産まれておらん。こんな事は本来ありえん」
う……ぐぐぐ。何だろうか、酷くボロッカスに言われている気がする。だがしかし、彼の言うことを理解出来ないわけでは無い。彼の言う本来というのは、“この世界において”と言い換えることが出来よう。だが、そうだ。僕はそもそもこの世界の住人では無い。ただその事で魔術が使えないというのは……どういう事だ⁉︎ そこは普通……規格外の魔力を持ってて、信じられない程強力で他の誰にも真似出来ない魔術が使える! って、そうなる展開じゃないのか⁉︎
「……儂は見ての通り獣人だ。おぬしと同じ、あり得ぬものだ。あの小僧っ子がぬしらをここへ寄越したのは、きっとおぬしの助けになればと気を利かせたのやも知れぬな」
「…………俺の……助けに?」
ふとノーマンさんの言葉が脳裏を過る。ミラを守り抜け、と。そしてそれを個人の願いでは無く、少年魔術翁と滅びの未来を背負ったあの街全ての願いであると言った。つまりこれは僕に彼女を守る力を授ける為に、彼らが用意してくれたパワーアップイベントであるのか?
「残念ながら出来ぬものは出来ぬ。儂が人間とは違う形をしている様に、おぬしのそれも恐らくは一生ついて回る呪いの様なものじゃ。だが……」
だが……なんだ? 魔術はどう足掻いても使えないがまあなんだ、頑張れ。とでも言うんじゃないだろうな。翁が黙りこくってしまってから十数秒が経った。どうした、僕は何を頑張れば彼女を守れる力を手にすることが出来るんだ?
「…………ばっはっは! やめじゃ! これ以上は面白くない!」
「…………はぁ⁉︎ ちょ、ちょっと待ってくれよ! いや、待ってくださいよ! 面白くないとか……ええっ⁉︎ 俺の助けになってくれるって……ええっ⁉︎」
豪快に笑う狼顔の老人。なんだろう、この世界のジジイとはとことん相性が悪いぞ。いつだって肝心なところをはぐらかされたり、腹の底を一方的に探られている様な……翻弄されてばかりだ。
「ばっはっはっはっは! まあそう言うな! その方が面白い、と言うのは術師にとって一番の原動力でな! そう思ってしまったらもうそうするしかないのだわ! ばっはっはっはっは!」
「……ふ、ふざけんなぁーーーッ⁉︎」
見た目がおっかなくなかったらブン殴っているところだ。助けを求めて視線をやったミラも、困った様に笑いながら頷いているではないか。ちょっと? 貴女はこっち側でしょ? 分かります、その気持ち。みたいなリアクションしてるんじゃ無いよ⁉︎
「……まあ、なんだな。肝心なのはおぬし自身、ソレに気付けるかどうかじゃ。出来ぬ出来ぬと嘆くのは止せ。前を向いて常に答えを探し求めろ。きっといつか、答えに気付いた時おぬしはずっと強くなれる」
な…………納得いかねえええええッ‼︎ もしかして今、良い話風に纏めようとしてます⁉︎ いやいや、全然纏まってないから! 全然答え教えて欲しいからね⁉︎ その、技術は目で盗め! みたいなん要らないですからね⁉︎
「ばっはっは、いやいや。すまんな小僧っ子」
「…………意地でも教えてはくれないんですね? って言うか答え教えてくれないにしても、なにかこう……強くなるための技とか……」
そんなもの魔術以外に知るもんか、ばっはっはっは! と、豪快に笑い飛ばされてしまった。くそう、ごもっとも! やはり僕はミラに守られっぱなしの旅を続けることになるんだろうか。くそう……
「またいつか。ルーヴィモンドの小僧っ子も連れて来るといい。その時には儂と小僧っ子と娘っ子、三人掛かりでおぬしをバラして徹底的にその謎を解明してやろう」
「あっ、それはちょっと興味あるかも……」
興味持たないで⁉︎ そんな物騒なことに興味持たないでッ‼︎ 結局ここへ来た意味は全く無かった。ただちょっと珍しい獣人を目にして終わり、と言うことか? なんて所へ向かわせてくれたんだルーヴィモンド少年!
「ここからさらに北。半日も歩けば村がある。街の魔術砦と儂の結界があって魔獣どもが飛んで行かん比較的安全な村じゃ。一度今日はそこで宿を取るといい」
「ありがとう、マグルさん。お元気で」
納得いかない。全然納得いかないぞ。ミラは頭を深々と下げ、僕は彼女に引っ張られて小屋を後にした。納得が、いかないぞ!
「……成る程。現魔術翁が見せたかったもの、ね。中々面白い人だったじゃない?」
「……全然面白くない。一体なんだってあんな人に……」
グチグチも言いたくなる。別にどちらの魔術翁も悪く言うつもりは無かったが、ミラはそんな僕の態度が気に食わなかったのか少しだけムッとして僕の足を軽く蹴った。
「バカアギト。分かんないの? あの人は平然と笑っていたけど、獣人だなんて大っぴらにしてまともに生活が送れるわけないでしょ? 百何年、今に至るまで誰からも理解されずに生きて来たのよ」
彼女の言葉に僕はハッとした。僕からしてみれば魔術があって、魔獣がいて、なら獣人くらいで驚くものでも……と、受け入れてはいたが。魔獣がいて、それが自分達の生活を脅かしていて、それと似た様なモノが居れば人は簡単にソレを迫害するのだろう。例え自分達と同じ様に言語を介し、コミュニケーションを取ろうと歩み寄って来ているのだとしても。
「それでも笑ってた。それはあの人の中に確かな正義があるから。魔術を深く探求する、と言う目的があるから苦痛も乗り越えた。まったく当てつけもいいところよね。さっき散々泣いたのも、まるでアイツの予想通りって感じがして腹立たしいくらい」
「……えっと……?」
「一々挫けるなってこと! 自分も挫けず街を興すから、お前達も挫けず頑張れって言いたかったのよ、多分。あー、ムカつく。生意気なのよ。私だって市長だったんだから、見下してんじゃないっての!」
ミラはもう見えない街に拳を向け、笑ってそう言った。そしてまた僕の手を引いて北へ——更に北へと、停めていた足をまた進め始める。