第九十話【その過去を知るもの】
僕達は集落からも、街からも遠く離れた場所まで逃げてきた。
明確に何処かに留まるということは避けつつも、以前体を休めた洞穴を約束の合流場所として、周囲の様子を警戒しながらひたすらに歩き続けている。
ミラは……既に別行動、単身街へと向かっている。
「…………っ」
強化魔術込みならば、エヴァンスさんを抱えた僕ですら呆気無く逃げ果せられた。だから、ミラの心配はあんまりしてない。不安と緊張で胃がネジ切れそうな程度で済んでる。
けれど、今もっと気を使わなきゃいけないのは、隣で青い顔をしているエヴァンスさんの方だ。
「……なんで……っ。なんだってそんな冷静でいられんだよ……っ」
「…………なんででしょうね。自分でもびっくりしてます」
冷静なもんか。ただ、それでも彼よりは幾分かマシというだけだ。
怪我の功名……なんて、この場面で使って良いのか、そもそも正しい用法なのかも考える余裕は無いけど、結果として見たらまあそんなところ。
僕は人を食い物にする悪人を見てきた。
誰かを傷付けることを厭わない悪人を、かつての旅の間に何人か見てきた。
だから……と、そんなまるで、あんな奴らに感謝するみたいな言い方にだけはしたくないけど……
「……似たようなことが……いえ、その……似てはないんですけど。根本的な所は……誰かを虐げる身勝手さという点で、酷似した悪い奴を相手にしたことがあります。
その所為で、無駄に麻痺させられてるんです。俺も、ミラちゃんも」
ありえねぇ。エヴァンスさんは小さくぶつぶつとそれだけを繰り返す様になった。
ありえない……うん、ありえちゃいけない。だから、僕はそれに憤った。
ミラも、断固としてその在り方を許容しなかった。
「……っ……うぅっ…………おえぇ——っ」
「エヴァンスさん。ちょっと何処かで休みましょう。歩きっぱなしで、体力もかなり消耗してますし」
ガタガタと肩を震わせるエヴァンスさんに手を貸して、一度大木の影に隠れて腰を下ろした。
洞穴に向かうにはまだ早い。ミラが全速力で飛ばしてきたとしてももう少し掛かる。
せめてそれまでは、何処かで時間を潰さないと。
「……エヴァンスさん。その……楽しい話をしましょう。俺もそこそこ長く旅をしましたが、嫌な出来事っていうのは本当に突拍子も無くやってくるんです。
でも、その後にはずっと悪いことだけが……って、そうはならなかった。
必ず良いことも起きますから、そういう話をしましょう」
「…………良いこと……っ。あんなもん見て、今更良いことなんて……」
いっぱいあるとも。少なくとも、僕はいっぱい見てきた。
ゴートマンに襲われ、魔竜に殺されかけた後にも。
兄さんが病気で倒れた後にも。
アイツと大喧嘩した後にも。
そして……ミラを裏切って、全部台無しにして、大勢の人を傷付けて。忘れちゃいけない罪悪感を抱え込んだままでも、必ず良いことは起きてくれた。
そうだ、必ず嬉しいことはやって来てくれるんだ。
「……重くてキツイ話だと、俺達は一度……いえ、何度も。何度も殺されそうになった。その一度目の後。凄く良い出会いがあったんです」
フルトで起きた最悪の一件と、そして仲良くなった受付の娘の話。
魔人の集いなんて名前を出したってここじゃ意味無いけど、エルゥさんとの楽しい日々は幾ら語っても構わないだろう。
だって、それだけ楽しかったのだから。それだけ、希望を貰った出会いなのだから。
フルトを発ち、またその悪者と小競り合いがあって。そしてその先で、後の師となるマーリンさんと出会った。
あの出会いは最初から約束されてたものだけど、それ以上の意味を——素晴らしい日々を、絆をもたらしてくれた。
その直後にまたつらく苦しい出来事が——別れが待っていたけど、それでも乗り越えて前に進んだ。
優しく、暖かく、頼もしく、そしてごく稀に厳しい師との旅はとても充実していた。
ただひと晩過ごす為だけに訪れた街や村が、今でも思い出せるくらい晴れやかな出来事に変わる程に。
だが、そんな人との旅の中ですら、嫌なことというのはやってくる。
何度も魔獣を退け、怪我をして、挙句——再び、同じ名を名乗る悪人が目の前に現れた。
その因縁に、一度は命すらも落としかけたのだ。
そんな困難をも乗り越えて、新たな出会いや再会も超えたその先で、国で一番大きな街へと辿り着いた。
強く逞しい街、王都ユーゼシティア。
しかし、それは嬉しいだけのゴールではなく、師と離れ離れになる寂しいスタートでもあった。
それでも挫けず、自分がやるべきことを頑張り続けた。
勇者として認められる為……と言っても、半分くらいはその師匠に褒めて貰いたかったから。
その人が悪く言われないようにと頑張った。
頑張って頑張って……その暁の再会に、心の底から喜び合った。
けれど…………それでも悪い出来事は起きる。
大切な仲間の——僕の離反。
そうだ、嫌な出来事は何もやって来るだけのものじゃない。
自分で引き起こしてしまうことも、往々にしてあり得てしまうのだ。
それが引き金となって、美しかった街はボロボロにされてしまった。
けれど、そこにあったのは悲壮感ではなく、前を向いて立ち直ろうとする強い意志だった。
嬉しいことが起こるのも、やはり自分だけの特権ではなかったのだ。
そして…………
「——アイツは世界を救った。犠牲も当然払った。それを尊い犠牲だなんて言うつもりは欠片も無かった。
けれど、どれだけの悲しみの上だろうと、アイツは最上の勝利を手にしたんだ。
だけど……その時に、アイツの心は壊れた。一番失っちゃいけない半身を——もうひとりの勇者を、旅の仲間を失ったから——」
だから——あの人はそんなアイツを救う為に、その悲しみそのものを無かったことにした。
そうだ——無かったことにするしかなかった。
無かったことにした——その事実を覆す為に————
「——おい——な、なんの話をしてんだよ——? お前も……お前も、その旅を近くで見てた……んだよな……? 近くで……見てただけ……だよな……っ? でなきゃ……そうでなきゃお前は————っ」
「——アイツには内緒にしておいてください。
俺の目的はふたつ。ミラが説明した通り、この世界に訪れる終焉を防ぐこと。
そして、そうすることでアイツの記憶を取り戻すこと。
約束を破って勝手に死んだ、馬鹿な過去を取り返す為に」
そうだ——ああ、そうだ。
やってられない、僕が一番嫌いなやつだ。
もっと苦しい思いをしたから、多少のつらさは耐えられる……なんて、下らなさ過ぎる自己満足の精神論だ。
それで我慢するのも、人に我慢を強いるのも、ずっとずっと大嫌いだった。
それが美徳みたいな風潮が本当に嫌いで、引き籠もっていたあの長い間に、居もしない頭の中の敵に文句を言い続けた。だってのに。
「……俺が平気に見えるのは、そこで一回壊されたからです。
だから、エヴァンスさんの気持ちは……そのつらさや悲しさに参ってしまう姿は、昔の僕とまるで一緒……いえ、今も大体一緒です。
ただ、切羽詰まると……なんか、えーと……ブレーカー…………は、無いな。電源……似たようなもんか。えーっと……」
はい、かっこつかなーい。
心のブレーカーが落ちるんですよ的なことを言おうとして、はて? ブレーカーもクソも、この世界には電気ってまだ無くね? と、思い止まってしまったが最後。
はいはい、シリアスシーン終了ね、知ってた。
うん、知ってた知ってた、しつてた。似合わんし、別に良いよ……ぐすん。
「…………ごほん。つまり、キツかったら幾らでもキツイって言ってください。俺はそうやって甘やかされまくって生きてきましたから、それ以外の方法知らないんで。
それはそれはもう……甘やかされ過ぎて、自分でもヤバいと思ったくらいです。いえ、手遅れかもしれませんが……」
「……それで、こうやって苦しんで……つらくて……でも、その後には良いことあるってのかよ」
絶対あります。と、それだけは断言した。
断言しちゃったけど……良かったのかな……?
ぼ、僕は実際良いことめっちゃ起きたしな、うん。
そもそもとして、アギトとしての生活が良いこと過ぎたし。
いやね、ほんと……三十路のヒキニートからの脱却よりも派手な転換は無いよ……
「めっちゃ良いことありますって、絶対。具体的には…………えーと……そうだ!
俺の場合、その甘やかしてくれた……まあ、師匠のことなんですけど。その人が……それはまあ美人で……スタイルも良くて……でへ」
「……………………あ゛? んだそれ、喧嘩売ってんのか! 前から呑気な顔してると思ってたけど、なんだそのクソ間抜けな顔は‼︎」
そ、そこまで言う……? そんなに間抜けな顔してます……? いえ、それについては自覚もありますけどね、多少は。
でも……でへへ、実際問題それが一番のご褒美だったからね。
苦しいこと、つらいこと、悲しいこと。何があったって、僕にはやたらめったら甘やかしてくれるマーリンさんがいた。
それはそれはもう……立派な……もちもちふわふわの…………ぐふ、じゅる。
あれが人前で無ければ……そして、もう少しだけ僕に耐性があったなら……っ。
「なんか腹立ってきた……だあ、もう! それが狙いなら効き目バッチリだな、クソが!」
「ど、どうどう……あ、あくまでも例であって…………ほ、ほら! エヴァンスさんにも同じようなことが起こるかもしれない……って、そういう話で……」
なんだったら良いばかりのイベントでもなかったしな。
ミラには冷たい目で見られるわ、恥はかくわ、変な性癖に目覚めそうになるわ…………いや、それはもう手遅……げふん。
僕の惚気風自慢風自爆によって、エヴァンスさんはちょっとだけ元気を取り戻してくれた。
それなら、まあ無駄話の甲斐もあったかな。
「…………それで、さっきの話……マジなんかよ。だとしたら、今のお前って……」
「……まあ、信じる信じないの領域じゃないですから。信じたい方を信じて下さい。
ただ……本当にミラにだけは……ミラにだけは言わないでおいていただけると……」
信じらんねえこと多過ぎて、どっち道信じられねえよ。と、そう悪態をついて、エヴァンスさんは僕に約束してくれた。迂闊なことは口走らない、と。
いや、ほんとお願いします。そこが覆っちゃうと、なんかもう色々とぐちゃぐちゃになっちゃうんで……
「……じゃあ、前に言ってた兄妹みたいなもんだ……ってのは……その…………」
「あー、まあ……そうです。くっ付いてないと眠れないのも、昔の名残と言うか……本能的にそう出来てるんでしょう。単純ですから、うちの妹は」
そうか。と、エヴァンスさんは小さく俯いてそう言った。
なんだかんだで信じてくれてますね? となると……別の世界から来たってのも、実はちょっと信じてたりしそうだ。
死んだ奴が生き返るよりは、多少現実味が…………同じでは⁇
「さて、そろそろ合流地点に向かいましょう。街からも離れてますし、流石にあんなとこを見張られてたりはしない……と……良いなぁ……っ」
「お前……前向きなのか後ろ向きなのかわかんねえな」
基本後ろ向きだけど、稀にネガティブが過ぎてもう半周しちゃう時があるのだ。それはよくて。
周囲を逐一警戒しながらの移動は相変わらず精神的にキツかったけど、僕達は無事に例の洞穴まで辿り着くことが出来た。
それからミラがやって来るまでには、そう時間は掛からなかった。
よし、時間ぴったり。妹のことはなんでもお見通しだからな、えへん。




