第八十九話【群れの掟】
「————逃げ————何処へ——っ! 何処へ逃げるのが——正解だ————これ——っ!」
「——とにかく遠くへ——あの場所からも————街からも————」
僕達は無我夢中で走り続けた。
日が暮れる直前の林の中の薄暗さ、薄気味悪さは、ただでさえ膨れ上がってる恐怖心を刺激する。
怖い——怖い怖い、恐ろしい。
理解し難い光景と、理解出来ない感情がお腹の中身を全部引っ掻き回してるみたいで……っ。
「——っ——おぇっ————っ。クソ————クソぉ——っ!」
流石にこの身体でも、ミラの強化魔術は使いこなし切れないのか。それとも————っ。
吐き気と頭痛と、そして強い拒絶感を身体のいたるところから感じる。
ぞわぞわと鳥肌が立って、指先が無意識に縮こまって、そして脂汗が湧き出てくる。
なんで——っ。何がどうなって————
「——っ! アギトさん!」
ミラが僕の名前を呼んだのに気付いたのは、エヴァンスさんを背負ったまま思い切り前のめりに転んだ時だった。
両手が塞がってたもんだから、なんの緩衝材も無く顔面から地面に叩き付けられる。
痛い——でも、その痛みでやっと、僕はこの世界に生きていることを思い出した。
かの魔王を前にした時ですら無かった感覚だ。
僕はたった今まで、自分が生きていることすら忘れてしまっていた。
「——ぶえっ……土食った…………エヴァンスさん! すみません、大丈夫ですか⁉︎」
カタパルトみたいに射出されたエヴァンスさんは、僕よりもちょっとだけ先にうつ伏せで倒れていた。
も、もしかして打ち所が……と、そんな心配は杞憂に終わる。ゆっくり……ゆっくりと起き上がって……
「————うぷ————」
げぇ——げほっ——と、エヴァンスさんは膝を突いたまま吐き出してしまった。
乗り物酔い……ではないのだろう。僕だってその一歩手前だった。
ただ……幸か不幸か、生きているという実感が薄れいていたおかげで、そのストレスが一番痛い所には届かなかったんだろう。
「…………一回……いいや」
一回死んだおかげで…………なんて、馬鹿な考えがよぎった。
こんなの思うべきことじゃないし、口にするなんて以ての外だ。
でも……思ってしまった。
一度それを経験した所為で、僕の精神は一定以上のストレスを掛けるとシャットダウンされるのだろう。
義務感と惰性……或いは慣性だけで活動を続けるようなイメージ。
もう二度と壊れない為に、その苦しみを受け流す機能が備えられた……って、そう考えておこうかな。
「————なんなんだよ————なんだってんだよアイツら————っ。アイツら——人を————」
げほっ——と、エヴァンスさんはまた堪えられなくなって嘔吐きだした。
ああ——思い出したらまた僕も…………っ。
吐くところまでは至らないにしても、ミラもただごとならざる悲痛な面持ちで、ぎゅうと固く拳を握って震えていた。
「…………いいえ、この可能性は最初から織り込み済みでした。当然のものとして、そうあってもおかしくない……と、私達は考えていました。それでも……いざ目の前にしてみれば……」
「…………当然……おえっ…………げほっ……げえっ…………っ。ちび…………お前、何言って…………」
最初から織り込み済みだった……か。
そうだ、それは僕達にとって当たり前の光景だった。
僕達が目にしたのは、肉食動物が草食動物を捕食する瞬間。それ以上でもそれ以下でもない。
そうだ……ここにやって来てすぐの頃なら、そう割り切って生きていけた筈なのに……っ。
「……それがこうして強い嫌悪感を抱いているということは、やはりこの世界においては————いいえ。この世界においても、アレはあってはならない光景だということです」
それは、この世界にやって来てから過ごした二十日足らずの時間がそうさせたのだろう。
彼らは人間だ。獅子の頭であろうと、猪の頭であろうと。どのような姿であろうと、彼らは人間なのだ。
獣性ではなく、人間としての理性と社会性を基盤に生きているのだ……と。
見て、聞いて、触れ合って知ったからこそ…………っ。
「街に……戻れないかな……? やっぱり、アイツらが街に流れ込むのは……」
「いえ……っ。考えたくないことですが…………あの集落は、街の人々によって作られたものだ……と、そう考えるべきです。
私達が何も知らない以上、知り得た事情も知り得なかった事情も、全てあり得る可能性なのだ……と」
っ……それってつまり、街主導であんなことを……っ。
あの集落は本当に小さかった。あそこで生きて行くには、必要なものが欠け過ぎていた。
作物を育てる畑も無い、飲み水を確保する水源も無い。
“人間が生きていく”為に必要なものが、何ひとつとして満たされていない。
そうなれば……あそこはあくまでも仮の住まい、特定の需要の元に解放されている何らかの施設であると考えるべきなのかも。
「あのお香も……そういうことでしょう。私達もまんまと騙されましたから、効果は覿面でしたね」
ちび——。と、エヴァンスさんは震えた声でミラを呼んだ。
彼女が返事をするのも待たず、彼は酷く怯えた顔をゆっくりと上げた。
恐怖心の対象はお前だ——と、そう言わんばかりに、ミラの方を睨み付けながら。
「——何——何を言ってるんだよ————っ。何でそんな————っ。おえっ——げほっ————っ。なんで……お前達はそんなに冷静で…………」
「…………いいえ、とても冷静ではいられません。ですが…………っ。たとえ奥歯を噛み割ったとしても、私達は考えなくてはなりません。私達の目的を果たす為に——そして、これから生きていく為に」
生きていく為……? と、エヴァンスさんはガタガタ震えながら周囲を見回した。
そしてやっと、どうして街に戻らないんだ——と、錯乱した様子で僕とミラとを交互に見つめ始めた。
お願いだから帰ろう。こんなとこにいたら俺達も——。もしかして——お前らも——
彼の表情からは、そんな疑心暗鬼が見て取れた。
「……話を聞いている余裕なんて、あるわけないですよね。エヴァンスさん。あくまで可能性の話です。
ですが…………あの場所は、あの行為は——街の人達の中の誰かによって意図されたものである可能性が高いのです。
誰かが手引きしていなければ、あんな場所に誰も迷い込みませんから。少なくとも、街の外に興味を抱かないここの人達は」
故に、顔を見られた私達が街に戻れば————クレッグさんの所にお邪魔してしまったら——と。ミラは考えられる最悪の可能性を示唆する。
幸い、もう戻らないかもしれないとは伝えてある。
僕達がこれで戻らなくても、それを理由に探し回ることは無い……と、信じたい。
そうであれば、僕達との関係を知られ、そしてあの集落の連中に目を付けられることも…………っ。
ああ、くそ。考えてるだけでイライラしてきた。
「…………また……っ。また……巻き込んだ…………っ」
可能性はゼロじゃない。
クレッグさんも、役場のおばあちゃんも、凄く優しくて温かい人だった。
僕達が居なくなって、戻らなくなって。不安に思って、探し回ってくれるかもしれない。
いろんな人に話を聞いて回って……いつか、アイツらに繋がってしまうかもしれない。
僕達が街を出て行った所を見た人がいて、探しに行って、あの集落に辿り着いてしまう時が来るかもしれない。
ああ——くそ——っ。最悪だ——最悪の形で因縁を残したかもしれない——っ。
「…………ふーっ。アギトさん。マーリン様の仰っていた通りの方ですね、貴方は。
分かりました、何とかします。マーリン様や魔術翁のような完璧な身隠しは出来ませんが、ハークスは結界魔術にも精通していましたから。
今晩、夜闇に紛れて窯場へと赴きます。私ひとりなら、それも可能ですから」
「っ! 本当⁈ いや……でも、それって……」
おそらく、危険が伴います。私にも、おふたりにも。と、ミラは険しい顔でそう言った。
連中が街に紛れているのならば、当然今日明日と見張りを立てるだろう。
少なくとも、あの行為を他言されるのはマズい筈だ。
それに…………あって欲しくないことだけど…………っ。
「……はい。ですので、誰とも顔を合わせずに書き置きを残してきます。
アギトさん、落ち合う場所を決めておきましょう。今晩は一箇所に留まらず、常に移動し続けていて下さい。
その時に、一定周期で決められたポイントを通って頂ければこちらから合流します」
「…………分かった。無茶は無しだよ、無事に帰って来てね」
無事戻らなければ、おふたりが進めませんからね。と、ミラは苦笑いして、そしてまた真剣な顔で周囲を警戒し始めた。
あの遠吠えは聞こえない。だが……最悪なのは、お香の所為でまだ嗅覚が戻り切っていないことだ。
アイツらがあの匂いに慣れているとしたら……この鬼ごっこは、ちょっとどころじゃなく不利だ。
「——どう————ど——どうかしてる——っ。どうかしてるぞ——お前ら————っ。なんで——なんであんなもん見て、平気で————っ」
「……平気じゃないですよ。ただ……約束しましたから。エヴァンスさんのことは必ず守り抜きます。安全なとこまで逃げ切ったら吐きますから、その時は逆に介抱お願いしますね」
うん、フォローなんてするつもりもなく、本心から思ってる。
絶対吐く、この緊張が切れたら絶対にぶっ壊れる。
僕の神経は細いんだよ、しょうがないだろ。でも…………っ。でも、この瞬間にだけは踏み止まれ。
出来る筈だ、一度はやってのけたことだ。
「————出来る——やれる——やる——っ。思い出せ——大馬鹿アギト——っ」
乗り越えろ、乗り越えろ、乗り越えろ————
かつて、その一歩を踏み出したように。もう一度、あの一歩を踏み出したように——っ。
震える脚をグーで殴って、僕はエヴァンスさんに肩を貸してミラと共に街から遠くへと向かって逃げ始めた。
とにかく、今は人のいない方へ——




