第八十八話【自然の摂理】
お昼休みを挟んで二時間程すると、クレッグさんは僕達に外出の許可をくれた。
元々ひとりでやってた仕事だ。三人も増えたおかげで納品分はとっくに出来てる。そんなことを笑って言ってくれた。
「じゃあ、すみません。今日はこれで。お疲れ様でした」
「おう、お疲れ。気を付けて行ってこいよ」
なんか、保護者みたいだな。
まあ、クレッグさんがいなければこの街で生活出来たかも怪しいし、似たようなものか。
クレッグさんに頭を下げて窯場を後にすると、僕達は急いで支度をして街を出た。昨日の二の舞にはならないように。
「……もし、出発するとなったらさ。今日……明日、遅くても明後日。お別れになるからさ、ちゃんと綺麗にしていこう」
「そうですね。お世話になったんですから、大したお礼も出来ない以上は、せめて失礼の無いように」
十日もいなかった。って、エヴァンスさんはそう言って未練が無いと続けたけど……僕はすっかり後ろ髪を引かれてしまってるなぁ。
思い返せば、そもそもアーヴィンにだって一週間くらいしかいなかったんだし。それだけ濃い一週間だった訳だけど。
ここでの生活だって悪くなかった。毎日大変だけど働いて、隣にミラがいて、エヴァンスさんって友達もいて。
「……はあ。いかんいかん……ホームシックはまだ早い」
ぱしんと顔を叩いて、気合いを入れて部屋を掃除する。
と言っても、今日はちゃんと帰る予定だからさ。荷物をまとめて置いておくとか、洗濯物を畳んでおくとか。
普段からちゃんとしてたらこんなことには……っ。
「…………こんな所でしょうか。そろそろ……アギトさん?」
「いや……その……うん。そろそろだね、行こうか」
元々の生活力が無い僕と、これで意外とそういうことを気にしないと言うか…………今は気にしてられないと言うか。
仕事して、お風呂入って、ゴロゴロ喉を鳴らしながら布団に入って。それ以外の時間は可能な限り調べ物にあてる。なんともまあ研究者然とした時間の使い方だろう。
「おっ、やっと来たか。で、どこ行くんだ」
「お待たせしました。どこ……と聞かれると…………どこでしょう」
おい。と、ミラの返事にエヴァンスさんは顔をしかめた。
だが、うん。ミラの言う通り、それがどこであるのか……まず、なんであるのかを今から確かめに行くのだから。
座標的などこと言う話であれば、ここからぐーっと先に進んで……
「林の中に集落……ねえ。柵と松明と……?」
「集落……と呼んでいるのも、私達の推論でしかありません。
いえ、人が住むものでないのならば、どうしてあんな場所に、それも厳重な防御まで施して作られているのかの説明が難しいので。
まず間違いなく、あの場所は人の為のものであるとは思うのですが」
ちびはたまに難しい言い方をするよな。と、エヴァンスさんはしかめっ面のまま僕の方を見た。うん、それは同意。
ちびじゃありません! と、今になってもその呼び方に反論するミラの頭を撫でて、僕はなんとなくそれらしいフォローをすることにした。
「俺達の師匠がこんな話し方をするもんですから。で、ミラちゃんはその人への憧れが俺よりずっと強くて……ほら、尊敬する人の真似ってみんなするじゃないですか」
「前に言ってたその…………あの、火の玉出したりする術の師匠か? なんてか……やっぱり信じられないんだよな。あんなの、人に教えたり、人から教わったりで身に付くもんなのかよ」
言いたいことは分かる。
ミラはそんなエヴァンスさんの言葉に、何ごとも学ぶことで身に付けるんですよ。と、そう答えたが……そうじゃない、そうじゃないのだよ。
さも当然って顔で学問ヅラしてるけど、僕やエヴァンスさんからしたら一点ものの突然変異みたいな奇跡に見えるんだよ。
それが普遍だってのが異常。そういう能力は、本当に限られた、特別な奇跡の下にだけ起こるもんだと思うんだよ。
「…………? なんだか…………? なんでしょう……変な匂いが……」
「っ。本当だな……なんか……うえ。街の臭いよりいくらかマシだが……またキッツイのが……」
林の中をしばらく進むと、ミラとエヴァンスさんは鼻を押さえて目を細めた。
変な匂い…………すんすん。これは……お香だろうか?
香水とか、アロマとか。いえ、そんなオシャレなもの全然分かんないですけどね?
ともかく、甘い匂いと言うか…………甘ったるい匂いが——昨日は存在しなかった匂いが漂ってくる。
例の建物はもうすぐ見えてくる頃だが、そこから来てるんだろうか……?
「……近付けば近付く程……間違いないでしょう、出所はあの集落です。となれば……やはり、あそこには今も人が住んでいるんでしょう」
「うげ……となったら、次の寝床はこんな匂いのする場所かよ……はあ。どうしてどこもかしこも……」
あはは……エヴァンスさん、めちゃめちゃ嫌そうな顔してるな。
ミラもちょっと……馴染みがあるとは言え、匂いの濃さには参っているみたいだ。
かくいう僕も、正直良い気分じゃない。
そりゃ…………マーリンさんとかエルゥさんみたいなさ、綺麗なお姉さんからする甘くて……こう…………ね。
こう…………そういう匂いは大好きです、でもあんまり嗅ぐと生死に関わるのでそんなにしっかりは嗅いだことないです。じゃなくて。なんて言うのか……
「……めちゃめちゃに香水付けすぎてて、全部混ざっちゃってて……もう……壊滅的な臭いになってるおばちゃんの……」
香水って単語はやっぱりこの世界には無いみたいで……いや、あるにはあるんだろうけど。聞き馴染みのある言葉、物じゃないから。
エヴァンスさんはちょっとだけ眉間にしわを寄せて、こんな匂いをわざわざ身体中に塗りたくってどうすんだよ。と、吐き捨てるように文句を言った。
うん、それ自体は僕も分かんない。でも……でへ、マーリンさんからする匂いは好き……でへへ。
「…………気の所為……でしょうか。アギトさん、昨日よりも……」
「……そう……だね。昨日より暗い……のは、まだ空が多少明るいから?」
明るいから暗いってどういうこったよ。と、自分でも自分の発言の矛盾に呆れてしまいそうになった。
でも、実際そうなのだから仕方がない。
昨日よりも明るい時間に辿り着いたから、昨日よりも集落を照らす松明の火が少ないのだ。
日が沈んでないとは言え、ここは林の中だから。必然、昨日よりも光源は少なくなってしまっているってわけ。
「柵はあっても門は無い、か。やっぱり謎だよね……うーん。とりあえず……お、お邪魔しまーす……」
やっぱりこの柵の意図が不明瞭だ。猪除けも必要無ければ、魔獣なんて以ての外。
僕の顔くらいの高さの柵は、この集落をぐるっと囲っている。
囲っているが……しかし、出入り口は限られるものの、そこを封鎖したり見張ったりということは無い。
防御の為の物ではない……と。だとしたら……うーん?
「……単に、ここが特別であるという主張なのかもしれません。明確な線引きだとか……そうですね。この集落は特別なのだ……と、そういう意味合いが強いのかもしれません」
「えっと……それって……?」
選民思想のようなものでしょうか。と、ミラは嫌そうな顔でそう言った。
選民思想……ねえ。キリエに見られたお金持ちの為のシステムに近しいものだろうか。
だとしたら……うーん、ここにはあんまり泊まりたくないなぁ。
柵の中に入って少しもしない内に、先のお香の匂いの元がここであると確信する。
さっきまでよりも……なんてレベルじゃない。煮詰めに煮詰めたような濃い匂いに、僕でさえ頭が痛くなってきた。
「この臭い……ああ、くそっ。おいアギト、本当にこんなとこに泊まるつもりかよ」
「あはは……やっぱりやめとこうかな……なんて……」
僕でこれなのだから、エヴァンスさんとミラはもう限界って感じだった。多分、これが適応ってことなんだろうな。
ふたりは元々嗅覚が飛び抜けていた。僕はそうじゃない、召喚の際の後付けで尖らせて貰ってる。
それは世界に適応する為——この世界で不都合無く生きていく為のものだから……って。そんな話を、来たばかりの時にミラとしたっけな。
「……と、とりあえず話を聞きに行きましょう。あそこの建物、人の気配がします。いえ……鼻が利かないので、やや自信がありませんが……」
「鼻……ミラちゃん、いつもそんな探し方してたの……」
でも、歩く音と何かを食べてるような音がします。と、ミラはちょっとだけ誇らしげにそう言った。
そう……鼻がダメでも耳で……そう。
しかし、今の僕にも似たようなことは出来る。
ミラの言った通り、まっすぐ行った先の建物の、その半開きのドアの奥から人の気配がする。
息遣いと言うか……? 僕にも分かるくらい、随分呼吸が乱れてると言うか……荒いと言うか……
「——っ。も、もしかして倒れてるとか……病気とか……っ!」
「っ! 可能性はありますね。急ぎましょう」
フゥ——フゥ——と、なんだか苦しそうと言うか……興奮状態にある……と言うか……? ともかく、荒い息遣いが聞こえる。
もしかしたら、病気のご老人かもしれない。
それとも…………ふたりと同じように、この臭いに参ってしまっている人……かも。
どっちにしても、あんまり良い音じゃない。
僕達は急いでその建物に向かって、そして半開きのドアから中を覗き込ん————
「————フ——ッ————フゥ————フシュ——ッ————」
「——すみませんっ! 大丈夫です——か————」
そこにいたのは、ライオンみたいな顔の男だった。
金とも取れるような明るい色のたてがみを持った、鋭い目をした男。
いいや、鋭いなんてもんじゃない。
それが僕達を睨んだから……その正気とは思えない目に睨まれたから————その恐怖から足が竦んだわけじゃない————
「——なんだ————それ————」
————そこにあったのは、羊のような男の顔だった。
何を言ったかは分からない。
いいや、何かを言ったのかどうかも分からない。
ただ————ただひとつ分かっているのは————
「————っ——ミラちゃん————っ!」
「——っ。は、はい! 揺蕩う雷霆——改————ッッ‼︎」
——逃げろ————と、植え付けられた獣の本能がそう叫んだ。
ああ、流石に場数踏んだ甲斐があった。足が震える、手が痺れる。だけど、頭はちゃんと——やるべきことを理解した。
ミラに掛けて貰った強化魔術で、僕は腰を抜かしてしまったであろうエヴァンスさんを担ぎ上げた。
大丈夫、今なら使いこなせる。今のこの強くなった獣の肉体ならば——っ。
それが僕達を追い立て始める前に、僕はミラと一緒に全速力でその場から逃げ出した。
ぐちゃ——ぐちゅり——びちゃ————と、頭の中でたった今目の当たりにした音が繰り返される。
信じられない——信じたくない光景が焼き付いて離れない。
柵なんて飛び越えて林に潜り込む頃、背後からは遠吠えにも似た叫び声が聞こえて来た。
逃すな——と、そう言っているみたいだった。




