第七十一話
街は騒然としていた。魔術翁自ら、街の隅に追いやられた、メズと呼ばれ虐げられている人々の居住区域に足を運んでいるのだ。当然、その場に集まったのはそこに住む人々だけでは無い。道中彼の姿を見た者、噂を聞きつけた者。そして当事者である僕とミラと。この街において魔術の素養とは、つまりその人の価値そのものと言える。少年はこの街で最も優れた魔術師であり、最も偉大な人間であり、最も権力を持つ為政者として、他の誰からも畏怖されていた。そんな彼が余所者を引き連れて……となれば、辺りを埋め尽くさんばかりのこの野次馬にも納得がいくというものだ。
「聞け! クリフィアの長として! 魔術翁としてこの街の民、メズに至るまで漏れなく皆に! 今日この時より新たなる法、通達する!」
まだ声変わりもしていない、幼い——それでも威厳と自信に満ちた声が、静まり返った街に響いて空に消えた。誰もが彼の言葉を待っている。もう僕やミラの事など眼中に無い。この街にとって彼はそれだけ偉大な存在であるのだと、まざまざと見せつけられた気がした。
「——解放令を発す! メズを保有する術師全員に、その権利の放棄を! 保有物として扱われていた者達全員に——権利の再発行をここに宣言する!」
しばらくの間、辺りは静まり返ったままだった。まだ誰も声を発するより前、ミラの手が僕の手を握るのが分かった。小さく、弱々しく。いつもよりずっと冷たい、震えた手だった。そして、老いた術師達の悲鳴にも似たどよめきが堰を切ったように噴き出した。
「——ま——待ってください、翁! それでは我々に——我ら術師に実験を! 研鑽を! 練磨をやめろと⁉︎ 進化の足を止めろと申されるのか⁉︎」
「そうは言っておらん。これは在るべき形への回帰だ。原来、人は人を食らう事を罪として歩んで来たのだ。外界の術師同様、人体実験を用いない研究に励めば良い」
そう、そうなのだ。彼らは間違っている。少年の言っている通りだ。自らの成長の為に他人の人生を食い潰し、権利も尊厳も蔑ろにした研鑽など本来あり得ない、あり得てはいけないのだ。誰も自分が口にしている悍ましい現実に気付いている様子も無い。その事がひたすらに僕の恐怖心を煽った。
「メズ……いや、術師ならざる人々よ! 其方らは解放される時が来たのだ! その重苦しい枷から解かれ、もう一度人として歩みたいものは立ち上がり余の元へ来い! これは其方らに回帰した最初の権利——選択の権利なのだ!」
これで解決する。この街の異常も、彼らの不幸も、僕のこの胸のモヤモヤも。全部洗い流されて綺麗に一からやり直せる。大丈夫。高鳴る鼓動とは裏腹に冷たい汗が頰に流れた。これは……そう、ずっと感じていた不安と。僕が得ていたたった一つの確信だった。
「………………なん……で……?」
僕の手は一層強く少女の手に握られた。冷たい、冷たい氷の様な。震え、掠れ、理不尽にも誰の耳にも届く事の無かった彼女の祈り。ミラの顔を見る事などとても出来なかった。
魔術翁の元へは誰一人としてやって来なかった。ただ、それだけが現実として残った。
少年の一言で衆民は皆戻っていった。少し開けただけの、広場ですら無い道の上に残されたのは、魔術翁とその付き人と、僕と、膝を突き打ち拉がれる少女だけになった。
「…………これが現実だ、ハークスよ」
「……どうして……? どうしてみんな……?」
別に困惑しているのは彼女だけでは無い。僕の頭の中も、ミキサーで掻き回されたようにグチャグチャだった。ただ、彼女より平静でいられるのは、この二人について僕の方が少しだけ知っているからなのだろう。
「あの者達には他の選択肢などとうに無いのだ。隷属を受け入れているのでは無い。隷属せねば生きられぬ世界が出来上がってしまっているのだ」
少年は無味乾燥な、感情を均してしまったかの様な冷たい声でそう言った。ミラも彼を睨む事すらせず、ノーマンさんも悲痛な面持ちで黙っている。僕は……
「人としてこの街で生きようとすれば、それ相応の義務が発生する。だが、彼らにはそれが難しい。術師以外に務まる仕事など、この街には既に無くなった。土壌の痩せたこの地では、己で食う芋を育てる事すら、地術無くしてそれを生業にしようなどとはとてもとても」
彼が言っている事は間違い無く事実なのだろう。誰の悪意も介入する事無く、この街はあの人たちを虐げた。自然に淘汰される弱者として、食い物としてプログラミングしてしまった、と。そう聞こえた気がした。
「……恥ずべき事では無い。生きる為、守る為にはそれしかないとなればそうする。自然で、それでいて勇気のいる決断だ。あの者達は何も悪くない」
「…………それでも……それでもこんなの……」
目頭が熱くなる。僕は必死で涙を飲み込んだ。ミラが泣いていないのだから、僕が泣くわけにはいかなかったから。
「……十年。たった十年だ。たった十年遅かったのだ。其方も。余も」
感情の針が振れたのが分かった。少年は眉間に皺を寄せ、奥歯を食いしばりながら言葉を絞り出す。その姿を、僕は確信していた。彼は……
「…………この街はやがて死ぬ。若い術師は皆徴兵され、残ったのは術師“だった”老人と、人を捨ててしまった人々。魔術の街としてのクリフィアは近い未来に消える。これは避けられぬ運命なのだ、ハークスよ」
苛立ちをぶつける様に、少年は杖を地面に突いた。吐き出す言葉の語気も荒く、悲壮感に満ちた物となっていった。彼が……彼らがこの街を愛し、救い、守ろうともがいている事を。僕は彼らが少女に立ち向かう姿に確信していたのだ。
「——北へ向かえ。其方らが訪れるべき場所がある。其方らが知るべきものがある」
そう言って少年はくるりと背を向けて歩き始めた。屋敷へと戻っていくのだ。分かっていた絶望を目の当たりにして、失意の底で涙も流せぬまま逃げ帰る他無いのだ。僕らは……いや、僕は……
「…………行こう。今度はきちんとお礼を言って、謝って。旅を続けるんだ」
「……分かってる」
僕が手を引くまでも無く、彼女は立ち上がった。そして二人の後を追ってゆっくり足を進める。体はずっと元気になったのに、この街に来た時よりもずっと重たい足取りだった。
屋敷に着いて、二人にお礼と謝罪をした。少年は言った。余はどんな事があろうとも、この街を守り続ける。終を見届け、そしてまた新たな種を蒔く。例えどんな事があろうとも、と。励ましの言葉だったのか、彼の唯一の寄る辺なのかは分からない。分からないが、その言葉は少しだけ明るく、希望を含んだものだった気がした。そして……
「……北。って、言ってたわよね」
「ああ、言ってたな。見当は?」
ミラは首を振った。クリフィアを後にして数十分、すっかり街が小さくなってしまった頃のことだ。もうここには何も無い。街も、建物も、人も、魔獣すらも無い。何も無い草原の真っ只中。
「…………ミラ」
僕は彼女の名前を呼んだ。そして立ち止まって、振り返った少女を強く抱きしめる。もう……もうここには誰もいないから。
「……アギト…………アギトぉ……っ‼︎」
胸が苦しい。ミラは僕の服を掴んでわんわん泣いた。肩を震わせ、嗚咽交じりに思いの丈を吐き出しながら。彼女は誰に憚る必要も無く、大声をあげて泣きじゃくった。
「……悔しい……悔しいよぉ…………どうして……どうしてこんな……」
「……ミラ…………」
僕は彼女を慰める術を持たない。僕はあの街で権利に殺されてしまう弱い人達と同じ、術を持たない人間なのだと痛感する。そして同時に彼女すら——ミラやルーヴィモンド少年の様な術をいくつも知っている人間ですら、どうしようも無い絶望があるというのを知った。声もかけられない自分が情けなくて涙が滲んだ。
「こんな筈じゃなかった……っ! こんな筈じゃなかった——っ‼︎ 私の力は誰かを救えるって……誰かを救う為に培った物だって……っ! なのに……っ!」
初めて会った時、彼女は僕に手を差し伸べてくれて。僕を守ると言ってくれて、その言葉通り守ってくれて。そして、掴んだ手で引っ張ってくれた。彼女が彼女を否定する言葉を口にするのは、とても聞いていられたものでは無かった。なら、僕がするべき事はたった一つだ。
「…………ミラ。もし世界がお前を否定しても、俺はお前を信じる。もしお前がお前を否定するなら、俺はそれを否定する。約束だ、だから——」
ああ、かっこ悪い。流すつもりの無かった涙が頬を伝った。それでも僕は彼女をより一層強く抱きしめて、昨晩散々考え抜いてきた言葉を真っ直ぐに伝えよう——
「お前は俺を信じろ。絶対に……絶対に! 俺はお前の側でお前を肯定し続けてる、って」
小さくて細い体が壊れてしまいそうなくらい容赦無く抱き締めた。それでも涙が止まらないなら、そんな震えも消しとばしてしまえる強い男になってやる。今はただ自分の無力に歯噛みするばかりでも、僕は……俺は……ッ!
「…………アギト……」
ポンポンと頭を撫でられた。震えは収まっていた。ゆっくりと腕を緩め、僕の腕から少女は軽やかに離れて行った。もう、涙は晴れたみたいだ。
「……なに泣いてんのよ! かっこ悪い!」
「…………うるせえよ」
僕は慌てて目尻を拭って、すぐに彼女の後を追った。僕らの旅路は続く。魔術の街。死を待つばかりの術師の墓場クリフィアを背に、僕らは北へと歩みを進める——