第七十話
「あのう……ミラさん?」
「何よ? 今日はちゃんと約束取り付けて来てるんだから、何も文句なんて無いでしょ?」
確かに昨日、少年は僕らに、翌朝解放宣言をするから立ち会う様に。と、要約すればそんな事を言っていた……が。しかし、だ。もう少し常識というのを弁えて欲しいというか……
「まだ空白いよね⁉︎ 朝日昇りきってないよね⁉︎ 流石に世間はまだ夢うつつの中だよねえ⁉︎」
「叩き起こしゃ良いのよ、そんなの。ほら行くわよ、たのもー!」
気に入ったのか⁉︎ その掛け声気に入ったんだな⁉︎ たのもーじゃないんだって! 僕の制止などに貸す耳は無いと言わんばかりに、勢いよくミラはその扉を開けた。普段あんなに礼儀正しくしているじゃない、お願いだからあの二人にも同じ様にしてぇ! すっごい迷惑掛けまくってるんだからさぁ!
「…………まったく、変わらんな。最後の最後まで」
戦いの跡の残った部屋の真ん中で、ノーマンさんは待っていた。まるで僕らが来ることが分かっていたかの様だった。
「ほら、来たわよ。約束はちゃんと果たしてもらうわ」
「ほんっとうに……申し訳ありません……」
どうしてだろう、僕は彼女の味方だった筈だが……? なにやら付いている陣営が違うような……? いや、きっとこれで良い。彼女が無礼を働く時は、僕が全身全霊謝り倒す事でバランスを取る。尻拭いじゃないか‼︎
「……準備は出来ているが、果たしてあの者たちは起きていると思うかね。ハークスの娘よ」
奥からのそりと姿を現し、とてもじゃないが何故気付いてくれなかったのかと言いたくなるような常識的な事を少年は言った。魔術翁ルーヴィモンド。その細身の若者には似つかわしくない重苦しい肩書きを、僕らは今朝まで敵に回していたのだ。
「もう少し休め、ハークスよ。其方、昨日に比べて魔力の回復量が少ない。食事がまだなら宿に戻れ。睡眠が足りぬなら宿に戻れ。それはともかくとしてこんな朝早くに押しかけて来る奴があるか、宿に戻れ」
全く反論出来ない。そう言えば昨日はろくすっぽご飯も食べずに眠ってしまったんだっけ。いや、彼女については眠ってさえいなかったのかもしれない。僕が目を覚ました夜明け前、彼女も同じように起きて…………
「アギト⁉︎ ちょっと、どうしたのよ⁉︎」
突然頭を抱えて転がり悶え出した僕に一同ドン引きだった。思い出すな! 余計な事を! 思い出すんじゃない! 失礼しました、真面目なお話の最中に。すぐに帰ります、はい。
「……ハークスよ。先に言っておく事がある」
僕が平静を取り戻し、彼女の手を取って屋敷を後にしようとした時、少年は重苦しく口を開いた。それは諫言や助言と言うよりも、彼女を案じて紡がれた言葉の様に感じられた。
「…………其方の道行きにはきっと、これ以上の困難と挫折が待っているだろう。行き詰った時、また余を訪ねると良い。その高貴な名と精神性に免じ、特別に許可する」
「…………ありがとう?」
これ以上の……と言う部分が引っかかったが、彼は彼なりにミラのことを認め、心配してくれているのだろう。彼女は分かっていないみたいだったが、この街へ戻れば取り敢えず寝床と食事を準備してくれる…………って事で良いんですよね⁈ セーブポイント的なイメージでいても良いんですよね⁉︎
「では、せめて皆が起きる時間になったらまた来るといい」
「本当にご迷惑おかけしました……」
一向に頭を下げないミラに代わって、僕は二人に深くお辞儀をした。そしてまた彼女と宿屋へ戻って行く。少年の言う通り、今は少しでもご飯食べて眠って。とにかく体力を回復させよう。
「…………なんだか出鼻をくじかれた気分ね」
「出鼻もなにも……フライングだっての……」
彼女も随分元気になったみたいだ。今朝の…………ぬぐああああっ⁉︎ お、思い出さなくていい出来事を…………っ。ごほん。一晩経って落ち着いたのか、雨が止んだからだろうか。ともかくあの暗い顔の少女はもうしばらく見なくて済みそうだ。やはり彼女には笑顔が似合う。
こんな朝早くだと言うのに、食堂のシェフ達は嫌な顔一つせず僕らにまたご馳走を振舞ってくれた。ありがてえ…………ありがてえよお……と、涙せずにはいられない。全く御構い無しに大皿を平らげ続けるミラの姿を、牛飲馬食とはこれを表すのだなと感心半分、もう半分を宿屋とあの二人への陳謝で埋め尽くした朝食を終えて、またさっきの部屋へと戻って行く。告白すると、この部屋とのお別れは惜しい。ふかふかベッドちゃぁん‼︎
「……じゃ、お言葉に甘えてもう少しだけ休んで行きましょうか」
そう言って彼女は…………僕を布団に押し倒して一緒にシーツに包まり始めた。あの……これは……?
「…………ミラさん? あのね? そういうのはね、あんまり不用意に男の子相手にやっちゃいけないんだよ?」
「……何言ってんのよ。ほら、動かないの」
完全にミラの私物と化したアギトという名の抱き枕は、抗議も抵抗も許される事は無く、相変わらず寝付きの良い少女の眠りを見守る職務を押し付けられた。あんまりだ。僕はそんなに眠たくないのに……そうだ。
「……そーっと、慎重に……」
拘束が緩い今のうちに脱出すれば……良し! 代わりに枕をあてがってやれば……良し、食いついた(?)ぞ! これで僕の自由は確保……
「…………アギト……」
散歩にでも行こうかと思っての脱出だったが……うん。やっぱりここに居よう。思い出したのは、泣きじゃくり、動かない筈の体で床を這ってまで僕の事を探していたいつかのミラの姿だった。別に同じ様な事になると思ったわけじゃ無い。無いが、どうにも……うん。それはあまり気持ちよくない気分だ。この間抜けな寝顔を守るのも、きっと僕のやるべき事の一つなのだろう。ちょっとだけ……本当にちょっとだけ嬉しくなって、もう一度彼女の側に腰を下ろした。
日もすっかり昇った頃、ミラはパチリと目覚めた。そして……
「……な…………なななっ⁉︎」
顔を真っ赤にして震えながら僕を睨んだ。うん、ごめんなさい。それは配慮不足でした。そう、彼女は枕を僕だと思って眠っていたわけだ。うん。それを、うん。
「……お、落ち着こうか。僕を殴っても何も変わらない。落ち着くんだ」
やはり鉄拳をお見舞いされた。だがまあ、そうだな。あんなに甘えた顔で抱き着かれていたのだと思えば多少は……いや、痛いもんは痛い!
出血しない殴り方を彼女が覚えたのか、それとも僕のツラの皮が物理的に厚くなったのかは分からない。分からないが、不幸にも鼻血は出ず、鈍痛と顔面中央の真っ赤な腫れを連れたまま、僕達はまた屋敷へと向かった。
「たの——」
「——こちらだ、ハークス。もう支度は出来ておる」
扉に手を掛けたミラを呼び止める声は、意外なことに背後から聞こえた。見れば大きな杖をついたルーヴィモンド少年と、大きな鞄を手にしたノーマンさんが立っていた。いつからそこに? とは聞かないでおこう。多分だが——これはあくまで僕の予想だし、外れている可能性も大いにあるぞ。という意味もバッチリ含んでの多分なのだが、あの少年は多分ミラを出し抜いてやったと優越感に浸りたかったのだろう。妙に声色が明るかったのと、妙にしたり顔なのと。昨日彼女に一瞬でやられてしまった事と、彼の高そうなプライドを考えると……強ち筋の悪い推理では無いだろう。
「では向かおう、ハークスの娘よ。出来るだけ早い方がいい」
少年はそう言って、あの小さな家々の集まる場所へ向かって歩き始めた。それに続いて歩き始めた僕らに——いや、僕一人に、ノーマンさんは待ったをかけた。もしかして……僕はここでお留守番とか……?
「……アギト。頼みがある」
「頼み……? ノーマンさんが……俺に……?」
ミラには聞かれたく無い頼み、という事であろうか。少し離れたところで立ち止まってミラもこちらを見ている。彼女はまだ彼らを警戒している様で、万が一ノーマンさんが僕を襲おうとも、いつでも駆け付けられる。と、睨みを利かせている風にも見えた。
「…………あの少女、間違いなく守り抜け。これは私個人からでは無い。翁の——延いては、この街の総意と思って心して聞くがいい」
ふと思い出したのはアーヴィンの街並みだった。僕は同じ様な事を、あの街でも何度も——何人もの人からも言われてきた。あの街にとって、それだけ彼女が大切な存在なのだろう。と、微笑ましく思っていたのだが……? この街……クリフィアの……? それも、あんなに無礼を働かれた魔術翁からの願い……と言うのは、僕にはイマイチピンとこない。
「それは……どう言う……」
「……すぐに分かる。彼女は正しいのだから」
ノーマンさんはそう言うと、僕を引っ張る様に二人の元へ急いだ。どうやら本当に少年もこの件に噛んでいるみたいだ。何も言わず、何も聞かず、何もなかった様にまた歩を進め始めた。