第六十二話【少しだけ懐かしい】
夜が明けた。
結局、僕はベッドから少し離れた所にシーツを敷いてそこで眠りに就いた。
まあ、流石にね。兄妹でなくなった今の僕達が、以前のように距離感ゼロでくっ付いて眠る方が倫理的におかしな話になってしまう。
だから、納得して寒い夜を過ごしたのだが……
「…………コイツなぁ……まったく」
「……むにゃ…………すぅ……」
目が覚めた時、懐かしい暖かさが背中にあった。
モフモフパワーのおかげなのか、これは。
どうやらミラは、犬っぽさ満点になった僕の布団としての魅力に抗えなかったらしい。
すやすやと穏やかな寝息を立てて、僕の背中にしがみついて眠っていた。
「……そっか。うん……」
僕の背中があれば、またちゃんと眠れるんだな。
マーリンさんから聞いていた睡眠障害なんて話が、ただの妄言であるかのようにさえ感じられる。
苦しさなんて、つらさなんてどこにも感じない。
以前と変わらぬ愛くるしい仕草で、ミラは僕の背中に頭を擦り付けていた。
いや、本当に犬っぽいなお前。
「…………ん……んん……ふわぁ」
おっと、起きたのかな。
以前と違うのは、背中の低い所に——首元ではなく、肩甲骨の辺りに頭がくっ付いていることだ。
だから、ここからはミラの様子はなんとなくしか分からない。
なんとなくだけ分かれば十分なんだけどさ。
ミラの本質がすっかり変わってしまったわけでもなし。妹の生態なんて、僕には手に取るように分かるとも。
今のこれが起床だとするのならば……次は……
「……んむ…………えへへ、ふかふか……すや……」
必ず二度寝に向かうだろう。そういうダメな子だ、ミラは。
いかん……起こさねば……起こさねばならない……っ。
この世界ではミラも勇者ではない、仕事は簡単には与えて貰えない。
早く行かないと、良い条件の仕事は無くなってしまうかもしれないんだ。
いや、この街の役場がフルトや王都でお馴染みの、エルゥさんのクエストカウンター形式かは知らないよ?
でも、そうじゃないって考える道理もまた薄い。
違ったらラッキーだけど、同じ仕組みで早い者勝ちだったなら……やっぱり遅刻は出来ない。でも……
「……んふふ……もふもふ……」
起こせない…………起こせないよ……っ。
気持ち良さそうにしているミラを起こすのが可哀想……というのが九割。
そして、今のミラを——僕に対して、兄妹ではない男の人として接しているミラを、この状況で起こすのはマズいというのがもう九割。
え? 余った? 過剰な可愛さなんだ、仕方無いだろ。
そう、今のミラは僕に対して、羞恥心というものをちゃんと覚えるのだ。
いえ……以前も…………出会ったばかりの頃も……あった筈なんですが……っ。
気付けばすっかり仲良し兄妹になっていたもので、寝起きのだらしない顔を隠すことさえしなくなっていたな。まあそれは良くて。
「すぴー……ごろろ…………すー…………ぐるるる……」
「………………はあ」
このごろごろいってるの、今回は本当に喉が鳴ってるんだろうな。
猫の特徴をいくつか持ち合わせているのだとしても、よりにもよってなんでその機能を得たんだ。
もっとあるだろ、猫っぽいの。
身軽さ…………は、元々あるか。
体の柔らかさ……も、十分。
狭い所に入っていく能力は随一だったな。
夜目が利くのも同じく、鼻もおよそ野生動物には劣らない。
そうか…………お前、猫になって増える能力がそれしか無かったのか……
「……むにゃ…………はっ。あわっ……わわわっ…………起きて……ない……? ほっ」
おや、今度こそ起きたかな?
何やら後ろでごそごそと動き出した小さな猫娘に、僕は可能な限り狸寝入りを気取られぬようにゆっくりと息を吐く。
いえ、狸じゃなくて犬ですが。
ふんふん、すんすん。と、また何やら…………息が……鼻息がくすぐったいんだけど…………?
なんで匂い嗅いでんの、お前。
前から思ってたけど、それは本当に人間としてはおかしい行動だと思うよ?
「…………ふかふか……」
小さく呟いて、ミラはまた僕の背中にくっ付いてきた。
ちょっ、流石にそろそろ起きなきゃ……と、そんな僕の心配を見越したように、小さな体温はすぐに離れて行ってしまった。
とととっと軽やかな足音が少し遠くへと逃げていくのを確認して、僕はゆっくりと体を起こして起床をアピールした。ったく……何も逃げなくても……
「ふわーあ、よく寝た。おはよう、ミラちゃん。今何時?」
「おはようございます、アギトさん。今は…………とりあえず、朝です」
あ、時計とか無いのねこの部屋。いや……時計って概念があるのかも知らないけどさ。
とにかく朝が来てますよ。って、ミラは眩しいくらいに明るい窓の外を指差して笑う。
うん、知ってる。朝が来てるのに二度寝しようとしたことさえ。
「よく眠れた? いやー……この体、結構便利と言うか……都合良い気がする。床の上でも背中が痛く無いんだ」
「うっ……こ、今晩は私が床で寝ますからっ! ごめんなさい、ベッドひとりで使っちゃって……」
ああっ、そういう意味じゃないのに!
今の今まで安眠でしたよ、狸寝入りはしてなかったですよ。って、そういうアピールの為にしたわざとらしい発言が、なんだか嫌味のような意味に歪んで伝わってしまった。
大丈夫大丈夫と必死にフォローしたが…………うう、ミラのことだ、絶対気にするよなぁ。
コイツ、僕以外には結構気を使うタイプだったからな。僕には……何の遠慮も無かったけど……
「さて、仕事探しに行こうか。今晩のベッドの専有権なんて言わず、いっそ大きな部屋を借りられるようにさ」
「そうですね、張り切っていきましょう!」
そう、そもそも今晩の宿のアテなんてまだ決まってないのだから……っ。
何せ朝ごはんを食べるお金すら無い。
身に迫る危機を感じ、僕達は気合を入れて街役場へと向かった。
役場に着くと、そこは僕達の知る受付とは随分雰囲気の違うものだった。
僕達……の中に、残念ながら秋人は含まれない。
アギトとしての経験だけと言うか……秋人として役所に行ったのなんて、本当にまだ数回だけで……じゃなくて。
僕とミラにとって、市役所といえば…………んまあ、まず真っ先に浮かぶのはオンボロな頃の自宅なんだけどさ。それも忘れて、と。
「……随分……静かと言うか……」
「それだけみんなの生活が安定しているんですね。仕事上必要な申請や手続きだけになれば、私達の世界の役所もこのくらいになるのでしょうか」
アーヴィンのボロ役所は別として、基本的にどの街の役所……ないし案内所というのは、概ねごった返しているものだった。
と言うのも、とかく他所の街からやってくる人が多いのだ。
魔獣の脅威から逃げて来たもの、そして新たな地で仕事を始めなければならないもの。
かつての僕達のように、魔獣の討伐依頼を請けてお金を稼ぐもの。
街の中で発生した仕事のあれこれや、役所の中で解決されるべきどれそれが埋もれてしまうくらい、外から入ってくるトラブルが多い国——世界だったから。
それを取っ払うと、案外あの世界の市役所もこのくらい……カウンターよりこちら側に数人が待っている程度の落ち着きを見せるのだろうか。
「とにかく、日銭を稼がないとな。ええっと……因みにどんな仕事が得意?」
「私は…………うーん……ええと」
やっぱり魔獣の討伐ですね。と、ミラは困ったようにそう答えた。
うん、知ってる。知ってるけど…………それは本当に困った話だ。
この世界には魔獣なんていない……と、思う。
そして…………生活を脅かす害獣も、多分いない。となると……
「……果たしてどんな仕事が出来るだろうか」
パン屋さん……接客業ならなんとか……っ。
これでも本職だからね、えへん。
でも……ぐっ、絶対ミラの方が上手にやるよな……っ。
負けたくない……絶対勝てないと分かってても、正社員になったばかりものとしては負けたくないのだ……っ。謎のプライドが芽生えてるな、僕。
「おはようございます。本日はどうされましたか?」
「ええと……実は他所から来たばかりで、仕事を探してるんですが……」
それでしたら……と、受付の…………ええと、クマ……? アライグマ……タヌキ? とにかく、黒くて小さくて丸い耳をした女性は、僕達に現在募集中のアルバイト……のようなものの一覧を見せてくれた。
どの世界にもあるのね、こういう求人って。
ええっと……なになに……
「……ふむふむ……収穫の手伝い、山菜採り、荷物の運搬……」
どれも単純作業ばかりだね。
どうやらこの街は、街の中だけで十分に成り立っている…………外の街へ何かを運んだり、外からやって来た何かを広めたりと、そういったことがあまり無いみたいだ。
その……僕達の推測通り、この世界に人以外の哺乳類が居ないとするなら、運搬用の馬車というのも無くて当然なのだし。
「……よし、じゃあ…………どれにしようか……?」
「…………そうですね……とりあえず、一番いろんな場所に行けそうな仕事……多くのものを見られる仕事を受けましょう」
もっとこの世界について知らないといけませんから。と、ミラは鼻息を荒げてそう言った。
そうだね、今はひとつでも多くのヒントが欲しいもんね。
僕達にとってこの世界はあまりにも異質過ぎて、まだちょっと自分の立ってる場所が何で出来てるのかを把握するには時間が掛かりそうだ。
地面を這うにしたって、手を突く場所も見えない。
とにかく歩き回る為に、僕達は役所が出している荷物の運搬の仕事を請けることにした。
ちょっとだけワクワクするなぁ……うふふ、夢にまで見た平和な仕事だぁ……




