第六十九話
家に着いたのはお昼ご飯の時間をとっくにすぎた頃、午後二時半だった。まさか乗った電車が見慣れた街並みをスルーするなんて思わなかった。恐るべし、快速。何故あんな人っ子一人居ないような駅には停まるんだ、快速。
「……さあて。どうしようかな」
どうやって時間を潰そうか、とはもう考えなかった。今考えるべきはお昼ご飯と明日のバイトに着ていく服と、それからダンロードが終わってなかった時の絶望の乗り越え方と。とりあえずはご飯だ。何が出来るでも無いからレトルトになるんだけど……まあ、仕方ない。せめて野菜を茹でてラーメンに乗せるとか……考え付いたのだからやればいいのに、どうにも億劫がってしまうのもなんとかしなくては。
即席麺ふた袋をさっさと平らげて僕は急いで部屋に戻って服を着替えた。忘れないうちにこれは洗濯カゴに……クッセ⁉︎ ヴォエっ‼︎ おっさんの汗の匂いヤバイな……牛乳拭いた雑巾で包んだ納豆みたいな臭いがする……いえ、そんなの嗅いだ事は無いんだけど。自分の臭いに吐き気を催すなんて地獄を涙ながらに乗り越えて、僕はPCの画面をチェックした。涙で歪んでよく見えなかったが、どうやらダウンロードは済んだようだ。
「さあ、慰めておくれ……可愛い可愛い…………ガッデム! 追加データダウンロードだってぇい⁉︎」
心は折れた。そんなの初回ダウンロードでいっぺんにやっちまえよ! そんなことしたら明日になってもダウンロード終わんなさそうだけどさ⁉︎ 一気にテンションが地に落ちた。さあどうしたものか、僕の予定は全部消化済みだ。ログインボーナスすら貰えていない様な、ひどく打ちのめされた様な気もする。ついこの間まで何の予定も無いのが当たり前だったっていうのに……
残り時間は106分。これはアレだ、今日はやれないパターンだ。バイト代貯めてPC買おう。古いとはいえスペックはそこそこ高いの使ってた以上、これまでと同じ様に遊ぶにはそこそこ貯めなくちゃならないかな。どのくらい貰えるんだろうなあ……まだ一日しか働いていないのに、これでは取らぬ狸のなんとやらだ。
「……早く明日に……どっちでもいいから明日になんないかなぁ」
焦りからでは無く、今度は純粋な待ち遠しさで僕はそう呟いた。昨日は散々だったけど、明日になればまたバイトに行ける。良かった、初日クビなんてことにならなくて……と、いかんいかん。ようやく変わる為のスタートラインに立てるんだ。ようやく、この迷子みたいな生活から一歩踏み出せるんだ。アイツに会いたい、でも早くこっちも進みたい。なんだろう、僕は凄く贅沢をしているんじゃないかと思った。
さて、時間は進まない。どちらの明日への期待も、高まれば高まるだけ今という持て余した時間に焦ったさを感じさせる。せめてゲームを……121分! 伸びてるじゃないか‼︎ ダメだ、本格的にやる事がない。ならもう眠ってしまおうか。明日……こっちの明日もバイトがあって、朝ちゃんと起きなくちゃいけないんだから。早寝早起きは習慣付けるべきだろう。いえ、昼間の四時前から眠るって、まあ生活サイクルとしてはガッタガタな気もするんですけどね?
「…………そうだ、なんて言ってやるか考えとかないとな」
ダウンロードも絶望的で、僕は向こうに戻った時あの少女にかけてやる言葉を考えることにした。元気が無かったのはきっと不安だからだ。ならその不安を僕が少しでも取り払ってやろう。例えばどんな言葉? そうだなあ……
「大丈夫。俺が側にいるよ」
却下。これはダメだ。ただしイケメンに限るってヤツだ。自信過剰にも程がある。次。
「お前は立派にやれてるよ。心配すんな」
これは……却下。上から目線過ぎる。何者だ僕は、一応相手は将来の上司だぞ。あとキザっぽいからこれも米印案件。次。
「大丈夫? おっぱい揉む?」
いっそアリな気もしてきた。いやいや、どう考えても犯罪だよ。しかも僕ならともかく、アギトの体では揉むほど無駄肉着いてないし……アイツもぺった……下手に声に出るとマズイ、考えない様にしておこう。何回受けてもあの鉄拳は痛い。はい、次。
「……イケメンじゃなくても許される、上から目線にならない励ましの言葉……無理では……?」
ダメだ、僕のボキャブラリーではこれが限界だ。布団の中でいくら必死に考えても、人生の経験値が圧倒的に足りていない。はて、どうしたものか……いっそ母さんに聞いてみようか。何を? まさか、小さな女の子の慰め方だなんて聞こうもんなら……母さん、勘違いして泣くぞ⁉︎ 遂に犯罪に手を……って、泣くよ⁉︎ 僕なら泣くもの!
「……なにか……無いかな……」
無い頭を必死に絞って、彼女を少しでも勇気付けられそうな言葉を考える。しょうがない、やはり二人に相談して……詳細はボカして、相談しよう。そろそろ母さんも帰ってくる頃だ……
部屋が暗い。知らぬ間に夜になっていたのか。早く二人に相談……ああ、違う。そうか、これは日が暮れたんじゃない、日が昇っていないんだ。慣れない柔らかな布団と温かいものに、僕は今いる場所を思い出す。ここは僕の部屋じゃない、旅の先に辿り着いた魔術の街クリフィア。しかしなんだろう、体が妙に温かいと言うか……湯たんぽでも抱いているかの様な……
「……こ、これは……っ⁉︎」
腕の中に件の少女がいた。い、いいいいい一体何をやっているんだ⁉︎ お、落ち着け! 騒げば起こしてしまう‼︎
「…………ははーん、さては」
僕の冴え渡る推理はこうだ。不安や焦り、それに慣れない枕に寝付けなくてまた僕の背中を求めて潜り込んだんだろう。そして寝ぼけ眼に僕の表裏を間違えて抱きついてそのまま……って寸法さ。理由としてはまず間違い無くコレだろう。登場人物がミラと抱き枕一号って感じがして、なんだか少し寂しい気もしたが……気にしない。
「まったく……もう少し警戒心を…………」
僕は知らず知らずのうちにミラの頭を撫でていた。ち、違うんです! 事案じゃないんです! 通報だけはしないでください‼︎ なんか、ちょうどいい位置にあるもんだから、つい‼︎
「…………警戒……しなくていいか。ちゃんと俺が守っててやるから」
軽い小さい体をぎゅっと抱き寄せて髪を撫で続けた。どうせ起きているミラには恥ずかしくてこんなこと言えないわけだし、いい機会だから口にしておこう。僕は彼女を守る。彼女が僕にしてくれた様に、困っている時は手を差し伸べるし困っていなくても手を取って一緒に歩いてやる。それくらいしか返せる物も無いから……って理由じゃなければ、もう少し格好もつくんだが……
「しかしこうしてれば本当に可愛いなあ。寝坊助め、どれ寝顔でも拝見……」
しこたま撫でくりまわした後、僕は真っ赤になったミラと目があった。殺してくれ。いっそ殺してくれよ! 堪らず飛び退いて、勢いのままベッドから落ちてうつ伏せのまま顔を両手で覆った。殺せよっ! 殺してくれよッ‼︎
「…………えっと、ごめん……? 大丈夫? すごい音したけど……」
「……一体いつから起きてらっしゃった……?」
「えっと、言いにくいんだけど…………ずっと……」
勘弁してくれ……穴があったら一生入っていたい。頭を撫でたとか抱きしめたとか、それはまだ良い。良く無いが。そういうスキンシップについてはだいぶ慣れた……慣れては無いけど、ミラが割とグイグイ来るもんだから、多分向こうもそんなに気にしてない。筈。だが……ああああああああ——ッッッ!
「忘れろ! 忘れてくれ! いっそ殺せ! もう殺してくれよ‼︎」
「お、落ち着きなさい……」
あくまで! 下心とか抜きに! ちょっとくらいは入ってるかもしれないけど……限りなくゼロに近いから! あくまで! 兄貴分として! ほっとけない、危なっかしい妹の身を案じてだな⁉︎
「…………本当に、申し訳ございませんでした」
「何に謝ってんのよ」
身を乗り出して覗き込んでくるミラに、僕はただただ陳謝した。けらけら笑ってみせる少女に余計に顔が熱くなる。本当……勘弁してくれ……
「…………見てアギト! 朝日、綺麗よ」
彼女の言葉通り、部屋に真っ白な光が入り込んできた。窓から外を眺めると、成る程これは綺麗だな。昨日の雨のお陰か、遠くに虹が架かっていて。朝霧で白く濁った街並みを塗りつぶす様に、鮮明な青がどんどん広がり始める。きっと、これがクリフィアで見る最後の朝だろう。大きな目をまた輝かせた少女に手を引かれ、僕らは宿屋を飛び出してまた屋敷へ向かって走り始める。