第六十話【獣であること】
最初は気持ち速歩きくらいの速度だった。
けれど、気付けば僕達は、ランニングよりもちょっとばかし速い程度にまでペースを上げていた。
急ぐ理由も勿論ある、少しでも長くこの初日を有効活用したいのだから。
でも、そういうちゃんとした理由で走ってるわけじゃない。
今僕は、“走れるから走っている”に過ぎない。と言うのも……
「——うぉおおっ! すげぇ! 体がめちゃめちゃ軽い! なんだこれ!」
「見た目通りに身体能力が強化されているのでしょうか。むむ……私には特に何も無いのに……」
大体半分くらいの獣の肉体を得た今のアギトは、どうやら魔術無しのミラと変わらないくらいの運動能力を発揮出来るらしい。
てことは……そうか、そうだったか。ミラ……お前、かなり野生に帰ってるとは思ってたけど、これだけ獣化してやっとトントンレベルで…………っ。いや、そんなことは良い。
これは快適だ、全然息も切れない……って、ことはない。
でも、息が切れないくらいの運動強度でもそこそこ速い。これは良い、凄く良いぞ。
「これなら……これなら俺ひとりでもやれることが多そうだ。ミラちゃん、今回はいっぱい頼ってくれて良いからね」
「あはは……はい、頼りにしてます。でも、無茶はしないでくださいね?」
任せて! と、自分のものとは思えない軽い体に気分も浮かれ調子だ。
でも……もしもこの世界に敵が——魔人の集いのような明確な悪者が出て来るとしたら、それは非常にマズイことになるな。
ミラはこの獣化による身体強化の恩恵をほとんど受けられていない。
世界に適応するには、これで十分だという判断を下されているんだろう。
だがそれは、同時にこの世界の標準とそう変わらない能力であると——相対的な弱体化が施されているのと同じこと。
「……一応、魔術が使えるかどうかも確かめておこうか。いざという時にダメだった……じゃ、困るもんね」
「そうですね。もう少し街から離れて、森の中にしっかり隠れてから試してみましょう」
この世界では、ミラの身軽さや、目や鼻の利きの良さは、さしたる武器になり得ない。
魔術による強化の上積みだけで、果たして世界を滅ぼす程の悪と戦えるだろうか。
自分の強化とは裏腹に、ミラは随分と苦しい状況に置かれている。
それが分かっても尚、僕の胸は高揚し続けた。簡単に出来てるなぁ、本当。
「——とりあえずここまで来れば……よし」
「っとと、そうだね。いやーしかし…………? ん……なんか……暑いってか……熱い……息苦しい……?」
おや……? なんだろう、慣れない運動で疲れたか?
いくら強化されてるとは言え、そもそも運動は苦手分野だ。
僕も僕で、この獣の力を持て余してしまいそうだなぁ……なんて……思って…………
「…………っ……なんだ……なんだこれ……熱い……っ。全身が焼けるみたいに……っ!」
——おかしい——
さっきまでは平気だった……わけじゃないのかも。
もしかして、浮かれ過ぎて自分の不調にも気付けなくなってたのか。
息が……息が苦しい……っ。胸の奥と、お腹と、手足と…………本当に全身が熱くて…………っ!
「…………ああっ! アギトさん! 舌! 舌出してください! 走ったからですよ!」
「舌……? 走ったって……それだけでこんな……」
汗をかけないんです! と、ミラは僕の口を力尽くでこじ開け、そして舌ベロを引っ張り出した。
お、お前は閻魔様か! でも…………ああ、成る程。
「こ、これ……ひい……ひとりだったら……ふう……ヤバかったかも…………はひぃ」
「私と違って、全身毛に覆われてますから。体温の調節も、どちらかと言うと犬のそれに近いのでしょう。うーん……良し悪しですね、もふもふしてるのも」
うぐぐ……うっかりしたな、これは。
いざ舌を出してみれば、意外な程にすんなりその行動が体に馴染んでいく。
どうやらこれも……発汗機能の代用として、自然に体がこうなるように適応させられていたみたいだ。
でも、僕の人としての理性が——ミラの前であんまりかっこ悪いことしたくないって考えが、無理にそれを抑え込んでいたらしい。
まあ……人前で口を開けて舌を出して……なんて、人間として生きてる以上は中々やらないし、やれないもんね。
「他にもあるかもしれませんね、人よりも獣に近いなんらかの特性が」
「犬っぽい行動が増える……ってことか。うーん……」
おしっこする時片足あげなくちゃならない……とか? そ、それ嫌だなぁ。後は……マーキングとか。
店主さんがやってたけど、もしかして匂いを嗅いで相手を識別する……とか、そういうのも知らない間にやるようになってるのかも。
とにかく、今は人としての理性が勝ってる状態らしい。
慣れたら……多分、ずっと犬に近くなるのだろう。
「…………ちょっと嫌になってきたな……この体……」
「ええーっ。折角モフモフしてるのに……」
お前……僕のこと、完全にティーダと同じものとして見てるよね……?
いや、それで抱き着いてモコモコしてくれるなら大歓迎だけど。
おいでおいで、抱っこしてあげるから。
睡眠障害のことも解決しなくちゃならないしね。僕にくっ付いてれば眠れる……って、そういう話なら、抱き着く口実が出来たのはある意味ラッキーだ。
「……さて、じゃあ…………揺蕩う雷霆・改っ!」
バチィッ! と、鋭い音がして、そしてミラは全身に青白い稲妻を纏った。
纏った、いつも通りに。いつも通りなのだ…………いつも通りだったのだが…………
「————いたたたたたっ⁉︎ 耳がっ! 耳が痛いっ⁉︎」
「…………ああ、そういえば……」
貴女、髪の毛で発電してるんでしたっけ。
普段は無いものだから、気を付けてなかったのかな?
本来は存在しないケモミミに高圧電流が流れたらしく、ミラは凄くつらそうな顔で頭を——頭の上に付いている耳を抑えて蹲った。
「いたた…………うう、なんでこんな目に……」
「あはは……よ、良かったね、早めに試しておいて」
これが実践の、本気の魔術だったら…………ごくり。
強化魔術の発電量は比較的少ない……んだと思う、僕を背負って使うことも多かったし。
でも、放電系の魔術だとヤバそうだよなぁ。
「……雷魔術は封印ですね。流石に全部の術式をいちから組み直すのは手間が過ぎますし、それに……そうして出来たものが、以前と同じ感覚で使えるかも怪しいですから」
「えっ⁈ そ、そこまで重大な問題だったの……? てっきり、耳のとこだけ上手くカバーすれば平気な話かと……」
簡単な問題程、解決は難しいんですよ。と、ミラはちょっとだけ不満そうに僕のお腹を突っついた。そ、そういうものなのね。
しかし……うぐぐ、更に問題が大きくなったぞ……?
雷魔術が使えない。となれば……現状のミラのスペックは、世界規模で見れば平均と変わらない身体能力と、出力制限の掛かった炎魔術だけ。
他にも僕の知らない魔術はいっぱいあるだろうけどさ……でも、どれも雷魔術には遠く及ばないわけで。
うぐ……うぐぐ……ミラがどんどん弱く…………
「…………この感じも懐かしいな。結局強かったけど……」
「……? アギトさん?」
ミラが弱くなるのはもう恒例なのだろう。
そもそもインチキくさい強さだったしな、何かにつけてナーフ食らうのも納得だよ。
でも、旅の間はマーリンさんがいてくれた。今回は……
「……いやいや。だからこそ俺が頑張らなくちゃな! 今のところ平和そうだから良いけど、何かあったら俺に任せて!」
ミラは黙って……そして、なんだか優しげに微笑んだ。
なんだよぅ! そんなに頼りねえかよぅ! 自覚はあるけどさ。
「……さ、さて。山菜採りに向かいましょうか。ええと……店主さんの言ってた場所は……」
「…………そうだね。えっと……もうちょっと登ったところ……だったよね」
露骨な誤魔化し方しやがって……っ。
しかし、あんまり遅くなってはいけない。迷惑を掛けることになるし、それに逃げたと思わせてしまいかねない。
それは良くない。あんなに優しい人に疑わせるのは心苦しいのだ。
「しっかし……ここまで、まだ一頭も……」
「そうですね。虫はいるみたいなんですが……」
そしてもうひとつの目的、野生動物の捜索。
この世界がいったいどうなっているのか。延いては、どういう破滅を迎えてしまうのか。僕達が最優先で確認すべき事項はこれだ。
人々に獣の特性が付与されている以上、獣側にもなんらかの変化があって然るべきだろう。
それがどういう形で現れているのか。まるで予想も付かないけど、だからこそ早く調べなくちゃ。
「アギトさん、また走っても大丈夫ですか? どこか痛みがあったり、まだ熱っぽかったりとかは……」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
ミラは僕の返事に小さく頷いて、そしてまた静かに走り出した。
ふむ……足音が小さい……ってことは、ミラに加わったのは猫ちゃんなのかな? いや、流石に安直過ぎるか。
「…………あっ、ありました! ええっと……これと……あっ、あそこにも!」
「いっぱい見つかるね。ふむ、ここら辺が店主の言ってた……」
山菜の採れるポイントなのかな? 僕の目にはどれもただの雑草にしか…………げふんげふん。
こういう時には、やっぱりミラの知識に勝るものはない。
ふふん、うちの妹は優秀な錬金術師でもあるからね。薬学……薬草や栄養価の高い植物、木の実を判別する能力に長けているのだ…………と、思うよ。
結構ワイルドな材料使ってるしね……ポーションとかも……っ。
「……アギトさん、どうかしましたか?」
「あー、いや……うん。その、ポーションの材料に使えそうなものも集められたら良いなー……って」
そう、僕の目の届くところで……っ。よく分かんないものを、知らない間に手に入れられてたら困るのだよ。
ムカデの足とか、カエルの生き血とか。黒魔術じみた材料を使うイメージが勝手に染み付いてる。
いえ……その現場を一度目にしているからなのですが……
「ポーション……ですか。そうですね……もし戦いになったなら、薬の類はあるに越したことはありませんしね」
ん……何、その微妙な反応……? っと、言いかけたところで思い出した。
そう言えば……もう、ポーションなんて必要無い体なんだな、ミラって。
いや、すっかり……忘れてたわけじゃないけど、自己治癒の呪いがあることと回復薬が必要無いことが、頭の中で上手く結び付いてなかった。
そうか……そうだよな、怪我なんて全部治るんだもんな……
「……でも、あんまり無茶はしないでくださいね。アギトさんは魔術も使えないんですから」
「え……あ、ああっ。分かってるよ、無茶はしない」
どうやら、俺が前線で戦うんだ、とか言い出した……って、勘違いされたな、これ。それが出来るならそうしたいけどさ。
僕が随分強くなって、ミラが相対的に弱くなったとしても、結局経験値や精神性の差は覆らない。
僕は守られる人間、ミラは守る人間。
でも……僕もお前を守れるように頑張るからな。
山菜採りにポーションの材料集めも加わって、ミラはふんふんと鼻息を荒げながら採取に精を出した。
僕は…………僕は…………っ。僕にも見分け方教えてくれよぅっ!




